ノアの箱舟を創ろう Let us Create the Super Ocean-Floating-Structures such as the Noah's ark.

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Monday, November 30, 2009

【元外務事務次官が証言「核密約あった」 TBS NWES 【ビデオ】】

【出展引用リンク】: 元外務事務次官が証言「核密約あった」 TBS NWES 【ビデオ】


http://news.tbs.co.jp/20091123/newseye/tbs_newseye4290790.html




【引用始め】以下の通り

=================

 核兵器の持ち込みをめぐる日米の密約問題。「来年1月に白黒がはっきりする」、岡田外務大臣は週末、このように述べ、改めて密約解明にかける意欲を示しました。そんな中、かつての外務省のトップ、事務次官を務めた人物がインタビューに応じ、明らかに密約はあったと証言しました。政府の中枢にいた人物、カメラの前で初めての証言。ビデオでご覧ください。(23日18:46)

Sunday, November 29, 2009

風力発電とエコキュート 新しい低周波音被害

【風力発電とエコキュート 新しい低周波音被害】  



【出展引用リンク】:  


  http://www.geocities.co.jp/NatureLand/9415/sikou/sikou21_080308furyoku.htm  





【引用始め】以下の通り :(上記原文リンク参照)

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このところ(08/11)これまでと違った新しい音源による低周波音で健康を害している人々が続出している。一つは'06ころから苦情を聞く様になったエコキュートの騒音によるもので、もう一つは私が知ったのは'08春になってからであるが、被害現場では'07から急激に出始めている風力発電の騒音によるものだ。

この二つは、一見してまるで関係ない別物の様だが、この両者には3つの共通点がある。

①いずれも騒音源が「省エネで環境に優しい」と言う謳い文句で、国策による(国からの補助金がある)”時代に沿った機器”であること。
②いずれも静かな環境で低周波音を長時間にわたり継続的に撒き散らすと言うこと。
いずれもこれまでの低周波音被害と言われていたモノの様にほとんど潜伏期(機器の稼働と健康被害発症の遅れ)などを経ず、機器が稼働した直後から、音と振動と圧迫感を感知し、低周波音症候群的症状を呈すると言うことだ。
エコキュートについては「経済性と低騒音」が売り物なのだが、これについては既に拙文「"科学的"知見の欺瞞 静音化、低騒音そして参照値 エコキュートは本当に経済的で静かなのか」で述べたように、長期的に見れば決して経済的ではないし、低騒音、静音についてもその問題点について指摘したので詳しくは参照していただきたい。なお、08/12 当初の設定を変えないとエコキュートは経済的でないことが報道された

1.エコキュート騒音
今回は私的時系列として、汐見先生や関係者の方により現地で測定されたデータを基に、エコキュートの「静音」について具体的にまずはひとまず述べたい。エコキュートの騒音は確かに静かではあるが、問題はそれが現実的には生活音などほとんどしない深夜11時頃から明け方6時頃まで継続すると言うことである

この時間帯は、そもそも人間の活動が鈍り、電気の消費量が落ち、電気料金が比較的安価に設定されているので、エコキュートはこの間の電気を使用して、翌日の昼間から夜間の一日に必要であろう一定量のお湯を沸かし保温しておく様に設計されている。稼働時間に関しては機器の大小(湯沸かし量)は関係なく、いずれも7時間前後である。


静か」と言っても、その間何の音もしないかというと、もちろんそうではない。ある測定では図1クリックで拡大のように12.5Hz~80Hzと言う超低周波音から低周波音域で5025dBと言う、数値的には、むしろ、暗騒音の方が大きいのではなかろうかと思ってしまうくらいの“静かな騒音”は発する。

この”騒音”が、多分、これまでのような普通のボイラーが湯を沸かす程度の短い時間なら全く問題は無いのであろう。だが、それが”低周波騒音問題”となるのは、それが

①毎日、深夜に
②長時間(7時間程度)
③機械音を延々と発し続ける

と言う点に問題があるからである。

その“騒音”である「静かな振動とうなり」は、機器の稼働中発せられ続け、非常に狭い地域に、具体的に言えば、その機器の室外機が設置された方向の家の特定の部屋にだけに低周波音を発し続け、結果として人間に被害を与える
ただし、周囲が静かであればあるほど、その他の部屋にも影響がある場合もある。

この「静かな振動とうなり」が時として被害者に襲いかかり、睡眠を奪い、被害者は苦しみ、痩せ細り、果ては全身が衰え、日々の生活もままならなくなり、明日への生活力を無くし、地獄のどん底に落とし込まれた被害者は、果ては生きる力まで奪い、死に至る場合もある。これは医学的には、あくまで騒音で死ぬのではなく、それがもたらす影響の苦しみに耐えられず、自殺するのである。ここらが化学公害、ももちろん因果関係の実証は難しいのであろうが、それ以上に個人差も大きく因果関係を証明することが非常に難しい感覚公害の最大の特徴ではなかろうか。

結果としては、いわば「騒音による殺人」であるが、その方法は、「ブスリ」と一気にやるのではなく、長期にわたりジワジワと慢性的に責め続け、詰まるところは”本人が勝手に死ぬ”のであり、格別な証拠は残らないし、殺人というわけでもない。これが「エコキュート騒音被害」だ。


”エコキュート殺人”の真犯人は、図1の12.5Hz25Hz(常用電流の1/4と1/4の周波数)を主とする「唸り」と、12.5Hzが引き起こす(空気)振動と考えられる。

※周波数を低く(数値を小さく)するのはモーターの回転数を少なくすることにより可能になるが、その結果、音は小さくなる、と言うより聞こえにくくなるのだが、これがいわゆる「静音化」であり、同時に低周波音となり、低周波音被害を生み出す。


エコキュートの被害は既に複数の低周波音被害者団体に全国から点々と寄せられているが、一般の低周波騒音被害と同じく、全体としての被害状況をまとめることは難しく、団体でも訴えのあった被害を知るのみで、全容を把握仕切れていない。多分、メーカー等にはそれなりの苦情が寄せられ、全メーカーを集計すればそれなりの数値が出てくるはずだが、電力会社もメーカーも「そう言った被害事実は無い」としている。
こうしたことになる理由はこれまでの低周波音被害と同じく大きく3つ有る。
恐らくこれが現在では一番多いと思われるのだが、加害者(この場合は設置者。業者はある程度知っているはず)、(当初の)被害者共に低周波音が被害をもたらすと言うことを全く知らないと言うこと。

次に、被害者側としては、低周波音についてある程度知ってはいても、一般的には、騒音でさえ、騒ぐとキチガイ扱いされるので、ましてや「聞こえない」とされている音で騒ぐと、「こんな事で騒ぐのは間違いなく××××と思われるのではないかしら」と考え、己の心情を押さえ込んでしまう日本人特有と言っても良い「世間体を重んじる、事なかれ主義」である。流石最近はぶち切れる人が出てきた。
そして、現在において決定的なのは、あまりの苦しさに、世間体をかなぐり捨てて、行政に訴えても、低周波音問題と言うことで門前払いを喰わされてしまうこと。運良く、行政が音源の騒音測定をしても、その大きさ(音圧)はもちろん環境基準値を下回り、更に運良く低周波音域の測定まで漕ぎ着けても、その測定値は図1のように“低周波音専門の規制値”とも言える「参照値」には全く届かず、行政としては「全く問題なし」として相手にされないことである。

こうした状況からも、行政的にはエコキュートによる被害は全く無いことになっているのである。

この間の事を'08の秋に環境省に被害者の声と被害状況アンケート集計と共に送付したが、”問題なし”となったのか、選挙が近づいていてそれどころではないのか梨の礫であった。

2.風車病
もう一つの「静かな騒音被害」、といっても風車の場合可聴域音である風切り音も凄く、普通の人が近くに行けば、まずは風車の実際の大きさと、その音に驚くはずだ。
が、本当に問題なのは風力発電設備そのものの騒音問題だ。低周波音による被害を知るものなら、風車の話が出た時点から低周波音被害の発生を当然予想できた。ただその規模がどう言った程度のモノか知るよしもなかった。だが、風車や低周波音に関して海外事情にも詳しいはずの風力発電関係者低周波音の"専門家"なら、まず間違いなく、
風車による低周波音被害を十分に予想していたはずである。もしそれを「知らない」とすればそれは間違いなく意図的な無視である。
しかし、残念ながら低周波音問題など全く認知しない一般住民、自治体、そんなことは知りたくもない事業者、国策の前にはそんなこと知ったこっちゃないエネルギー庁、そして、国策に乗れ乗れのNEDOは、無知な自治体と一般住民を×××桟敷に置いたまま、と言うよりむしろその状態を風車稼働時まで維持し、事業者は一気に、風力発電施設を設置してしまった。それが今日の風力発電被害の広がりの原因であろう。流石に昨今は各地の建設予定地では反対運動が起きているが…。

現実として、少なくとも周辺住民には、詐欺的行為までして、何億、何十億円も掛けてやっと風車を造った段になれば、少々の近隣住民が騒いだところで、事業者が早々に撤去するはずもなく、また、当然ながら、建設に際して補助金と言う形で荷担している国も被害者の声など黙殺し続けて、事業者は、被害者を宥(なだ)め賺(すか)して粛々と事業を継続するはずだ。昨今のこういった問題が浮上してきたことは、多分、国も事業者も自分が被害者でもない自治体としては全く面倒な話しであろう。

だが、風車が存在する限り、近隣住民の騒音苦は続き、苦情の声は現状が維持されれば今被害がないことになっているところもいずれ被害を訴えて来るであろう。
その症状は一部では“風車病”と言われている。
一般の低周波音被害の場合は騒音源がなかなか特定できない場合もあるが、風車の場合は、騒音源は明らかに風車に「特定」されているので“風車病”と言う“命名”は全く的を得ている

この問題は、これまで低周波音問題に関してほとんど問題視していなかったかのような米国でさえも
Wind Turbine Syndrome(風車症候群)と言われ、問題視されている。現れる症状は低周波音症候群に非常に似ている。

だが、稼働と同時にその症状が即座に現れる
と言う点が、これまでの低周波騒音被害の様に、ある程度の潜伏期間を経るのと根本的に違う。その理由は、私見では単純に風車の発するエネルギー量が桁違いに大きいため人間の健康に”即効的”に被害を耐えるのではないかと考えている。
現在、風車病自体が認知されていない理由の最大のモノが、”風車と健康被害には明らかなる因果関係が科学的に証明されていない」という点である。では、逆に、「風車は安全である」と科学的に保証されているかというと決してそんな証明はない。風車騒音問題がこれまでの低周波音問題と同じ道を歩むとすれば、国や"専門家"により早急にその原因が科学的に究明される事はまずない。

しかし、まー、これは国が公害等に対し放置する場合に常用する方策らしいのだが…。


風車病としては、愛媛県伊方町三崎の風力発電機(20基)近辺では酷い状態らしい。住民説明会では風車撤去の声が相次いでいるという。
丸紅、四国電力、伊方町による第三セクターの「三崎ウインド・パワー」は“住民から「風車の騒音で体調を崩している。低周波音の影響があるのではないか。調査してほしい」などと不満の声が相次いだ。
同社の説明会には、騒音が最も大きいサザエバヤ(4世帯)と灘地区(14世帯)の住民15人が出席。住民は「風車の音で寝られず、頭痛や耳鳴りなどの風車病で病院に通っている住民が数人いる」として、風車の撤去や移転を切実に訴える声も上がった。
 同社は「低周波音のことは考えていなかった。風車から低周波音が出ているのか出ていないのか
調査したい騒音調査は、季節によって風向きが違うので1年間継続したい」と説明した。同社は、低周波音について専門機関に調査を依頼するとした。低周波音の調査は初めてという。

等と事業者は全く白々しいコメントを出している。

が、その結果は2008/3/16の毎日新聞によれば

第三セクター「三崎ウインド・パワー」(伊方町三崎、名取顕二社長)が、同所で営業運転している風力発電の風車4基が夜間運転中止となっている騒音問題で、地元住民説明会が13日夜、三崎公民館で開かれた。事業者側と住民側との運転再開の話し合いは平行線のままだった。
 風車の近くに住む灘地区、サザエバヤ地区などの住民約25人が出席。事業者側が、今年1月に実施した騒音測定は「これまでと同様だった」と結果を報告。「屋外で夜間45デシベル(自主基準)を超える住宅に防音サッシなどを設置するので24時間稼働をお願いしたい」と理解を求めた。
 住民側は「嫌いな音は耳障りとなり、昼でも我慢している。夜間は止めてほしい」「防音対策(サッシ)をしても騒音は変わらない」などと運転再開に反対する声が相次いだ。
 事業者側は「住民の意見を会社に持ち帰って検討したい」とした。【門田修一】

と言うことになる。上記の記事に補足すると「屋外で夜間45デシベル(自主基準)」というのは、いわゆる環境基準値の事を言っているのであろうが、それはあくまで可聴域音のみの話しであるから、当然ながらそれくらいはクリアしているはずで、「これまでと同様だった」という結果になるはずである。
従って、「調査は初めて」という
低周波音の調査結果は何ら出されていないのではなかろうか。事業者側はあくまで、低周波音は無視して、一般騒音の環境基準値で乗り切ろうという腹なのであろう。

詰まるところ「対策として、住民への防音サッシとエアコンの無償提供」で対応しようと言うことになる。しかし、「防音サッシとエアコン」という対策は、空港近辺の騒音問題でこれまでも低周波騒音被害を取り繕うために常に取られている対策であるが、サッシは可聴域の騒音はある程度減衰するが、低周波音は殆どカットできないので、可聴域音だけがカットされた騒音では、相対的に低周波音が目立つ、と言うより”耳立つ”ことになり、「嫌いな音は耳障り(=低周波音の特徴)」と言う状況を増悪させることになる。

