2009年1月22日木曜日

概略:日本の近代政治の考察 明治維新の政治の流れ

 明治維新政府は、日本の鎖国体制社会からどのような方向を目指したのか?
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 19世紀末において、約350年間の鎖国して来た江戸幕府、徳川体制の鎖国政策で、近代技術の文化のレベルの遅れにより、外国の圧力に対抗できなくなり、幕藩体制が不全になって、その生きづまりを打開しようとした革新勢力が、徳川幕藩体制を打ち倒して、改革を始めたのが明治維新政府であった。 
 
徳川幕府側からみれば、温室的な政治的独裁、専制的な体制が長きに渡り維持されてきたのである。
 
外国の文化が急激に影響してくるようになり、徳川専制体制の温室的な独裁政権の権力の威光がなくなってしまった。

このことは徳川政権の支配権の終わりを意味していた。振り返り眺めるならば、徳川幕府は、16世紀における戦国時代を勝ち残り、当時の国内の勢力争いの厳しい闘争で、民衆が殺し合いの混沌とした社会に新しい秩序を築く目的で、戦国の時代を終わらせることができたのである。
 
この目的において、民衆の支持があったから、新しい支配者の国家体制を築くことができたのである。闘争を経て、生まれて来たのである。
 
西洋諸国が世界への領土支配権を拡張、拡大する範囲が、16世紀頃から、徐々に巨大になってきて遂に日本まで勢力を伸張してきたのである。
 
キリスト教の布教の拡大に伴って、アフリカ、中近東、インド、インドシナ半島(インド・チャイナ:語源)、中国等に植民地を築いてきたのである。
 
この明治の維新体制は、この巨大な西洋の勢力に如何に立ち向かおうとしたのであろうか。
 
やはり、幕末において、英国や他の国の近代的な武器で、負けた経験から、西洋の強さを表わすその軍事用の武器を作る技術を西洋から学びとることを最大の課題としたのである。

 13世紀において、日本の鎌倉政権は蒙古軍の侵攻を何とかくい止める事ができた歴史があるのであるが、これは、蒙古の遠路の遠征軍と国内での地理的な有利さと天候が幸いして、かろうじて、勝てたのである。
 
 鎌倉幕府に有利に働いたその時の天候を神風と呼称するようになった。
 
 明治政府は急いで、西洋の近代技術を学び取り、西洋に対抗しようとし、懸命の富国強兵制度をつくり、その努力が国民に求められた。
 
 その結果として、その時代の中国の清朝政府やロシアを打ち負かす程の戦艦の造船や艦船の砲台等の近代技術を身につけたのである。
 
 その国力を増した日本は、当初においての目的は、その相手としての植民地主義の西洋に勝つことであったが朝鮮半島、満州国や中国本土に植民地的な支配の領地を求めるように変質してしまったのである。 明治の最初の目的は、西洋に負けない国家を作るための目的がいつの間にか変質し、自分たちが、西洋流の植民地政策を取り入れて、中国へ侵略を開始して、そのような勢いの結果として、第二次世界大戦に突入していくのであった。
 
 西洋の国々だけでなく近隣のアジアの諸国をも敵にしてしまったのである。
 
 その結果が日本の大戦の敗北であった。
 
 このことから、この歴史の中から、何かを学び取ることが必要である。

 現代において、世界の武器の技術は果てしのない拡がりを持ち、地球全体の人類を一瞬にして、滅ぼすほどの規模に拡大している。
 
 世界の紛争の大半は、自国の資本主義の拡大と擁護を目的とした資源の奪い合いの結果として、資源領土の支配や保持ために武力を行使することが原因で引き起こされて、今も続いているのである。
 
 これでは、果てしのない紛争が続くだけである。 また、武力の強いものだけが、生き残るだけである。
 
 他の人を殺してまでも、国富を求め、企業の富を積み重ねても、人々は安心した生活を送ることはできないのである。
 
 この解決が、現代の人類に与えられた最大の課題である。

 世界中のすべての国民が等しく、生きる権利を所有しているのである。
 
 人は最大の知恵の資源であることを時の権力者は、学ばなければならない。

 そして、権力者が権力に拘泥し、傲慢に至った時には、その支配者は必ず支配される人々により、滅ぼされるのである。
 
 これが人類の歴史である。
 
 為政者はこのことを銘記すべきである。

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