こういった状況は
低周波音関係者なら当然熟知していることであり、既に多くの空港や近隣低周波音被害者の場合で経験的に実証済なのだが、被害者を宥める手として延々と続けられている。何故そう言った無意味なことが延々と続けられているかというと、それは単に住民を納得させられそうな対策が他に全く無いからである。
風力発電が如何に地球温暖化防止、省エネ的に有効と言っても、そもそもが、日本には一定方向の風が比較的常時吹き尚かつ人里離れた場所というような風車設置に適切な場所は少ない。従って、風力発電に都合の良い風状況と「人家から200m離れれば良い」と言う条件だけで設置された場合には、間違いなく近隣住民に何らかの低周波音被害に限らず騒音被害を生じるで有ろう事は容易に想像が付こうというモノである。まして、低周波音関係者なら十分以上に予想できたはずである。

しかし、何せ低周波音問題はこれまでも延々と繰り返し述べているように日本国では低周波音そのものが「黙殺の音」なのであるからして、専門家、被害者以外の殆どの人が知らないのが当たり前で、一般人としては低周波音被害者になって初めて知る音の問題なのだ。


 3.「参照値」は風車騒音のガイドラインである、の?
上記のような情報や報道を見ていると、風力発電関係者が「低周波音の調査は初めて」などと言っている事からして、徹底した「黙殺の音」であることが解ろう。従って、普通の環境アセスの様に低周波音のことは本当に全く検討外であった、と考えてしまうのだが、あに図らんや、何と、例えば、「静岡県風力発電施設等の建設に関するガイドライン」には、
(3) 低周波音
低周波音については、最も近い住宅等において、環境省「低周波音問題対応の手引書」の物的及び心身に係る苦情に関する参照値未満となるよう配慮するものとする。
とあり、実にその他の自治体でも、「風力発電施設等の建設に関するガイドライン」の中にほぼ同様な表現で示されているのである。この事からして、ガイドラインを読んでいないならいざ知らず、事業体が低周波音のことは考えていなかった」などと言うお話は真っ赤なウソ!もいいところであることは明らかである。低周波音のことを知らないのは無知な地元行政(本当に無知なのか、意図的に無知なのかは判らないが)と設置される側の住民だけなのである。こうした詐欺的な事がまかり通っているのが風車の世界のようだ。

しかし、ここでガイドラインに出てくる「参照値」とは如何なるモノであるか思い出していただきたい。これまでも機会ある毎に述べているように、いみじくも「低周波音問題対応の手引書」の中で
「本参照値は、低周波音によると思われる苦情に対処するためのものであり、対策目標値、環境アセスメントの環境保全目標値、作業環境のガイドラインなどとして策定したものではない。」
明確に「ガイドライン」的存在を否定しているのである。しかるに風力発電に関しては、実に、現実として「ガイドラインクリックで拡大」として導入されているのである。しかし、もし、「ガイドライン」として存在させているなら、当然ながら、風力発電施設を導入に際して低周波音の影響について事前にそれなりの予測・調査が有って然るべきなのだがその気配さえない。その結果、現実に問題が生じても「聞くのは初めてです」等と言う話しになる。詰まるところ、「ガイドライン」などはあくまで常に単なるお題目に過ぎず、文字通り「書いてあるだけ」のお飾りに過ぎないことは明らかである。

従って、事業者は、「寝ている子をわざわざ起こすことはない」とばかりに「黙殺の音」は黙殺して、とにかく風車を建設してしまう。それで万が一、被害が出れば、それから対処すれば良いと言うことなのだろう。

その後の処理法としては、低周波音被害を回避する方策として事業者側が採る方法は、

①風車を撤去するか、
②住民側に「理解」と言う名の「我慢」を強いるか、
③気のせいだから気にしないように、と言う、これまでの低周波音被害に使われる方策しかない。

しかし、現実的に低周波音被害があるとして、測定しても、結果を先に言ってしまうが、間違いなく、風車の騒音は汐見氏が愛知県田原で測定された結果が図2のグラフだが、「(低周波音専門の"規制値")“参照値”に照らしても問題とはなり得ない」レベルの音なのだ。
万が一、可聴域の騒音値が、被害者側にとって“運良く”それを一時的に超えていて、それを頼りに裁判をしても、恐らく受忍限度内と言うことで、原告側にまずは勝ち目はないと言うのが現状であろう。

4.「参照値」は風車騒音にも役に立たない
などとノンビリしたことを考えていたら、伊豆熱川(天目地区)風力発電では、既に裁判に到り、 「風車建設差止め仮処分の申立て」が却下されていた。事実は私の予想の先を行っていた。
この申し立ての問題点は次の3点になるようだ。

①地元自治区、財産区の、被害は有っても自分のことではないと言う無責任さと、補助金、未利用地の”有効活用”と言う、金ほしさから発する低周波音問題に対する無知に基づく、新入居者を×××桟敷に置いて事業を進めた欺瞞的行為。
②景観の破壊。
③低周波騒音被害を完全黙殺するという根本的詐欺行為に加えて、事業者側の「参照値」の意図的、曲解的、我田引水的引用。

詳しくは伊豆熱川(天目地区)風力発電連絡協議会をご覧頂きたい。

この中で①②については敢えて触れず、このサイトの主旨である③についてのみ考えたい。

ここで一番問題になる点は「心身に係る苦情については1/3オクターブバンド別の音圧レベル及びG特性音圧レベルの参照値がそれぞれ示され(このうち、G特性音圧レベルの参照値は、20ヘルツ以下の超低周波音による心身に係る苦情の評価のみに関するものとされている。)、これらの音圧レベルを測定した結果と参照値を比較して、評価を行うものとされている」とされているにも拘わらず、上記サイトにあるように事業者側が示したのは、「低周波音環境影響評価はG特性音圧レベルの測定評価をしただけで、1/3オクターブバンド音庄レベルの測定評価をしていない」という点である。

元々被害者の実情を反映していない「参照値」をもってしても、「参照値」そのものが「低周波音の苦情には,…1/3オクターブバンドで測定された音圧レベルを…参照値と比較し,測定値がいずれかの周波数で参照値以上 であれば,その周波数成分が苦情原因である可能性が高いと判定されます.」という、端的に言えば単に低周波音被害の原因がどの周波数に有るかを見るだけの、あくまで、低周波音の評価に際しての単なる”ツール”のはずであり、「参照値」自らが述べているように基準値、規制値の類ではないのである。従って、仮に逆にこれを超えていても法的に何ら規制する力はない。即ち、「違法」と言うことにならないのである。

しかし、百歩いや千歩譲って「参照値」を使うとするなら、それは最低限1/3オクターブバンド音庄レベルの測定と周波数分析とセットでなくてはならない。そして、現実に被害が出ていて、「参照値」が本当に役立つツールなら1/3オクターブバンド音庄レベルの測定値において「参照値」を上回る数値がどこかの周波数に無くてはならないはずである

もし、それが無いとすれば

①「被害者がウソを言っている」
か、
②「参照値が間違っている」か、
③「(参照値の)例外」のはずだ

汐見氏の被害現場でのこれまでの測定データでは「参照値」には被害との相対に於いて余りに「例外」が多いのだが、それにも関わらず周波数分析もせず、一括りに「G特性等価音圧レベルの参照値である92dBを大幅に下回る68dBから73dBの範囲に収まる」等と言うインチキ「参照値」をさらに拡大誤解釈した「戯言」を裁判で聞かされるとすれば、それ以下の音圧で苦しみ、”どこかの周波数で「参照値」を超えているのではないか”と虚しい期待を抱いている風車以外の現実の低周波音被害の多くの低周波騒音被害者は全部「ウソを言っている」か「例外」と言うことになってしまう。即ち低周波騒音被害は現実として何一つ無い事になってしまう。裁判などやるまでもないことになってしまう。

※そして、環境省が風車被害現場での測定をやらせ始めたと言うことはこれまでの「④測定法がよろしくない」、と言う事なのかも知れないが、マニュアルに従って測定しても色々あるのかしら? もしそうであるとするなら測定値のデータ疑惑などが生まれてくることになるのだが、元々測定値がどうであろうと被害の存在という現実がある限り、元々測定する度に異なるのが当たり前なのだから、目くじらを立てることもないのだが。


 改めて「92dB」とは一体なんぞやと思い、見直してみれば、その数値は、以下の10Hzに於ける「参照値」に一致する。要は表に載っている音圧レベルの一番大きい数字だ。

2.2.2 心身に係る苦情に関する参照値


しかし、G特性では10Hzを±0として各周波数によりdB数をプラス、マイナス修正しているので、逆に補正を戻してみると、下記のような数値になる。従って、「92dB以下なら低周波音被害は無し」等と言う事は、G特性そのものはもちろん、低周波音被害の原因周波数を求めようという「参照値」そのものの存在自体が全く無意味なモノとなり、自らの存在自体を否定する事になる。

中心周波数(Hz)
10
12.5
16
20
25
31.5
40
50
63
80
G特性補正(dB)
0
4
7.7
9
3.7
-4
-12
-20
-28
-36
心的参照値(dB)
92
88
83
76
70
64
57
52
47
41
逆補正(dB)
92
84
75.3
67
66.3
68
69
72
75
77

もちろん、これまでの低周波音問題に関する経緯を考えれば、参照値は結果的に「低周波被害の切り捨て」を意図したとしか考えられないのだが、それにしても、92dB以下なら周波数分析をするまでもないと言う様に解釈させるような悪法である「参照値」を更に無知的解釈、或いは歪曲的に解釈する、詐欺的どころか詐欺行為そのものがまかり通れば、低周波音被害者は全く救われない。現実は当にそうであるが…。

もちろんそれが「参照値」の狙いとすれば、当に思惑通りであるのであるが
…。


しかし、既に裁判の場で「92dB以下なら問題無し」などと言う曲解も良いところの考えが一人歩きしているのであるから、参照値作成者は本来なら「チョット待って」と言わなくてはならないはずだが、そんな話しが無いところを見ると、現実には「参照値」は既に、作成者の手を離れ、”低周波騒音被害者切り捨て値”として、

無知(被害者、行政、裁判官等)からであろうと、
意図的な悪意(行政、業者、事業体等)からであろうと、
意図的な怠慢(行政、自治体等)からであろうと、

一切関係なく、バッタバッタと低周波音被害者をなぎ倒している事になる。被害者の苦しみを考えたとき、作成者は地獄の業火に焼かれ続けなくてはならないはずだ。


だが、こういった現実を踏まえての事であろうかどうかは解らないが、一応、日本騒音制御工学会における、「移動音源等の低周波音に関する意見募集」(これは既に08/02/15で終了し、既に、日本騒音制御工学会のリンクから切れている)において、ご意見等を募集する主な項目 として、

(1) 手引書適用対象外の発生源(変動的あるいは衝撃的な固定発生源や移動発生源、風力発電施設等の新たな発生源等)からの低周波音苦情の有無と現行の対応方法、対応が困難となる原因
(2) 上記発生源について、寄せられた苦情が低周波音によるものか否かの判定方法
(3) 海外における衝撃的、変動的な固定発生源や移動発生源、風力発電施設等の新たな発生源等からの低周波音の測定・評価に関すること

そして、さらに、「これらの移動発生源等からの低周波音は、発生形態や周波数特性等、手引書が対象としている固定発生源から発生する低周波音と異なる点も多く、移動発生源等からの低周波音を測定・評価するにあたっては、手引書で用いた対応方法をそのまま用いることは難しいと考えられます。」 と、あくまでメインは「移動発生源」を装いながら「等」と言い、それは、唯一の固定発生源である風力発電施設を指しているのである。

即ち、現在の「参照値」は風力発電施設には使えません、と一応「チョット待て」をしているのだが、現実はお構いなしだ。

もちろん移動発生源の典型であるジェット、ヘリの轟音が跋扈する基地騒音にも使えませんと言うことを意味している。それは、「現実的に92dB等と言う轟音が出るはずはない」として決めた「参照値」なのだが、「事実は理論より奇なり」で、そこでは「参照値」を超えてしまった訳で、これこそ文字通り「参照値」の例外とするより仕方なかったからである。

風車低周波音被害は「聞こえない音では被害はない」と言う、机上の理論では最早、現実の被害事実を否定しきれない訳で、「聞こえない音での被害」と言う低周波音被害の本質に触れる問題であろう事は想像に難くない。ただ、"専門家"の反論としては低周波音や超低周波音ではなく、あくまで原因は可聴域の音であると等と仰っているが。

エコキュートなどの隣人同士の個人の訴訟では被害者達の「事なかれ主義」から現実の訴訟を戦い抜くことは困難であるが、集団的に被害者が存在する風車騒音問題はそれが可能であろう。是非とも、訴訟の場で、低周波音被害の本質を可能な限り明らかにしてほしいモノである。

クリックで拡大 と言ったわけで、新しい低周波音被害である風車やエコキュートの騒音では、“これまでの騒音や低周波音の理論=「参照値」”に照らして(図3)、「低周波音によって被害が出るはずはない」と言う、低周波音問題に関して恐らく”法的には”完璧な代物なのだ。
それはこの風車問題に関して、田原や伊方で現地調査された汐見氏をして、「風力発電の音は低周波音症候群の考えで律するのは間違いのようです」とまで言わせしめている点からも伺われる。
エコキュート被害も風力発電被害も比較的静かな環境に存在し、他の騒音によるマスキング効果はほとんど無いという点も特徴的である。
改めて、図3を見ると、風車被害現場では40dB50dBの低周波音、超低周波音が測定されており、エコキュート被害現場での25dB50dBの騒音と比べると、音の理論からすると5倍近い大きさの騒音と言えるのだが、風車騒音の場合、距離による減衰があるのだが、それを考慮しても、エコキュートより恐らく大きな音圧レベルとなり、それなりの影響を広域にもたらしている可能性は十分ある。


伊方町のHP「よろこびの風薫るまち」の「伊方の風力発電事業紹介します」の「事業目的と効果」には、伊方の風力発電事業がもたらす利点として、以下の項目が謳われている。
1)地域経済刺激 起業投資効果、観光消費の拡大、売電・町税収入の発生。
2)地域個性形成 町を語るシンボルづくり
3)国策への寄与 地域環境保全、新エネルギー導入の推移
確かに、「事業目的と効果」はそれなりに達成されたであろう。しかし、風車地域の住民のそれまで延々と続いたであろう静かな生活は完全に侵された。自治体も「そんなはずではなかった」としか言いようが無いはずだ。


 5.二枚舌の「参照値」

新しい低周波音問題」はこれまでのように高速道路や空港や鉄道や工場地帯の様に元々明らかに騒音が有りそうな地域ではなく、これまで「静かな地域」にこそ発生する事になった。それは「可聴域の騒音を低周波音や超低周波音に追い込む」という“静音化”技術と理論の進歩によりなされた。
その技術の裏付けとなっているのが、今や低周波音問題に“君臨”する「参照値」である。もちろん「参照値」と静音化の技術は、「鶏と卵」の関係にある。“「参照値」は単なる参考であり、規制値ではない”としながら、一方、行政の現場では既にれっきとした「ガイドライン」として存在している。

 そして、一方、普天間爆音訴訟の「低周波音10Hzで97.5dB以下なら問題無い」と言うような「参照値」を明らかに大きく超えている場合には、「参照値はあくまで規制値ではないから仮に超えていても問題はない」として行政は逃げてしまえると言う、卑怯極まりない二枚舌の代物なのである。だが、「ガイドライン」と名が付けば法的には規制値であることは間違いないのだが行政はそれを黙殺してしまう。
 上記のエコキュート、風力発電の騒音測定データを見れば解るように現地での測定値が「参照値」を超えることは恐らくなく、更にはこれまでの低周波音被害に特徴的な卓越周波数もほとんどなく、挙げ句に、暗騒音にも等しいような3050dBと言う比較的小さい音圧では、タダでさえ問題にすることが難しい低周波音被害の中でも、問題にする事自体を一段と難しくしている。

 6.「超低周波複合音」
「参照値」がある限り、低周波音被害は現状に於いては、最早、法的、またそれに基づき行政的(法的)に解決することは難しい。従って、この現状を打破するには、「聞こえない音で被害は生じない」と言う、「参照値」等が依って来たる、(聞こえる、聞こえないを基準とする)”感覚閾値理論”で人間の感覚を律する発想を根本的に覆すしかない。

と言って、私ごとき個人がワーワー喚いたところで現実としてどうなるモノではなかろう。が、ひとまずは、新たな低周波音被害であるエコキュートや風力の被害から得たヒントを基に、一つの「低周波音被害発生理論」を提示したい。それは先ほど「ライトさん」が掲示板で展開した、“263.「卓越周波数」についての考察”、“281、「超低周波複合音」に感染した人の空間”として提示した理論の延長線上にある。
 ライトさんの理論を紹介すると、
 騒音を周波数分析すると、ある特定の周波数のみが突出した数値を示すことがあります。これを卓越周波数と言います。特に、可聴音(騒音周波数20Hz以上の騒音)において、卓越周波数があるとそれが耳について気になることがあります。
 非可聴音(騒音周波数20Hz以下の騒音)である「超低周波複合音」では、卓越周波数に被害の原因を求めたり、又は、周波数分析値の中で卓越周波数を特定しようと探すことは、無駄な努力になります。
 「超低周波複合音」の被害者の中は、夜間は頭に響いて眠れないが、昼間は楽になるので、昼間に睡眠をとり、夜間は起きているという、昼夜を逆転して生活されている方がいます。


 昼夜逆転の理由を説明します。これは、騒音のエネルギー総量が原因です。昼間は、普通騒音のエネルギー総量が、「超低周波複合音」のエネルギー総量に勝るので、「超低周波複合音」を感じません。
 夜間は、普通騒音のエネルギー総量が下がり、「超低周波複合音」のエネルギー総量が勝りますから、被害者は夜間になると苦しみ眠れなくなるのです。

 「超低周波複合音」において、卓越周波数に固執すると、周波数分析の中に卓越周波数らしきものが無いと、被害が無いという、間違った結論になってしまいます。
 騒音の原則は、騒音エネルギーの勝った方が聴こえてくる、負けた方は感覚として存在しないということです。



 7.超低周波複合音私論
 これを私なりに考えてみると、
超低周波音の被害については「有り得ない」「知見がない」と言う事で”低周波騒音被害が全面的に否定されたのが、「横浜市営地下鉄における振動・低周波音被害責任裁定申請事件」である。この現場では、10Hz-68dBにピークが有るのだが、10Hzにおける「参照値」は92dBであり、尚かつ、”世界的にも超低周波音による被害は知見がない”と言うことで被害は全面的に否定された。

しかし、定説や知見がない言うことは、言い換えれば、単に学者が研究していないのか、研究しても解らないのか、解りたくないのか、それとも問題にならないのか、問題にしたくないのか定かではないが、少なくとも、被害者の現実的被害を「否定」した方が、”都合”が良い立場のほうの人間が沢山居ることは確かであろう。

 超低周波音が数値的に20Hz以下とされているのは、単に人間の可聴域以下(聞こえなくなる)であると言うことに基づいている。しかし、20Hzを境にして音の物理特性が劇的に変化するわけではなく、20Hzと言う数値で単純に仕切れるモノでないことは多くの専門家も認めていることである。
では一体全体、何Hz以下を超低周波音と考えてみると、ひとまずこれまでの閾値理論の延長線上で考えれば、聞こえるか、聞こえないかで区切るのが妥当なのであろう。が、それは単に実験の平均値でなく、人間個々人の聴覚閾値以下の“音“(=聞こえない音)と「不明瞭」に考えてみたい。

そもそも、音は音として聞こえなくても、音そのものは発音体の振動によって生じる空気の振動エネルギーであり、それを人間の聴覚が音として認識すれば「音」であるが、仮に聞こえなくても、そのエネルギーは厳として存在するわけである。

従って、音を「聞こえる、聞こえないとしてだけで捉える」聴感覚閾値に基づく「参照値」は、単に可聴域の空気振動エネルギーだけを対象にしているのであり、人間が音として認識しない部分の空気の振動エネルギーを全く無視した考え方であり、エネルギー理論的には完全に間違っているとしか言いようがない。


8.ウエーバ・フェヒナの法則

 「聞こえる、聞こえない」について、楽器演奏において基準音となるのは440Hzの「ラ」だそうで、これはオーケストラが演奏の前に鳴らす音なのだが、これを「2倍の周波数の音を聞くと音の高さが2倍になったように感じる」と言うウエーバ・フェヒナの法則に従って、ガマの油売り的にオクターブ毎に下げていくと、220,110,55,27.5Hzとなり、奇しくもか、と言うよりそう作ったのだろうが、この27.5Hzと言う音が、ピアノの最低音となる。では、更に、その下はとなると、13.75,6.875,3.4375,1.71875Hz,…となる。

 人間が1オクターブの音階を聞き取るにはドからドまで7等分の周波数差を聞き取らなくてはならないわけで、1音階の差は、楽器での最低オクターブの5527.5Hzでは約4Hz、その下に想定できる1オクターブの27.512.5Hzでは1.78Hzの周波数差と言うことになる。

では、人間は一体何ヘルツまでではなく、何ヘルツの音の差が聴き取れるかを考えると、経験的には、少なくとも、5527.5Hzまでは音楽的に音階が有るのだから、訓練次第では4Hzの差は聴き取れるのであろう。しかし、それ以下の周波数の差は恐らく聴き取りが難しいので、「音楽としての音階」がないのではなかろうか。

実際、楽器演奏者も「低音の音階を判別するのは難しい」と言っている。低音楽器奏者は高音楽器奏者に比べ音感が良いと言えるのかも知れない。
と言うことになると、仮に絶対音感者の被害者で、尚かつ超低周波音が聞こえても、「どんな音?」と聞かれた場合には、得意の音名で答えることは難しいのではなかろうか。

 従って、もちろん絶対音感者でもない超低周波音被害に卓越周波数的存在を求めると言うことは(=どんな音が気になる?と聞かれても)、普通の人間の脳にプロの演奏者以上の測定器的並みのデジタル的聴覚能力を求める様なモノで、そもそも脳自体が音として認識できる「音」ではないのであるから、具体的な音として表現すること自体が難しいと言うより、不可能なはずだ。
極端なことを言えば、3.4375Hzと1.71875Hzの間にも1オクターブが有る事になるのであろうが、その間のドレミの1音階の差は0.2455357Hzと言うことになるはずで、人間にその間の周波数差が聴き取れるのであろうかと言うことだ。恐らくその差は識別できるはずはなく、結局は、その周波数の整数倍であるどこかの高い方の倍音の音階の方が勝ってしまい、言葉で表すには音階など関係ない「ドゥワー」と表現するしかない”音の塊”になってしまうのではなかろうか。この「ドゥワー」と言う「音」が「超低周波複合音」ではなかろうか。仮にこれに周波数のズレが生じれば倍音の唸りを伴い、「ドゥワワー、…」とでも表現することになるのではなかろうか。

被害をもたらす騒音源の大きさは、単に一律的数値で考えるべきではなく、少なくとも「聞こえる、聞こえない」と言う個人の聴感覚とは関係なく、騒音源からの全ての空気の振動エネルギーの総体と考えるべきで、それがどの程度の影響を与えるかは、周りの静けさ(暗騒音)との相対的関係により決まると考えるべきである。それがどの程度のモノであるかは、現実に被害を訴えている現場での調査がされなくてはならない。

クリックで拡大 以上のことを踏まえて、例えば、暗騒音との比較が明確に表示されている「横浜市営地下鉄における振動・低周波音被害責任裁定申請事件」の現場での測定(左図4)を見てみると、これは、「犯人」はもちろん図における単なる”ピーク音”である10Hz-68dBではなく、暗騒音以上の塗りつぶした部分に当たる低周波空気振動エネルギー量の全てであると考えると被害者の苦しみが理解できる。

もちろん、公害等調整委員会の裁定に於いても、「10Hz-68dB」は、「参照値(10Hz-92dB)」に照らしもちろん”無罪”であるが、同じ無罪でも「理由」が全然違う。もちろん”複数犯”の中での”主犯”であることに間違いないが。クリックで拡大

この考えを、風車やエコキュートの”騒音”に当てはめてみると、右図5の様になる。ここでは暗騒音のデータがないのでひとまず25dB程度として考えると、「犯人」は、それぞれ暗騒音以上の着色部分の合計である低周波空気振動エネルギー量の全てであると考える。こちらの場合には静音設計の成せる技か、格別の主犯が無いので、当に”完全犯罪”に近く、一層、始末が悪い。 

もちろん、”専門家はこう言ったことは、仮に考えても言わないであろう、と思っていたが空気振動エネルギーとして考えている専門家も存在するようである。が、残念ながら主流ではないので、もちろんその「声」は小さい。結果としては大勢としては「科学的知見がない」という事になる。

 しかし、あらゆるモノに、例えば弾性限界とか、比例限界のように特性が「劇的に変化する点」(限界点)があるのは科学の常識らしく、超低周波音を発する人工的な機器などなかった19世紀のウエーバ・フェヒナも恐らく可聴域音についてだけ述べたのであり、明らかに「限界」以下の音階も聞きわけられない様な超低周波音の事は考えていなかったのではないかと考えるのが妥当であろう。

 人間にとって音として聞こえない部分の”音”は、(超)低周波音は「音性限界」を超えた純粋な空気振動であり、それは空気の粗密を生じさせる空気の圧力の変化であり、「(聞こえる)音」として扱うこと自体が、根本において間違っていると考えるべきであり、それを敢えて「聞こえる聞こえない」を基とする聴感覚閾値を基とした「参照値」のように「聞こえない音では被害は有り得ない」として扱うこと自体が人間の生理に対して根本的に間違いであると言うことだ。これまでの低周波騒音問題を取り巻く環境から考えると、明らかに科学という衣を着た意図的な詐欺行為でなければ”完璧な無知”と考えるしかない。


 9.(超)低周波被害者に救いはあるか

 苦しみの中から、自らの生活を守るために、複数の被害者が、××××と言われるかも知れない危険を冒し、なおかつ、多大な労力を費やし、苦しみを訴えている現実を究極的に言えば、単なる「ウソ」の訴えとするか、②「参照値が間違っている」かのいずれかとなる。
私の結論としては、新たなる風車やエコキュートの”騒音”は、そもそもが”聞こえないはずの音”の部分が多いので、聴覚閾値を基とする「聞こえる、聞こえない」判断を基とするこれまでの騒音や低周波音被害の理論(=参照値)(図3)を当てはめることはできない、と考える。仮に当てはめたとしても、絶体、被害となるはずがないのである。

低周波音の苦しみの実体を知る私としては、「参照値」が間違っていることは明白で、風車やエコキュートの”騒音”は「機器の設置と同時に被害が出る」と言う被害者の話しからすれば、それはこれまでの低周波被害を大幅に超える、「圧倒的な圧迫感がある」と推測される。即ち、「聞こえない部分=ひとまずこれを低周波空気振動エネルギーとするが圧倒的に大きいはずだ。


改めて低周波音問題を考えると、既に何度も述べているように、国が低周波音被害の問題究明・研究を理工学研究者、具体的に言えば「日本騒音制御工学会」と言う、視野狭窄な御用学会に一任してしまった事に全ての間違いが有る。しかも、国はもちろん未だに低周波音問題を他の専門分野に何ら委託していない事を考えれば、恐らくそれは意図的に継続されていることで、低周波音被害をあくまで行政的に抹殺するための意図的仕儀としか考えられない。

09/01/18の朝日新聞記事では「環境省は、…、風車と体調不良の関係をめぐる海外情報の収集を開始。風車の一部で低周波音の測定を始める」などしているがその担い手は恐らく「日本騒音制御工学会」か、御用学者であるはずだから、現実の被害を認めるに繋がるような海外情報も測定結果が出てくるのを被害者が期待するのは糠喜びであろう。

※09/03/12、環境省サイトに「諸外国における風力発電施設から発生する騒音・低周波音に係る基準等の状況について(暫定版)」として、報道発表資料発表された

こういった考えからすれば低周波音問題は、極めて当初は別として、かなり当初から、科学の問題ではなく、明らかに政治的な問題であり、仮に正しい科学的知見が有ったとしても、それは黙殺され、認知されることは決して無いであろうと考えるべきであろう。

 もし、万が一、低周波音問題に進展があるかもしれない、唯一可能性の有る悪魔的方法は「静かな騒音」である風力発電の風車による被害やエコキュートに代表される静音化された機器による被害者の「大いなる数的増加」と言う、「科学的理論ではない被害者の数の理論」で行政に訴えていく道しかないであろう。

幸いと言おうか、もちろん不幸にと言うべきであるが、風車による被害はこれまでの低周波音被害としては”全く例外”的に、一地域に被害者が複数人存在するようである。
この事実からして、これまでの低周波音被害者に対して、「そんなことを言っているのはあなただけですよ」とか「あなたは低周波音過敏性」とかの個人の特異体質的=個人差として処理しうる問題ではない。最早、低周波音被害者に対する口先だけの言いくるめや脅しは通用しない。

そして、何よりも、「一定レベルの低周波空気振動エネルギーが有れば、それが例え、暗騒音(定在波)と音圧が同じ、or低くても、その波形(音色)が暗騒音(定在波)と異なるモノであれば、それを聞き分ける能力がある人には被害が発生する可能性がある」と考えるべきである。

しかし、現今のように、聴覚閾値に基づく「参照値」が”公的に専横を振るう状態では、低周波音被害を訴える際には、決して、「低周波音で苦しんでいる」と言う事は言ってはいけない。その言葉は「参照値」による足きりでなく”首切りを”を容易に誘導し、「聞こえない音で被害はない」と言う、敵の術中嵌ることになるからである。

即ち、
「参照値」が低周波音被害を黙殺する”ツール”であるならば、被害者としては如何にしてそのツールを使わせないかを考えるべきで、その手段の一つは「参照値」を黙殺すべき方策である。

即ち、”「参照値」に照らして問題無い”などと行政や"専門家"に言わせないためには、「低周波音による被害」等と言う言葉は決して発してはいけない。何故なら、”彼らの理論”では、”現実に存在するような低周波音では人間に被害は生じないはず”であるからだ。

現実の被害は、あくまで風車やエコキュートの”低周波音が原因ではなく、必ず他に何か原因があるはず”なのであるからだ。それをむしろ"専門家"達に探してもらえばいい。
(※「100Hz以上の可聴域騒音に問題が有る」という論を述べ始めている専門家もいる)

とにかく、専門家が低周波音以外に確たる原因を見つけてくれ、それを除く方策が可能となるまで、被害者は単に、綿々と厳たる事実である健康被害を訴えるべきである。もちろん医学的検査では確たるモノは判明しないはずであるが…。とにかく、あなたの健康被害を綿々と書き連ねた複数の医師や病院の診断書を積み上げるしかない。
 
もちろんあなたの健康被害の訴えは歴然たる事実であるから何ら臆するところはない。そうすることにより、それらを集団的詐病とするか、あるいは、ヒョッとして、これまで全く無関心であった医学界から医師の一人くらい、興味を持って、奇病としてくれるかも知れないし、もちろん理工学者の一人くらい低周波音ではない”身代わりの犯人”を見つけてくれるかもしれない。もちろん、それも一歩前進である。

なお、「低周波音」等と言う「音」と言う言葉を使う事自体のネーミングに騙され、「音なら何か聞こえるはず」と言う印象を一般的に与え、短絡的に「聞こえる、聞こえない問題」とされ、「参照値」のように「聞こえない音では音の被害は無い!」等と言う極めて安易な非科学的な理論に騙されてしまう。

従って、当サイトでは、低周波騒音被害の犯人は単に聞こえる音(騒音)ではなく、”犯人グループ”は、聞こえる(=可聴域音=騒音)、聞こえない(=「参照値」以下)は関係ない、それらの総体である空気振動の総エネルギー量と考える

当サイトでは、今後、昭和六十年度に出された「低周波空気振動防止対策事例集」等で言うように、(実はこれを境に「低周波空気振動」という言葉は「公的には消え」、低周波音と言う言葉にとって替わられるのだが)、これまでの、低周波音被害は本来的には「(超)低周波空気振動被害」という言葉の方が本来の姿を表していると考え、これまで低周波音として一括りにして述べてきたが、今後これらの言葉は(超)低周波空気振動として述べていきたい。
090416/081126/080912/080904/080420/080404/080312















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騒音問題私考
風力発電の発電電力量の「一般家庭」とは
保坂坂議員による「風車による健康被害と補助金交付認定に関する」質問と政府答弁
環境省 風車被害の海外情報の収集暫定結果と科学的な測定とは
風力発電セットバック
田原久美原風車問題
超低周波問題は”超黙殺”
風力発電事業者にとって極めて好都合な事実
風力発電問題の極めて不都合な事実
National Wind Watch全国風力発電監視団

急性風車病 続 風車を聞きに行く
風車問題私的概要
風車を”聞き”に行く「レクイエム風車」
風力発電公害の”主犯”は極超低周波空気振動!?
新しい低周波音被害 エコキュートと風力発電


















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【引用終わり】:以上の通り

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【参考リンク1】:黙殺の音 低周波音
LFN does harm to human body and spirit.
This si低周波(音)問題 基礎の基礎



http://www.geocities.co.jp/NatureLand/9415/tei.htm


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【私のコメント】 


 11月29日の午後7時30分のNHKのニュースで、環境省が風力発電の設置時の周辺への低周波騒音に係る環境アセスメントの実施の義務付けを検討すると発表した。  今までの環境庁の行政の中で、このような風力発電に係る低周波騒音の基本的な大事な環境アセスメントが義務付けがされてこなかったのか?  市民の環境を破壊する今までの政治・行政の怠慢さが現れている。  現在、各地で、風力発電の設置計画検討がなされ、盛んに風力発電が喧伝されているのであるが、政治・行政、立法の運営体制が時代遅れのままのようである。


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沈下する島


【出展リンク】:

 http://www.youtube.com/watch?v=wvvCQkiuEVI


気候の温暖化により氷河が溶解して海面が上昇し、島が水面下に沈み、消える運命にある 島国がたくさんあります。世界中で少なくとも18の島が水没している。海面上昇により 水没またはその危機にある国は40カ国以上。

カテゴリ: ニュースと政治

タグ:

島 沈降 水面下 Vegan 菜食 レシピ 環境問題 エコ 地球温暖化 無料テレビ ベジ 気候変動 動物 沈没 沈下 インド ローハチャラ島 ベッドフォード島 カバスガディ島 スパリブバンガー島 メリーランド州 チェサピーク湾 キリバス 環礁島 バングラデシュ ボーラ島 ツバル ゴラマラ セイガー スンダルンバス クツブディア モルジブ パプアニューギニア トンガ アラスカ ドバイ



Friday, November 27, 2009

NATO escorts WFP ships to Somalia

【出展リンク】:
 
 http://www.youtube.com/watch?v=RqPNlLb_WcQ

Email this to a friend
The Netherlands and NATO have responded to an appeal from the United Nations World Food Programme for naval escorts to protect its ships carrying life-saving assistance from pirate attacks off Somalia. More than 2 million Somalis could go hungry without this protection.

カテゴリ: ニュースと政治
タグ: somalia nato food aid

Thursday, November 26, 2009

Real Life Pirates in Africa

http://www.reliefweb.int/rw/rwb.nsf/d... Distributed by Tubemogul.http://en.wikipedia.org/wiki/Royal_Netherlands_Navy

http://www.rocketboom.com/category/field-reports/


Rocketboom Field Correspondent Ruud Elmendorp sails with the Dutch Navy who are protecting vessels of the World Food Programme from pirates off the coast of Somalia. More than 60 ships have been attacked by pirates off of African waters in the past year.

http://www.rocketboom.com/category/field-reports/




http://videoreporter.nl/

http://en.wikipedia.org/wiki/Royal_Netherlands_Navy

http://www.wfp.org/

http://www.reliefweb.int/rw/rwb.nsf/db900sid/KKAA-7K28E7

http://www.reliefweb.int/rw/rwb.nsf/d... Distributed by Tubemogul.



カテゴリ: ニュースと政治

タグ: africa hijacking indian ocean piracy pirates shipping somalia theft

【出展リンク】:

http://www.youtube.com/watch?v=SayJLeKcUDs



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Hopes and Dreams

we asked children who receive WFP food aid what they hope
カテゴリ: ブログと人
タグ: wfp

【出展リンク】:
http://www.youtube.com/watch?v=DYTSana7-_k

WFP: Who We Are, What We Do, Why We Do It

WFP is the worlds' largest humanitarian organization and the UN's frontline emergency relief agency..each year we feed around 90 million people in more than 80 countries. We are the ones trucking convoys of food across mine fields in Afghanistan, choppering supplies through snowstorms in Pakistan and hurricanes in Haiti and dropping aid out of the backs of C-130 planes into Sudan.
カテゴリ: ニュースと政治
タグ: United Nations World Food Programme hunger

【出展リンク】:
http://www.youtube.com/watch?v=XA2xkaXcyuE

'Oyster' device connects to Grid 波力発電

【出展リンク】:

  http://www.youtube.com/watch?v=aXxtPyxrJ_0

First Minister Alex Salmond switched on the world's largest working hydro-electric wave energy device today, connecting Aquamarine Power's 'Oyster' device, off the Orkney Islands, to the National Grid.
カテゴリ: ニュースと政治
タグ: Oyster marine energy 'marine energy' 'scottish government' orkney 'alex salmond' 'saltire prize' 'wave aquarmarine

【NATINAL GEOGRAPHIC 】-【環境問題】

NATIONAL GEOGRAPHIC


【出展引用リンク】:

  【NATINAL GEOGRAPHIC 】-【環境問題】

http://www.nationalgeographic.co.jp/video/video_title.php?category=2&embedCode=ZweTlvOuNmWVfEfQDyo2IfBO9VisCjZX&mdl=0000



1.乾き続ける大地 旱魃


2.地球にやさしいエネルギー


3.地球温暖化の基礎知識


4.温室効果ガスと植物


5.太陽熱クッキング


6.大いなる力 太陽エネルギー


7.清流保護と農業との両立


8.美しい沿岸船を取り戻せ!


9.消えゆく南極の氷河


10.マングロープの保全の意義



11.リオデジャネイロの海岸を救え


12.アメリカ 沈没危機に直面するスミス島




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特集 : 日本-アフリカ交渉史の展開 日本ーアフリカ交渉史の諸相を考える いくつかの研究課題と展望 大谷大学 文学部 古川哲史

【出展引用リンク】: http://wwwsoc.nii.ac.jp/africa/j/publish/pdf/V72/75-81.pdf

http://wwwsoc.nii.ac.jp/africa/j/publish/pdf/V72/75-81.pdf


特集 : 日本-アフリカ交渉史の展開

日本ーアフリカ交渉史の諸相を考える

いくつかの研究課題と展望

大谷大学 文学部 古川哲史 
2008年5月16日作成


http://wwwsoc.nii.ac.jp/africa/j/publish/pdf/V72/75-81.pdf のHTMLバージョンです。

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はじめに

本稿は長崎で開催された日本アフリカ学会・第 44 回学術大会の公開シンポジウム(2007 年5月 26 日)における私の発表「日本-アフリカ交渉史の諸相を考える――いくつかの課題と展望」の内容に,現在考えていることを少し加えたものである1)。発表に際しては主催者から,最後の登壇者としてできるだけ既成の枠を打ち破るような話を,と求められていたこともあり,まだ学術的あるいは歴史学的に裏づけされていない話やテーマも,あえて問題提起として触れた。発表では,一般への公開シンポジウムであることを意識して,学会などでは普段話すことのない私自身のアフリカとの私的係わりから述べた。それは単に聴衆への自己紹介という意図だけではなく,私のアフリカとの係わりもまた,非常に微々たるものではあろうが,日本-アフリカ交渉史の時代的諸相を表すものと考えたからである。もちろん,1964 年に設立された本学会の会員の今までの活動自体が,日本における学術的な側面を主とした日本とアフリカとの係わりの形成に大きく寄与してきたであろうし,個々の会員の「アフリカ体験」の中身,その質と量の変容に,日本-アフリカ交渉史の流れを見ることができる。1.私とアフリカ,本研究テーマとの係わり私は 1964 年(昭和 39 年)に兵庫県で生まれ育った。そして 17 歳の高校生のときに父に連れられケニアを訪れる機会を得た。当時,私自身は外国といえばアジアに関心があった程度なのだが,父がチヌア・アチェベなどアフリカ文学の研究・紹介に携わっていた関係で,初めての外国旅行の地がケニアとなった。その時はわずか1週間あまりの観光客としてのケニア滞在であった。しかし,想像以上に発展していたナイロビの中心街,そして人々の喧騒が渦巻く下町通り,さらには首都を離れて訪れたスケールの大きな自然公園(日本の動物園で見るのとは違い,風景と溶け合う動物たちの美しさ)などでの刺激にみちた体験の日々であった。それと同時に驚かされたのが,至るところで目にする車や電化製品といった日本製品の多さであった。アフリカ研究者なら,あるいは 1980 年代初頭のナイロビを知っている人なら意外なことではないだろうが,当時,ほと近年,日本-アフリカ交渉史に関する研究は,日本やアフリカ,欧米諸国などの研究者によって増えつつある。しかし,歴史学的な観点から見ると,未開拓な分野,着手されていないテーマはまだ多い。私は今まで 1920年代- 30 年代の日本とアフリカの交渉史に焦点を当ててきたが,本稿ではまず私自身のアフリカや本テーマとの係わりを述べる。それは,その事例自体が,日本人のアフリカへの係わりの時代的諸相の一側面を反映していると思われるからである。次に,先行研究を概観し,時代区分の問題や対象地域への視座の問題を論じる。そして,私自身も未検討な,あるいは推測の域を出ていない事柄も含めて,今後の研究課題としていくつかの問題を提示する。最後に,日本-アフリカ交渉史研究における方法論的枠組みのさらなる議論や,国際的かつ学際的な共同研究の必要性を指摘する。

アフリカ研究 72:75-81(2008)75

日本-アフリカ交渉史の諸相を考える―いくつかの研究課題と展望―大谷大学文学部  古 川 哲 史
2008 年1月 15 日受付,2008 年1月 31 日受理
連絡先 : 〒 603-8143 京都市北区小山上総町大谷大学文学部
e-mail: furukawa@res.otani.ac.jp

特集:日本-アフリカ交流史の展開

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1.私とアフリカ,本研究テーマとの係わり

私は1964 年(昭和39 年)に兵庫県で生まれ育った。
そして17 歳の高校生のときに父に連れられケニアを訪れる機会を得た。当時,私自身は外国といえばアジアに関心があった程度なのだが,父がチヌア・アチェベなどアフリカ文学の研究・紹介に携わっていた関係で,初めての外国旅行の地がケニアとなった。

その時はわずか1週間あまりの観光客としてのケニア滞在であった。しかし,想像以上に発展していたナイロビの中心街,そして人々の喧騒が渦巻く下町通り,さらには首都を離れて訪れたスケールの大きな自然公園(日本の動物園で見るのとは違い,風景と溶け合う動物たちの美しさ)などでの刺激にみちた体験の日々であった。

それと同時に驚かされたのが,至るところで目にする車や電化製品といった日本製品の多さであった。アフリカ研究者なら,あるいは1980 年代初頭のナイロビを知っている人なら意外なことではないだろうが,当時,ほとんど予備知識もなく訪れた日本の一高校生にとっては,そうした視界に飛び込む日本製品の流入・浸透ぶりは予想していなかったことであった。私にとって物理的にも心理的にも「遠いアフリカ」が,少し身近に思えた。その後,アフリカへの関心は膨らむばかりで,数年後,大学在学中に休学し再びケニアに向かった。今度は日本-アフリカ文化交流協会が 1975 年にナイロビに設けた「スワヒリ語学院」で半年間学ぶためであった。当時は学院関係者によって「星野学校」と呼ばれていたその学校は,創設者・星野芳樹(1909 - 92)の思想と人脈もあり,語学学校というよりは,所属や肩書きを問わず日本の若者にケニア滞在の長期ビザと,勉学あるいは時にやや無謀ともいえる「遊学」の場を与えてくれるところであった。学校は同時に,ケニアの青年に日本語を学ぶ機会を提供していた。私が在籍していた時期は,講師陣は学院長の星野に加えて,ケニアの著名な学者,ジャーナリスト,在住日本人など多彩な顔ぶれであった。星野芳樹は第二次世界大戦前に反戦・共産主義運動により7年間を獄中で過ごし,戦後は平和運動に身を投じ,参議院議員や新聞社の論説委員を務めた人物である。ちなみに,兄・星野直樹は戦前は満洲国総務長官,戦後はA級戦犯となったので,兄弟の人生は実に対照的であった。星野芳樹は戦前からのアジアでの豊富な体験をもとに,アフリカへ関心を拡げ,1957 年に静岡新聞の特派員としてアフリカ各地を訪れた。日本人による現地に根ざしたアフリカ研究や報道が本格化する前の時期であった。以降,アフリカ紹介に精力的に携わり,定年後は私財をはたいてナイロビに先述の学校を創設する。星野は必ずしも日本のアカデミズムの世界と深く係わったわけではないが,戦後の日本とアフリカの人的交流史において,忘れられない日本人の一人であろう。私自身が日本-アフリカ交渉史に興味を持つようになったのも,戦前や戦後初期にアフリカに渡った日本人のことを,彼から何度も聞いていたからであった2)。さらに私がこのテーマに関心を持つ契機となったのは,学院を卒業後,タンザニアのザンジバル島を旅行中に,現地で知り合った人に,かつて「からゆきさん」が住んでいたという家に案内されたことであった。白石(1981)などでその話は知っていたが,なぜ明治時代に日本の女性が遥か東アフリカにまでやって来ることになったのか,と実際にその場所に立ち思いを馳せた。また,その年は<国連女性の 10 年>の最終年(1985 年)であり,ナイロビで開かれた国際会議や催しに日本から多くの女性が参加した。現地にいた私も,京都からのNGOの活動の手伝いなどをした。このような東アフリカでの体験がもとで,大学の卒業論文には「戦前期の日本-アフリカ交渉史」というテーマを選んだ。以降,1920 年代から 30 年代の交渉史を中心に,このテーマへの関心を持ち続けて現在に至っている。2.先行研究について日本-アフリカ交渉史に関しては,当然のことながら先行研究の蓄積がある。第二次世界大戦以前の時期を本格的に研究対象にしたのは,1960 年代以降の西野照太郎であった。国立国会図書館に勤務していた西野は,明治期からの日本人とアフリカの係わりを明らかにすることに力を注いだ。西野の論文やエッセイはこの分野の先駆的なものとして,今日でも高く評価されるべきである。しかし,西野の研究は日本における刊行書物にもとづいたものがほとんどで,一次史料や雑誌文献,さらには外国語文献の利用が僅かしかないという点で限界がある。1980 年代以降は,本テーマの研究成果も増加する。順不同でいくつか言及すると,国際関係論の視点から森川純がいくつかの論文や著書『南アフリカと日本――関係の歴史・構造・課題』(同文舘,1988 年)を発表し,後に英文著作 Japan and Africa: Big Business andDiplomacy (London: Hurst & Co.; Trenton & Asmara: AfricaWorld Press, 1997) を出版した。北川勝彦は経済史的な視点から研究を進め,岡倉登志は政治史的な視点から関連論文を発表してきた。岡倉は北川との共著で『日本-アフリカ交流史――明治期から第二次世界大戦期まで』(同文舘,1993 年)を刊行している。北川は領事報告などを綿密に分析し,数多くの論文と『日本-南アフリカ通商関係史研究』(国際日本文化研究センター,1997 年)を公にしている。青木澄夫は国際協力事業団(後に中部大学)に勤務しながら精力的に文献探索をおこない,『アフリカに渡った日本人』(時事通信社,1993 年)および『日本人のアフリカ「発見」』(山川出版社,2000 年)の著作をはじめ,関係論文・エッセイを刊行してきた。吉國恒雄はアフリカの大学でアフリカ史の博士号(ジンバブウェ大学,1989 年)を取得した数少ない日本人のひとりである。吉國は日本にアフリカ史学を根付かせようと務め,この分野でも貴重な論考を残しているが,2006 年に病により亡くなった。日本人のアフリカ認識の問題に取り組んできた藤田みどりは,主に比較文化・文学史論的観点から論文を発表してきた。藤田は博士論文(東京大学,1997 年)の一部を補訂した『アフリカ「発見」――日本におけるアフリカ像の変遷』(岩波書店,2005 年)を出版している3)。
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なお,アフリカや欧米諸国でも日本-アフリカ交渉史の研究は進められてきた。たとえば,第二次世界大戦期までの日本とアフリカの関係を世界史の枠組みで論じることを試みた,日本生まれのアメリカ人による博士論文(Richard Bradshaw, “Japan and European Colonialismin Africa:1800-1937,”Ohio University, 1992)や, 日 本 の大学から博士号(筑波大学,1999 年)を取得したエチオピア人研究者の編による関連論考を含んだ SeifudenAdem ed., Japan, a Model and a Partner: Views and Issues inAfrican Development (Leiden: Brill, 2006) など,近年の書物まで数も少なくない。逆にこのテーマに取り組む日本人の割り合いの少なさが目立つほどである。内外での学会や研究会,国際会議等で,日本とアフリカとの交渉史が取り上げられるようになってきてもいる。


3.時代区分と叙述について

上述した先行研究の業績は貴重であるが,もちろんそれだけで十分というわけではない。未開拓の分野,未着手のテーマは非常に多い。一次史料の探索をはじめ,聞き取りや口承資料の扱い,分析枠組みに関する議論などはまだ不十分であろう。現在,個人的に気になる点のひとつに,日本-アフリカ交渉史研究における時代区分の認識やその区分にもとづいた叙述の問題がある。それは,日本-アフリカ交渉史をグローバルな歴史のなかで捉える眼差しの問題でもある。
時代区分とともに地域区分も議論すべき問題であるが,地域区分については,「日本」や「アフリカ」という概念自体が,時代とともに,また研究者によって恣意的に設定あるいは変容されやすいという点だけを指摘しておきたい。(研究対象としての「日本人」「アフリカ人」も同様である。)海域世界をどう扱うかの問題もある。時代区分については,時代を時間軸にそって区分することの意味合いが,アフリカ史さらには歴史学一般における基本的な問題あるいは歴史哲学的課題としてあるが,ここでは便宜上,日本史,アジア史,アフリカ史のそれぞれの枠組みとの関連を少し考えたい。
日本-アフリカ交渉史を日本人が考察する場合,日本史で一般に流通している区分に沿って考えられることが多い。私自身も「安土桃山期」「江戸期」「明治期」「昭和期(第二次世界大戦期まで)」「昭和期(戦後)」といった時代区分を安易に利用して議論や叙述を進めてきた。しかし自己反省しつつ考えると,交渉史研究でそれらを使う場合は,世界史的な流れとより密接に繋げてその区分の適切さ,あるいは意味合いを深く問う必要があろう。また,アジア史の枠組みから日本とアフリカの交渉史を考える際には,インドや中国を含めたアジアとアフリカの歴史的に長く層の厚い交渉史のなかで,日本とアフリカの係わりの諸相を捉えなければならない。その際,たとえばフィリップ・カーテン(Philip Curtin)の異文化間交流における「トレード・ディアスポラ」の研究(Curtin,1984),K・N・チャウドリ(K. N. Chaudhuri)による,近代世界システムの誕生とインド洋における交易ネットワークの収縮と膨張を図とともに分析・提示した研究(Chaudhuri, 1985)などは,史実の背景にあるシステムを理解するために参照とすべきものであろう。日本人研究者にも家島彦一のインド洋と地中海を結ぶ人と物の移動を扱った大部な著書がある(家島,2006)。19 世紀後半から 20 世紀前半においては,アジアやアフリカでのイギリス帝国の存在は無視できないし,第二次世界大戦後のアメリカ合州国とソビエト連邦による冷戦体制の史的形成と変容もまた考慮せねばならない4)。
一方,日本-アフリカ交渉史をアフリカ史の流れで考えた場合,どのような時代区分と叙述が有益であり,どうした歴史像が描けるのであろうか。今の私には具体的な議論はできないが,いずれにせよアフリカ史のダイナミズムと深く連動した歴史像となろう。当然,アフリカは世界史の中で孤立した存在ではなく,古代から現在に至るまで,西アジアや地中海世界,インド洋世界,ヨーロッパや南北アメリカ世界などとの結びつきを発展させてきた。現在,トランス・ナショナルな視点からの歴史学が重要視され,「グローバル・ヒストリー」構築などの学問的動向を生んでいるが,日本-アフリカ交渉史(そしてアフリカ史自体)がそもそもトランス・ナショナルであり,トランス・オーシャン,トランス・コンチネンタルであるのは明らかである。単なる二つの国,二つの点の関係だけでなく,日本とアフリカの間の要素,そして日本とアフリカの交渉の諸相を取り巻く外的要素を,グローバルな史的視座から捉える必要がある。

4.本研究テーマのいくつかの課題

長崎のシンポジウムでの発表では,私自身がまだ検討していない,あるいは推測の域を出ない事柄も,あえて問題提起あるいは今後の課題,さらには今後の課題になりそうな話題として,日本史の時間軸に沿っていくつか触れた。まず,その問いかけ自体に問題があるのかもしれないが,<日本人>と<アフリカ人>の出会いの嚆矢はいつ頃まで遡ることができるのかという点に言及した。現在の東南アフリカ,モザンビーク周辺のアフリカ人を伴ったイエズス会の宣教師やヨーロッパ商人らが来日した
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16 世紀は,しばしば「日本人と西洋人の出会い」の時期であり,「日本人とアフリカ人の出会い」の始まりともされる。しかし,こうした見方は,両者の接触や出会いを,長崎はじめ日本国内に限定した場合に過ぎない。詳細は今後の研究を待たねばならないが,おそらくは遥か以前から両者の接触や交流はあったであろう。
たとえば7世紀初頭に始まる唐の長安(現在の西安)は,8世紀には人口 100 万人を越える国際的な大都市となっている。筆者は近代以降とくに 1920 年代から 30 年代に研究の焦点を当ててきたので,その時代は門外漢であるが,中国の都でアフリカ大陸から来た人と日本列島から訪れた人との接触はなかったのであろうか。
16 世紀以前にも,世界中で人の移動は活発に行われており,それはアジアやアフリカでも例外ではない。インド洋と東アジアを結ぶ東南アジアの貿易・商業拠点都市では両者の接触はあったであろう。マラッカなど諸都市に関する記録にはどのようにあるのだろうか。
16 世紀の日本人とアフリカ人の出会いについては,イエズス会士アレッサンドロ・ヴァリニャーノから織田信長に「献上」された<黒人>のエピソードが有名である。彼については,本能寺の変の後に明智光秀によりイエズス会に返されたといわれる。この<黒人>の出身地や日本に至るまでの経緯,その後の消息など,もう少し詳細を知る確かな一次史料はないのだろうか。また,日本-アフリカ交渉史の関連論考や著書に「南蛮屏風」に描かれた<黒人>たち,と紹介されることが多い「肌の色の濃い人々」は,必ずしもアフリカ大陸出身者ばかりではなく,東南アジア出身者なども多いはずである。かつて,美術研究では屏風絵の人種同定などはされていないと聞いたが,この問題に関する科学的なアプローチはあるのだろうか。
さらには筆者の 16 世紀への関心でいえば,ヨーロッパ人による日本人奴隷の売買あるいは奴隷貿易の問題がある。当時,東南アジアからアフリカ,ポルトガル,さらにはアルゼンチンなどにまで日本人奴隷の存在が記録されているようだ。<黒人>によって買われた日本人奴隷もいたという。おそらく,様々な地域でアフリカ系と日系の人々の接触が起きていた。藤田(2005)等が若干の事例や文献紹介を試みているが,こうした日本人奴隷の諸相の実態を解明できる一次史料はどれほど残されているのか,あるいは仮に現存していても入手できるのであろうか。
近代に話を移すと,物理的にも心理的にも日本(人)から「遠い」と思われがちなアフリカゆえにこそ,その地への係わりに,日本の近代化の特徴を凝縮して見ることができる場合がある。日本は欧米諸国との関係を主軸に,「脱亜」と「興亜」の狭間にゆれ,アフリカとの係わりはその副産物であることが多かった。したがって,日本-アフリカ交渉史も,政治,経済,社会,文化の側面において,必然的に当時の欧米列強をはじめ諸外国・地域との国際関係史とともに考慮されねばならない。二つの世界大戦期においても同様である。
戦後から現在までの時期は様々な研究課題があるが,最近の動向に目をやると,中国やインドのアフリカへの経済を軸とした積極的な関係構築の動きがあり,日本とアフリカの関係に影響を与えている。東南アジアや日本を含めた東アジアで増加するアフリカ系の人々の「アジア体験」「日本体験」5)なども研究対象となろう。
また,日本-アフリカ交渉史の研究に際しては,同時に「日本人のアフリカ観」が論じられることも多い。しかし,「アフリカ」という前提条件を成立させている要因を考慮する必要があろうし,現在われわれが利用できる過去の文献の言説分析の組み合わせで,どこまでのことが言えるのかという問題がある。口承・映像資料などの扱いもある。さらには,近代以降のアフリカ人や黒人に対するイメージを問題にする場合,アフリカ系アメリカ人(アメリカ黒人)の要因が重要になる。幕末に日本近海にやってきたアメリカの捕鯨船やペリーの黒船には,乗組員のなかに黒人がおり,日本人漂流者や幕府の関係者と接触・交流を持った者もいる。日本人にとっての<アフリカ>や<アメリカ>そして<黒人>や<有色人>という,それぞれのイメージの重なりとずれを考えねばならないだろう。

おわりに

最後に,日本-アフリカ交渉史を研究する意義と今後の課題についていくつか触れておきたい。

日本-アフリカ交渉史の研究は,日本史研究に「遠い」と思われがちなアフリカの視点を投げかけることになる。それは,日本史研究が陥りやすい狭い「一国史観」を解き開き,新たな日本史像の構築に寄与するであろう。「国民の歴史」だけではなく,日本とアフリカ,そしてその間にまたがる地域に生きる人々の歴史を描くことになる。したがって,アジア史研究の発展にも貢献し,「グローバル・ヒストリー」の試み,記述に繋げることができよう。
また日本-アフリカ交渉史の研究は,旧宗主国やアメリカ合州国との関係に偏りがちなアフリカの対外交渉史・関係論研究に,「日本」という要素を加えることができるであろう。日本(語)の史・資料によるアフリカ史像構築も含めて,アフリカ研究の視野を広げることに
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なる。さらには近年,とくに蓄積が目覚しいアフリカン・ディアスポラの歴史研究にも,日本を含めたアジアというまだまだ未開拓な領域から,光を照射することができよう。
アフリカン・ディアスポラとの関連で言えば,ロンドン生まれのブラック・ブリティッシュであるポール・ギルロイ(Paul Gilroy)が「ブラック・アトランティック」として投げかけた主張(Gilroy, 1993)6),あるいは近年盛んな「環大西洋世界」といった枠組みは,アフリカン・ディアスポラ,とくに南北アメリカおよびヨーロッパにおけるアフリカ系の人々とアフリカの人々の歴史・文化に関する研究を有機的に繋げる試みを促した。現在,それに加えて,「ブラック・パシフィック」や「ブラック・インディアン・オーシャン」といったアフリカとアジア世界を結ぶ視座の構築,理論的かつ実証的な研究が必要とされているのではないか7)。その作業は,アジアにおけるアフリカ系ディアスポラの歴史世界を描くことであり,移動する人々のルーツとルートを繋ぐ,時空間の<接続性>の歴史叙述を含むことになろう。
日本とアフリカの交渉史のみならず,日本と世界との交渉史全般に言えることであるが,陸からの視点に加えて,海からの視点は重要である。「海からの歴史」という言葉が表すように,海から見た人の移動性の考察は,アジアとアフリカの史的係わりを理解する上では欠かせない8)。さらには,現在は人も物も空を通して運ばれることが多い。難民も移民もヘリコプターやジャンボジェット機で移動する時代である。現代史の舞台においては,ルートとしては点と点を結んでゆく,そして物理的距離と実際に要する時間的距離の大きな乖離を含んだ「空からの歴史」の視点による関係史像構築も必要ではないか。昨今の情報化社会の発達においては,日本とアフリカを結ぶインターネットなどの役割や影響も今後の研究課題となろう。
日本-アフリカ交渉史における研究テーマは豊富にある。学術的かつ教育・社会的意義を考えれば,まずは基本的な年表作成作業などから始めるべきであろうか。そして,今後の研究遂行の実務的な面では,非文字資料も含めた関連史・資料や情報の収集およびアクセス,あるいは閲覧許可,そこにまつわる言葉の壁などを考慮すると,質の高い個人研究とともに,有機的な国際共同研究が求められている。そして,歴史学だけでなく,地理学や政治学,法学,文学,社会学,文化・生態人類学,ジェンダー学など人文・社会の諸分野と協同しつつ,ときに自然科学の力も借りて,グローバルな射程のもと地道に史実を積み上げてゆく長期間の作業が必要であろう。




1)本シンポジウムでの発表後,日本アフリカ学会会長である関西大学・北川勝彦先生より有益なコメントを頂いた。また,本稿執筆に際しても再度,先生の研究室を訪れ意見をお伺いした。深く感謝したい。もちろん本稿の内容については,すべて筆者に責任がある。

2)星野芳樹については,星野(1959),星野(1978),星野(1986)などの著作のほか,星野がナイロビで発行し続けてきたニューズレターをまとめた星野(1997)などが参考になる。 

3)青木(2000)および藤田(2005)については,筆者も本誌『アフリカ研究』で書評する機会があった(古川,2001,2006)。

4)Curtin(1984),Chaudhuri(1985),家島(2006)などの重厚な研究が参照されるべきであろう。川勝編(2002)も参考とした。

5)たとえば,日本では三島禎子がソニンケの人々のアジアへの移動と経済活動を論じ,ディアスポラ概念の再検討を行っている(三島,2002)。また,現在2-3万人と考えられている在日アフリカ人についても,近年,研究者やNGO関係者が本格的な研究を始めている。

6)Paul Gilroy は著書の中で,ブラック・ナショナリズムの枠組みをアメリカ中心主義から広く大西洋域に拡大し,時間軸と空間軸の両面で再構成を試みている(Gilroy, 1993)。

7)アフリカおよびアフリカ系の人々とアジアの人々を結ぶグローバルな史的視座による歴史研究が本格化されてきたのは近年である。たとえば,Jayasuriya and Pankhurst(2003),Gomez(2005),Zeleza(2005)などを参照のこと。アフリカ系アメリカ史におけるアジアの視座の重要性については,Horne(2006)が指摘している。なお,同様の試みのひとつとして筆者が係わったものに『アフリカーナ』(Africana)百科事典がある。この百科事典の編纂構想は,アフリカ系アメリカ人として米国に生まれ,「近代黒人解放運動の父」としてパンアフリカニズムなどにも多大な影響を与え,最晩年にはガーナの国籍を取得して生涯を終えたW・E・B・デュボイス(W. E. B. Du Bois)によるものである。デュボイスは,黒人への偏見や差別に対抗するためには黒人の知性を示すための百科事典が必要と考えた。その彼の発案によってアクラで始められた黒人百科事典プロジェクトは彼の死とともに未完に終わった。しかしその遺志を受け継ぎ,ハーバード大学W・E・B・デュボイス研究所所長のヘンリー・ルイス・ゲイツ(Henry Louis Gates, Jr.)が同僚のクワメ・アンソニー・アッピア(Kwame AnthonyAppiah)とともに編集責任者となり,ナイジェリアのノーベル文学賞作家ウォレ・ショインカ(Wole Soyinka)をプロジェクト顧問とし,1999 年に 1 巻本の百科事典(Appiah andGates, 1999)を完成させた。しかし,この事典については画期的な出版という評価の一方で,索引の不備などにくわえて,何よりも項目がアフリカ系アメリカに偏りすぎているという批判がでた。その後,2005 年刊行の増補改定版(5巻本)では「黒人とアジア人の関係」の項目(Furukawa, 2005)が取り入れられた。ただし同項に関して編集部が設定したのは,「黒人とアジアの人々の関係を,古代から現在まで概観し,
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21 世紀への展望も付あわせて付す」という,限られたスペースに比してあまりに大きなテーマであった。このテーマでは<黒人>や<アジア人>の多様性の欠如が問題となるが,これまでになかったアジアに関する項目が設けられたこと自体をまず評価すべきであろうか。

8)北川勝彦は「アジア史とアフリカ史の研究は,西洋中心史観の相対化という点では共通して『リオリエント』をめざしているのかもしれない。今は,海洋アジアと日本から近代アフリカ史を捉え返す好機が訪れているのかもしれない」と述べている(北川,2002)。


考文献

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青木澄夫(1993)『アフリカに渡った日本人』,時事通信社。

青木澄夫(2000)『日本人のアフリカ「発見」』,山川出版社。

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Chaudhuri, K.N.(1985)Trade and Civilization in the Indian Ocean:An Economic History from the Rise of Islam to 1750, Cambridge,Cambridge University Press.

Curtin, Philip(1984)Cross-Cultural Trade in World History,Cambridge, Cambridge University Press.

カーテン,フィリップ(田村愛理・中堂幸政・山影進訳)(2002)『異文化間交易の歴史』,NTT出版 .

藤田みどり(2005)『アフリカ「発見」――日本におけるアフリカ像の変遷』,岩波書店 .

古川哲史(2001)「書評:青木澄夫『日本人のアフリカ「発見」』」,『アフリカ研究』59:115-116.

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Furukawa, Tetsushi (2005) “Black-Asian Relations,”in KwameAnthony Appiah and Henry Louis Gates, Jr. eds., Africana: TheEncyclopedia of the African and African American Experience,Second edition, Vol.1, Oxford and New York, Oxford UniversityPress, pp. 479-480.

Gilroy, Paul(1993)The Black Atlantic: Modernity and DoubleConsciousness, Cambridge, Harvard University Press.

ギルロイ,ポール(上野俊哉・毛利嘉孝・鈴木慎一郎訳)(2006)『ブラック・アトランティック――近代性と二重意識』,月曜社 .

Gomez, Michael(2005)Reversing Sail: A History of the AfricanDiaspora, Cambridge, Cambridge University Press.

Horne, Gerald (2006)“Toward a Transnational Research Agendafor African American History in the 21st Century,”The Journal ofAfrican American History, 91(3): 288-303.

星野芳樹(1959)『アジア・アフリカ紀行』,講談社 .

星野芳樹(1978)『アフリカの指導者――アフリカわが心の友だち』,ブロンズ社 .

星野芳樹(1986)『星野芳樹自伝――静岡からナイロビへ』,リブロポート .

星野芳樹(1997)『ナイロビだより』,私家版 .J

ayasuriya, Shihan de Silva and Richard Pankhurst, eds.(2003)TheAfrican Diaspora in the Indian Ocean, Trenton and Asmara, AfricaWorld Press.

川勝平太編(2002)『グローバル・ヒストリーに向けて』,藤原書店 .

北川勝彦(1997)『日本―南アフリカ通商関係史研究』,国際日本文化研究センター .

北川勝彦(2002)「アフリカ史研究の『リオリエント』」,川勝平太編,『グローバル・ヒストリーに向けて』,藤原書店,pp. 171-181.

三島禎子(2002)「ソニンケにとってのディアスポラ――アジアへの移動と経済活動の実態」,『国立民族学博物館研究報告』,27(1):121-157.  

森川純(1988)『南アフリカと日本――関係の歴史・構造・課題』,同文舘 .

Morikawa, Jun (1997)Japan and Africa: Big Business andDiplomacy, London, Hurst & Co.; Trenton and Asmara, AfricaWorld Press.

岡倉登志・北川勝彦(1993)『日本-アフリカ交流史――明治期から第二次世界大戦期まで』,同文舘 .

白石顕二(1981)『ザンジバルの娘子軍からゆきさん』,冬樹社 .

家島彦一(2006)『海域から見た歴史――インド洋と地中海を結ぶ交流史』,名古屋大学出版会 .

Zeleza, Paul Tiyambe(2005)“Rewriting the African Diaspora:Beyond the Black Atlantic,”African Affairs, 104(414): 35-68.
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Page 7    81

特集:日本-アフリカ交流史の展開

(Summary)

Historical Studies of Japanese-African Relations: Some Issues and Prospects

Furukawa Tetsushi
Otani University

This paper is primarily based on my presentation“Historical Studies of Japanese–African Relations:Some Issues and Prospects” at the symposium of the44th annual meeting of the Japan Association for Afri-can Studies, which was held in Nagasaki in May, 2007.Historical relations between Japan and Africa have beenstudies by some scholars, but a number of importanttopics have not been examined yet. For instance, Japa-nese scholars have tended to see the relations within thecontext of national history; thus, early contacts betweenJapanese and Africans outside the land of Japan beforethe 16th century have not been adequately known evento academics. This paper presents some significantaspects to be further explored in historical studies ofJapanese-African relations. It also states that historicalstudies, as well as studies on current issues in Japanese-African relations, provide Japanese, Asian, African,and world history with new and global perspectives.




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Wednesday, November 25, 2009

恩師 星野芳樹氏について

     
私の恩師 星野芳樹氏 (アフリカ・ケニア・ナイロビ)




アフリカ婦人と談笑する星野芳樹氏




【以下に星野芳樹氏の活動に係わる人々の紹介記事です。】       

【注:google検索を利用しました。】


【出展引用1】: ダニエルサラーム便り 根本 利通(ねもととしみち

http://jatatours.intafrica.com/habari66.html

【出展引用2】: ケニア旅行記3

http://www.geocities.jp/walkabout_ted/kenya_travel3.htm

【出展引用3】:

第001回国会 在外同胞引揚問題に関する特別委員会引揚促進並びに感謝決議に関する小委員会 第1号

http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/001/1536/00108071536001a.html

【出展引用4】:

日本―アフリカ交流史の展開 
日本-アフリカ交渉史の諸相を考える
―いくつかの研究課題と展望ー

  http://wwwsoc.nii.ac.jp/africa/j/publish/pdf/V72/75-81.pdf

大谷大学文学部  古 川 哲 史

2008 年1月15 日受付,2008 年1月31 日受理

連絡先: 〒603-8143 京都市北区小山上総町
大谷大学文学部

e-mail:  frukawa@res.otani.ac.jp

【出展引用始め】:

【出展引用リンク】:

http://wwwsoc.nii.ac.jp/africa/j/publish/pdf/V72/75-81.pdf


特集 : 日本-アフリカ交渉史の展開

日本ーアフリカ交渉史の諸相を考える

いくつかの研究課題と展望

大谷大学 文学部 古川哲史 2008年5月16日作成

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【出展引用リンク】: 


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はじめに

本稿は長崎で開催された日本アフリカ学会・第 44 回学術大会の公開シンポジウム(2007 年5月 26 日)における私の発表「日本-アフリカ交渉史の諸相を考える――いくつかの課題と展望」の内容に,現在考えていることを少し加えたものである1)。

発表に際しては主催者から,最後の登壇者としてできるだけ既成の枠を打ち破るような話を,と求められていたこともあり,まだ学術的あるいは歴史学的に裏づけされていない話やテーマも,あえて問題提起として触れた。発表では,一般への公開シンポジウムであることを意識して,学会などでは普段話すことのない私自身のアフリカとの私的係わりから述べた。

それは単に聴衆への自己紹介という意図だけではなく,私のアフリカとの係わりもまた,非常に微々たるものではあろうが,日本-アフリカ交渉史の時代的諸相を表すものと考えたからである。

もちろん,1964 年に設立された本学会の会員の今までの活動自体が,日本における学術的な側面を主とした日本とアフリカとの係わりの形成に大きく寄与してきたであろうし,個々の会員の「アフリカ体験」の中身,その質と量の変容に,日本-アフリカ交渉史の流れを見ることができる。

1.私とアフリカ,本研究テーマとの係わり私は 1964 年(昭和 39 年)に兵庫県で生まれ育った。そして 17 歳の高校生のときに父に連れられケニアを訪れる機会を得た。当時,私自身は外国といえばアジアに関心があった程度なのだが,父がチヌア・アチェベなどアフリカ文学の研究・紹介に携わっていた関係で,初めての外国旅行の地がケニアとなった。その時はわずか1週間あまりの観光客としてのケニア滞在であった。

しかし,想像以上に発展していたナイロビの中心街,そして人々の喧騒が渦巻く下町通り,さらには首都を離れて訪れたスケールの大きな自然公園(日本の動物園で見るのとは違い,風景と溶け合う動物たちの美しさ)などでの刺激にみちた体験の日々であった。

それと同時に驚かされたのが,至るところで目にする車や電化製品といった日本製品の多さであった。

アフリカ研究者なら,あるいは 1980 年代初頭のナイロビを知っている人なら意外なことではないだろうが,当時,ほと近年,日本-アフリカ交渉史に関する研究は,日本やアフリカ,欧米諸国などの研究者によって増えつつある。

しかし,歴史学的な観点から見ると,未開拓な分野,着手されていないテーマはまだ多い。

私は今まで 1920年代- 30 年代の日本とアフリカの交渉史に焦点を当ててきたが,本稿ではまず私自身のアフリカや本テーマとの係わりを述べる。それは,その事例自体が,日本人のアフリカへの係わりの時代的諸相の一側面を反映していると思われるからである。

次に,先行研究を概観し,時代区分の問題や対象地域への視座の問題を論じる。

そして,私自身も未検討な,あるいは推測の域を出ていない事柄も含めて,今後の研究課題としていくつかの問題を提示する。

最後に,日本-アフリカ交渉史研究における方法論的枠組みのさらなる議論や,国際的かつ学際的な共同研究の必要性を指摘する。


アフリカ研究 72:75-81(2008)75

日本-アフリカ交渉史の諸相を考える
―いくつかの研究課題と展望―

大谷大学文学部  古 川 哲 史
2008 年1月 15 日受付,2008 年1月 31 日受理
連絡先 : 〒 603-8143 京都市北区小山上総町大谷大学文学部
e-mail: furukawa@res.otani.ac.jp

特集:日本-アフリカ交流史の展開

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1.私とアフリカ,本研究テーマとの係わり

私は1964 年(昭和39 年)に兵庫県で生まれ育った。

そして17 歳の高校生のときに父に連れられケニアを訪れる機会を得た。当時,私自身は外国といえばアジアに関心があった程度なのだが,父がチヌア・アチェベなどアフリカ文学の研究・紹介に携わっていた関係で,初めての外国旅行の地がケニアとなった。

その時はわずか1週間あまりの観光客としてのケニア滞在であった。しかし,想像以上に発展していたナイロビの中心街,そして人々の喧騒が渦巻く下町通り,さらには首都を離れて訪れたスケールの大きな自然公園(日本の動物園で見るのとは違い,風景と溶け合う動物たちの美しさ)などでの刺激にみちた体験の日々であった。

それと同時に驚かされたのが,至るところで目にする車や電化製品といった日本製品の多さであった。

アフリカ研究者なら,あるいは1980 年代初頭のナイロビを知っている人なら意外なことではないだろうが,当時,ほとんど予備知識もなく訪れた日本の一高校生にとっては,そうした視界に飛び込む日本製品の流入・浸透ぶりは予想していなかったことであった。

私にとって物理的にも心理的にも「遠いアフリカ」が,少し身近に思えた。その後,アフリカへの関心は膨らむばかりで,数年後,大学在学中に休学し再びケニアに向かった。

今度は日本-アフリカ文化交流協会が 1975 年にナイロビに設けた「スワヒリ語学院」で半年間学ぶためであった。

当時は学院関係者によって「星野学校」と呼ばれていたその学校は,創設者・星野芳樹(1909 - 92)の思想と人脈もあり,語学学校というよりは,所属や肩書きを問わず日本の若者にケニア滞在の長期ビザと,勉学あるいは時にやや無謀ともいえる「遊学」の場を与えてくれるところであった。

学校は同時に,ケニアの青年に日本語を学ぶ機会を提供していた。私が在籍していた時期は,講師陣は学院長の星野に加えて,ケニアの著名な学者,ジャーナリスト,在住日本人など多彩な顔ぶれであった。

星野芳樹は第二次世界大戦前に反戦・共産主義運動により7年間を獄中で過ごし,戦後は平和運動に身を投じ,参議院議員や新聞社の論説委員を務めた人物である。

ちなみに,兄・星野直樹は戦前は満洲国総務長官,戦後はA級戦犯となったので,兄弟の人生は実に対照的であった。

星野芳樹は戦前からのアジアでの豊富な体験をもとに,アフリカへ関心を拡げ,1957 年に静岡新聞の特派員としてアフリカ各地を訪れた。日本人による現地に根ざしたアフリカ研究や報道が本格化する前の時期であった。

以降,アフリカ紹介に精力的に携わり,定年後は私財をはたいてナイロビに先述の学校を創設する。星野は必ずしも日本のアカデミズムの世界と深く係わったわけではないが,戦後の日本とアフリカの人的交流史において,忘れられない日本人の一人であろう。

私自身が日本-アフリカ交渉史に興味を持つようになったのも,戦前や戦後初期にアフリカに渡った日本人のことを,彼から何度も聞いていたからであった2)。

さらに私がこのテーマに関心を持つ契機となったのは,学院を卒業後,タンザニアのザンジバル島を旅行中に,現地で知り合った人に,かつて「からゆきさん」が住んでいたという家に案内されたことであった。

白石(1981)などでその話は知っていたが,なぜ明治時代に日本の女性が遥か東アフリカにまでやって来ることになったのか,と実際にその場所に立ち思いを馳せた。

また,その年は<国連女性の 10 年>の最終年(1985 年)であり,ナイロビで開かれた国際会議や催しに日本から多くの女性が参加した。

現地にいた私も,京都からのNGOの活動の手伝いなどをした。

このような東アフリカでの体験がもとで,大学の卒業論文には「戦前期の日本-アフリカ交渉史」というテーマを選んだ。

以降,1920 年代から 30 年代の交渉史を中心に,このテーマへの関心を持ち続けて現在に至っている。

2.先行研究について日本-アフリカ交渉史に関しては,当然のことながら先行研究の蓄積がある。

第二次世界大戦以前の時期を本格的に研究対象にしたのは,1960 年代以降の西野照太郎であった。

国立国会図書館に勤務していた西野は,明治期からの日本人とアフリカの係わりを明らかにすることに力を注いだ。

西野の論文やエッセイはこの分野の先駆的なものとして,今日でも高く評価されるべきである。

しかし,西野の研究は日本における刊行書物にもとづいたものがほとんどで,一次史料や雑誌文献,さらには外国語文献の利用が僅かしかないという点で限界がある。1980 年代以降は,本テーマの研究成果も増加する。

順不同でいくつか言及すると,国際関係論の視点から森川純がいくつかの論文や著書『南アフリカと日本――関係の歴史・構造・課題』(同文舘,1988 年)を発表し,後に英文著作 Japan and Africa: Big Business andDiplomacy (London: Hurst & Co.; Trenton & Asmara: AfricaWorld Press, 1997) を出版した。

北川勝彦は経済史的な視点から研究を進め,岡倉登志は政治史的な視点から関連論文を発表してきた。

岡倉は北川との共著で『日本-アフリカ交流史――明治期から第二次世界大戦期まで』(同文舘,1993 年)を刊行している。

北川は領事報告などを綿密に分析し,数多くの論文と『日本-南アフリカ通商関係史研究』(国際日本文化研究センター,1997 年)を公にしている。青木澄夫は国際協力事業団(後に中部大学)に勤務しながら精力的に文献探索をおこない,『アフリカに渡った日本人』(時事通信社,1993 年)および『日本人のアフリカ「発見」』(山川出版社,2000 年)の著作をはじめ,関係論文・エッセイを刊行してきた。

吉國恒雄はアフリカの大学でアフリカ史の博士号(ジンバブウェ大学,1989 年)を取得した数少ない日本人のひとりである。

吉國は日本にアフリカ史学を根付かせようと務め,この分野でも貴重な論考を残しているが,2006 年に病により亡くなった。

日本人のアフリカ認識の問題に取り組んできた藤田みどりは,主に比較文化・文学史論的観点から論文を発表してきた。

藤田は博士論文(東京大学,1997 年)の一部を補訂した『アフリカ「発見」――日本におけるアフリカ像の変遷』(岩波書店,2005 年)を出版している3)。

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なお,アフリカや欧米諸国でも日本-アフリカ交渉史の研究は進められてきた。

たとえば,第二次世界大戦期までの日本とアフリカの関係を世界史の枠組みで論じることを試みた,日本生まれのアメリカ人による博士論文(Richard Bradshaw, “Japan and European Colonialismin Africa:1800-1937,”Ohio University, 1992)や, 日 本 の大学から博士号(筑波大学,1999 年)を取得したエチオピア人研究者の編による関連論考を含んだ SeifudenAdem ed., Japan, a Model and a Partner: Views and Issues inAfrican Development (Leiden: Brill, 2006) など,近年の書物まで数も少なくない。

逆にこのテーマに取り組む日本人の割り合いの少なさが目立つほどである。内外での学会や研究会,国際会議等で,日本とアフリカとの交渉史が取り上げられるようになってきてもいる。


3.時代区分と叙述について

上述した先行研究の業績は貴重であるが,もちろんそれだけで十分というわけではない。未開拓の分野,未着手のテーマは非常に多い。

一次史料の探索をはじめ,聞き取りや口承資料の扱い,分析枠組みに関する議論などはまだ不十分であろう。

現在,個人的に気になる点のひとつに,日本-アフリカ交渉史研究における時代区分の認識やその区分にもとづいた叙述の問題がある。

それは,日本-アフリカ交渉史をグローバルな歴史のなかで捉える眼差しの問題でもある。

時代区分とともに地域区分も議論すべき問題であるが,地域区分については,「日本」や「アフリカ」という概念自体が,時代とともに,また研究者によって恣意的に設定あるいは変容されやすいという点だけを指摘しておきたい。(研究対象としての「日本人」「アフリカ人」も同様である。)海域世界をどう扱うかの問題もある。

時代区分については,時代を時間軸にそって区分することの意味合いが,アフリカ史さらには歴史学一般における基本的な問題あるいは歴史哲学的課題としてあるが,ここでは便宜上,日本史,アジア史,アフリカ史のそれぞれの枠組みとの関連を少し考えたい。

日本-アフリカ交渉史を日本人が考察する場合,日本史で一般に流通している区分に沿って考えられることが多い。

私自身も「安土桃山期」「江戸期」「明治期」「昭和期(第二次世界大戦期まで)」「昭和期(戦後)」といった時代区分を安易に利用して議論や叙述を進めてきた。

しかし自己反省しつつ考えると,交渉史研究でそれらを使う場合は,世界史的な流れとより密接に繋げてその区分の適切さ,あるいは意味合いを深く問う必要があろう。

また,アジア史の枠組みから日本とアフリカの交渉史を考える際には,インドや中国を含めたアジアとアフリカの歴史的に長く層の厚い交渉史のなかで,日本とアフリカの係わりの諸相を捉えなければならない。

その際,たとえばフィリップ・カーテン(Philip Curtin)の異文化間交流における「トレード・ディアスポラ」の研究(Curtin,1984),K・N・チャウドリ(K. N. Chaudhuri)による,近代世界システムの誕生とインド洋における交易ネットワークの収縮と膨張を図とともに分析・提示した研究(Chaudhuri, 1985)などは,史実の背景にあるシステムを理解するために参照とすべきものであろう。

日本人研究者にも家島彦一のインド洋と地中海を結ぶ人と物の移動を扱った大部な著書がある(家島,2006)。

19 世紀後半から 20 世紀前半においては,アジアやアフリカでのイギリス帝国の存在は無視できないし,第二次世界大戦後のアメリカ合州国とソビエト連邦による冷戦体制の史的形成と変容もまた考慮せねばならない4)。

一方,日本-アフリカ交渉史をアフリカ史の流れで考えた場合,どのような時代区分と叙述が有益であり,どうした歴史像が描けるのであろうか。今の私には具体的な議論はできないが,いずれにせよアフリカ史のダイナミズムと深く連動した歴史像となろう。

当然,アフリカは世界史の中で孤立した存在ではなく,古代から現在に至るまで,西アジアや地中海世界,インド洋世界,ヨーロッパや南北アメリカ世界などとの結びつきを発展させてきた。

現在,トランス・ナショナルな視点からの歴史学が重要視され,「グローバル・ヒストリー」構築などの学問的動向を生んでいるが,日本-アフリカ交渉史(そしてアフリカ史自体)がそもそもトランス・ナショナルであり,トランス・オーシャン,トランス・コンチネンタルであるのは明らかである。

単なる二つの国,二つの点の関係だけでなく,日本とアフリカの間の要素,そして日本とアフリカの交渉の諸相を取り巻く外的要素を,グローバルな史的視座から捉える必要がある。


4.本研究テーマのいくつかの課題

長崎のシンポジウムでの発表では,私自身がまだ検討していない,あるいは推測の域を出ない事柄も,あえて問題提起あるいは今後の課題,さらには今後の課題になりそうな話題として,日本史の時間軸に沿っていくつか触れた。

まず,その問いかけ自体に問題があるのかもしれないが,<日本人>と<アフリカ人>の出会いの嚆矢はいつ頃まで遡ることができるのかという点に言及した。現在の東南アフリカ,モザンビーク周辺のアフリカ人を伴ったイエズス会の宣教師やヨーロッパ商人らが来日した

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16 世紀は,しばしば「日本人と西洋人の出会い」の時期であり,「日本人とアフリカ人の出会い」の始まりともされる。しかし,こうした見方は,両者の接触や出会いを,長崎はじめ日本国内に限定した場合に過ぎない。

詳細は今後の研究を待たねばならないが,おそらくは遥か以前から両者の接触や交流はあったであろう。

たとえば7世紀初頭に始まる唐の長安(現在の西安)は,8世紀には人口 100 万人を越える国際的な大都市となっている。

筆者は近代以降とくに 1920 年代から 30 年代に研究の焦点を当ててきたので,その時代は門外漢であるが,中国の都でアフリカ大陸から来た人と日本列島から訪れた人との接触はなかったのであろうか。

16 世紀以前にも,世界中で人の移動は活発に行われており,それはアジアやアフリカでも例外ではない。

インド洋と東アジアを結ぶ東南アジアの貿易・商業拠点都市では両者の接触はあったであろう。

マラッカなど諸都市に関する記録にはどのようにあるのだろうか。

16 世紀の日本人とアフリカ人の出会いについては,イエズス会士アレッサンドロ・ヴァリニャーノから織田信長に「献上」された<黒人>のエピソードが有名である。

彼については,本能寺の変の後に明智光秀によりイエズス会に返されたといわれる。

この<黒人>の出身地や日本に至るまでの経緯,その後の消息など,もう少し詳細を知る確かな一次史料はないのだろうか。

また,日本-アフリカ交渉史の関連論考や著書に「南蛮屏風」に描かれた<黒人>たち,と紹介されることが多い「肌の色の濃い人々」は,必ずしもアフリカ大陸出身者ばかりではなく,東南アジア出身者なども多いはずである。

かつて,美術研究では屏風絵の人種同定などはされていないと聞いたが,この問題に関する科学的なアプローチはあるのだろうか。

さらには筆者の 16 世紀への関心でいえば,ヨーロッパ人による日本人奴隷の売買あるいは奴隷貿易の問題がある。

当時,東南アジアからアフリカ,ポルトガル,さらにはアルゼンチンなどにまで日本人奴隷の存在が記録されているようだ。

<黒人>によって買われた日本人奴隷もいたという。

おそらく,様々な地域でアフリカ系と日系の人々の接触が起きていた。

藤田(2005)等が若干の事例や文献紹介を試みているが,こうした日本人奴隷の諸相の実態を解明できる一次史料はどれほど残されているのか,あるいは仮に現存していても入手できるのであろうか。

近代に話を移すと,物理的にも心理的にも日本(人)から「遠い」と思われがちなアフリカゆえにこそ,その地への係わりに,日本の近代化の特徴を凝縮して見ることができる場合がある。日本は欧米諸国との関係を主軸に,「脱亜」と「興亜」の狭間にゆれ,アフリカとの係わりはその副産物であることが多かった。

したがって,日本-アフリカ交渉史も,政治,経済,社会,文化の側面において,必然的に当時の欧米列強をはじめ諸外国・地域との国際関係史とともに考慮されねばならない。

二つの世界大戦期においても同様である。

戦後から現在までの時期は様々な研究課題があるが,最近の動向に目をやると,中国やインドのアフリカへの経済を軸とした積極的な関係構築の動きがあり,日本とアフリカの関係に影響を与えている。

東南アジアや日本を含めた東アジアで増加するアフリカ系の人々の「アジア体験」「日本体験」5)なども研究対象となろう。

また,日本-アフリカ交渉史の研究に際しては,同時に「日本人のアフリカ観」が論じられることも多い。

しかし,「アフリカ」という前提条件を成立させている要因を考慮する必要があろうし,現在われわれが利用できる過去の文献の言説分析の組み合わせで,どこまでのことが言えるのかという問題がある。口承・映像資料などの扱いもある。さらには,近代以降のアフリカ人や黒人に対するイメージを問題にする場合,アフリカ系アメリカ人(アメリカ黒人)の要因が重要になる。幕末に日本近海にやってきたアメリカの捕鯨船やペリーの黒船には,乗組員のなかに黒人がおり,日本人漂流者や幕府の関係者と接触・交流を持った者もいる。

日本人にとっての<アフリカ>や<アメリカ>そして<黒人>や<有色人>という,それぞれのイメージの重なりとずれを考えねばならないだろう。

おわりに

最後に,日本-アフリカ交渉史を研究する意義と今後の課題についていくつか触れておきたい。

日本-アフリカ交渉史の研究は,日本史研究に「遠い」と思われがちなアフリカの視点を投げかけることになる。それは,日本史研究が陥りやすい狭い「一国史観」を解き開き,新たな日本史像の構築に寄与するであろう。

「国民の歴史」だけではなく,日本とアフリカ,そしてその間にまたがる地域に生きる人々の歴史を描くことになる。したがって,アジア史研究の発展にも貢献し,「グローバル・ヒストリー」の試み,記述に繋げることができよう。

また日本-アフリカ交渉史の研究は,旧宗主国やアメリカ合州国との関係に偏りがちなアフリカの対外交渉史・関係論研究に,「日本」という要素を加えることができるであろう。日本(語)の史・資料によるアフリカ史像構築も含めて,アフリカ研究の視野を広げることに

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なる。さらには近年,とくに蓄積が目覚しいアフリカン・ディアスポラの歴史研究にも,日本を含めたアジアというまだまだ未開拓な領域から,光を照射することができよう。

アフリカン・ディアスポラとの関連で言えば,ロンドン生まれのブラック・ブリティッシュであるポール・ギルロイ(Paul Gilroy)が「ブラック・アトランティック」として投げかけた主張(Gilroy, 1993)6),あるいは近年盛んな「環大西洋世界」といった枠組みは,アフリカン・ディアスポラ,とくに南北アメリカおよびヨーロッパにおけるアフリカ系の人々とアフリカの人々の歴史・文化に関する研究を有機的に繋げる試みを促した。

現在,それに加えて,「ブラック・パシフィック」や「ブラック・インディアン・オーシャン」といったアフリカとアジア世界を結ぶ視座の構築,理論的かつ実証的な研究が必要とされているのではないか7)。

その作業は,アジアにおけるアフリカ系ディアスポラの歴史世界を描くことであり,移動する人々のルーツとルートを繋ぐ,時空間の<接続性>の歴史叙述を含むことになろう。

日本とアフリカの交渉史のみならず,日本と世界との交渉史全般に言えることであるが,陸からの視点に加えて,海からの視点は重要である。「海からの歴史」という言葉が表すように,海から見た人の移動性の考察は,アジアとアフリカの史的係わりを理解する上では欠かせない8)。

さらには,現在は人も物も空を通して運ばれることが多い。

難民も移民もヘリコプターやジャンボジェット機で移動する時代である。

現代史の舞台においては,ルートとしては点と点を結んでゆく,そして物理的距離と実際に要する時間的距離の大きな乖離を含んだ「空からの歴史」の視点による関係史像構築も必要ではないか。

昨今の情報化社会の発達においては,日本とアフリカを結ぶインターネットなどの役割や影響も今後の研究課題となろう。

日本-アフリカ交渉史における研究テーマは豊富にある。学術的かつ教育・社会的意義を考えれば,まずは基本的な年表作成作業などから始めるべきであろうか。

そして,今後の研究遂行の実務的な面では,非文字資料も含めた関連史・資料や情報の収集およびアクセス,あるいは閲覧許可,そこにまつわる言葉の壁などを考慮すると,質の高い個人研究とともに,有機的な国際共同研究が求められている。

そして,歴史学だけでなく,地理学や政治学,法学,文学,社会学,文化・生態人類学,ジェンダー学など人文・社会の諸分野と協同しつつ,ときに自然科学の力も借りて,グローバルな射程のもと地道に史実を積み上げてゆく長期間の作業が必要であろう。



1)本シンポジウムでの発表後,日本アフリカ学会会長である関西大学・北川勝彦先生より有益なコメントを頂いた。

また,本稿執筆に際しても再度,先生の研究室を訪れ意見をお伺いした。深く感謝したい。もちろん本稿の内容については,すべて筆者に責任がある。

2)星野芳樹については,星野(1959),星野(1978),星野(1986)などの著作のほか,星野がナイロビで発行し続けてきたニューズレターをまとめた星野(1997)などが参考になる。 

3)青木(2000)および藤田(2005)については,筆者も本誌『アフリカ研究』で書評する機会があった(古川,2001,2006)。

4)Curtin(1984),Chaudhuri(1985),家島(2006)などの重厚な研究が参照されるべきであろう。川勝編(2002)も参考とした。

5)たとえば,日本では三島禎子がソニンケの人々のアジアへの移動と経済活動を論じ,ディアスポラ概念の再検討を行っている(三島,2002)。また,現在2-3万人と考えられている在日アフリカ人についても,近年,研究者やNGO関係者が本格的な研究を始めている。

6)Paul Gilroy は著書の中で,ブラック・ナショナリズムの枠組みをアメリカ中心主義から広く大西洋域に拡大し,時間軸と空間軸の両面で再構成を試みている(Gilroy, 1993)。

7)アフリカおよびアフリカ系の人々とアジアの人々を結ぶグローバルな史的視座による歴史研究が本格化されてきたのは近年である。

たとえば,Jayasuriya and Pankhurst(2003),Gomez(2005),Zeleza(2005)などを参照のこと。

アフリカ系アメリカ史におけるアジアの視座の重要性については,Horne(2006)が指摘している。

なお,同様の試みのひとつとして筆者が係わったものに『アフリカーナ』(Africana)百科事典がある。

この百科事典の編纂構想は,アフリカ系アメリカ人として米国に生まれ,「近代黒人解放運動の父」としてパンアフリカニズムなどにも多大な影響を与え,最晩年にはガーナの国籍を取得して生涯を終えたW・E・B・デュボイス(W. E. B. Du Bois)によるものである。

デュボイスは,黒人への偏見や差別に対抗するためには黒人の知性を示すための百科事典が必要と考えた。

その彼の発案によってアクラで始められた黒人百科事典プロジェクトは彼の死とともに未完に終わった。しかしその遺志を受け継ぎ,ハーバード大学W・E・B・デュボイス研究所所長のヘンリー・ルイス・ゲイツ(Henry Louis Gates, Jr.)が同僚のクワメ・アンソニー・アッピア(Kwame AnthonyAppiah)とともに編集責任者となり,ナイジェリアのノーベル文学賞作家ウォレ・ショインカ(Wole Soyinka)をプロジェクト顧問とし,1999 年に 1 巻本の百科事典(Appiah andGates, 1999)を完成させた

しかし,この事典については画期的な出版という評価の一方で,索引の不備などにくわえて,何よりも項目がアフリカ系アメリカに偏りすぎているという批判がでた。その後,2005 年刊行の増補改定版(5巻本)では「黒人とアジア人の関係」の項目(Furukawa, 2005)が取り入れられた。ただし同項に関して編集部が設定したのは,「黒人とアジアの人々の関係を,古代から現在まで概観し,

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21 世紀への展望も付あわせて付す」という,限られたスペースに比してあまりに大きなテーマであった。このテーマでは<黒人>や<アジア人>の多様性の欠如が問題となるが,これまでになかったアジアに関する項目が設けられたこと自体をまず評価すべきであろうか。

8)北川勝彦は「アジア史とアフリカ史の研究は,西洋中心史観の相対化という点では共通して『リオリエント』をめざしているのかもしれない。今は,海洋アジアと日本から近代アフリカ史を捉え返す好機が訪れているのかもしれない」と述べている(北川,2002)。


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特集:日本-アフリカ交流史の展開

(Summary)

Historical Studies of Japanese-African Relations: Some Issues and Prospects

Furukawa Tetsushi
Otani University

This paper is primarily based on my presentation“Historical Studies of Japanese–African Relations:Some Issues and Prospects” at the symposium of the44th annual meeting of the Japan Association for Afri-can Studies, which was held in Nagasaki in May, 2007.

Historical relations between Japan and Africa have beenstudies by some scholars, but a number of importanttopics have not been examined yet. 

For instance, Japa-nese scholars have tended to see the relations within thecontext of national history; thus, early contacts betweenJapanese and Africans outside the land of Japan beforethe 16th century have not been adequately known evento academics. 

This paper presents some significantaspects to be further explored in historical studies ofJapanese-African relations.

 It also states that historicalstudies, as well as studies on current issues in Japanese-African relations, provide Japanese, Asian, African,and world history with new and global perspectives.



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以上











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