ノアの箱舟を創ろう Let us Create the Super Ocean-Floating-Structures such as the Noah's ark.

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Wednesday, March 10, 2010

【おおさかATC底質汚染分科会ラーニング】

【出展リンク】: http://blogs.yahoo.co.jp/teisitu/folder/1138964.html

【抜粋引用】以下の通り

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Tuesday, March 9, 2010

【豊田佐吉とは:豊田織機・豊田自動車の創業者】


2010-03-09 08:43:23

【豊田佐吉とは:豊田織機・豊田自動車の創業者】

テーマ:【創業者の精神とその伝統の行方】
【創業者の精神とその伝統の行方】:

1.【豊田佐吉とは:豊田織機・豊田自動車の創業者】

【出展引用リンク1】:

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E7%94%B0%E4%BD%90%E5%90%89

$yuujiのブログ-豊田佐吉


豊田 佐吉(とよだ さきち、1867年3月19日(慶応3年2月14日) - 1930年(昭和5年)10月30日)は、日本の実業家、発明家。豊田自動織機製作所の創業者。

・人物

遠江国山口村(現・静岡県湖西市)の農家に生まれた。父は大工だった。小学校を卒業後大工になり、発明の心が芽生える。1890年(明治23年)に東京での内国勧業博覧会にて外国製織機の設計を参考にして「豊田式木製人力織機」を発明。この「木製人力織機」は安価な木を多用して当時まだまだ高価だった金属類は必要最小限に抑えた為、当時主流だった外国産の機械より一桁安い価格で瞬く間に拡販した(この無駄を抑える発想は後の『トヨタ生産方式』の原点となる)。その後、かせくり機を発明する。
1893年(明治26年)にたみと結婚し、翌年には長男喜一郎が誕生した。1896年(明治29年)「豊田式汽力織機」を発明。1897年(明治30年)に浅子 と再婚し、1899年(明治32年)に長女愛子(のちに「トヨタ自動車工業」初代社長となる利三郎を養子にむかえる)が誕生。1902年(明治35年)に豊田商会を設立、今日のトヨタグループの礎を築く。藍綬褒章を2回受賞した。

なお、通説では1924年(大正13年)に「G型無停止杼替式豊田自動織機」を開発したとされるが、完成当時は三井グループの東洋棉花(後のトーメン、現在の豊田通商)系上海紡績のトップ黒田慶太郎(黒田慶樹の祖父)の助力を得て1921年(大正10年)に中国・上海租界に設立した豊田紡績廠の経営に力を注いでいる。なお、和田一夫著の『豊田喜一郎伝』(ISBN 4815804303)によると、G型無停止杼換式豊田自動織機は、実は喜一郎が開発を手掛けていたとされる。1930年(昭和5年)10月30日死去。享年63。


外部リンク

豊田佐吉 | 近代日本人の肖像

豊田佐吉 トヨタグループ創業

湖西市郷土の偉人・豊田佐吉

TOYOTA~豊田佐吉記念館~ - トヨタ自動車が設立。静岡県湖西市。

豊田佐吉は、明治維新が間近に迫った慶応3年(1867年)2月14日、吉田領山口村(後の敷知郡吉津村字山口、現在の湖西市山口)に生まれました。
佐吉は、小学校を卒業すると父・伊吉の大工仕事を手伝っていましたが、貧困にあえぐ村の暮らしを見て「郷里の貧乏を救わなければならない」という郷土愛に燃えるようになりました。そして、学問の必要性を痛感し、東京からわざわざ新聞を取り寄せたり、村の同志を集めて「夜学会」を開いたりしました。
こうして広く世間を見る目が肥えてくると、当時の日本が郷里吉津村と同様に貧乏であることが分かってきました。そこで佐吉の郷土愛は祖国愛に変わっていったのでした。その祖国愛を実現する方法が、すなわち「発明」だったのです。「発明」によって、日本の産業を発展させ、日本を裕福な国にしようと考えたのです。

母の姿を見て、自動織機の発明を志す

しかし、一体何を発明したらいいかは容易に定まりませんでした。そんなとき目についたのが、母の機を織る姿でした。
当時の織機は「バッタンハタゴ」という極めて原始的な機械で、一反の木綿を仕上げるのに多くの時間と労力を費やさなければなりませんでした。明治20年(1887年)、佐吉はこの手機(てばた)の改良を志し、寝食を忘れて研究・工夫に熱中しました。

しかし、織機に関しての知識もなく、周囲の理解も得られない佐吉にとって、この研究は困難を極めました。それでも佐吉は決してあきらめず、発明に精進しました。
そして、明治23年(1890年)、ついに最初の発明「豊田式木製人力織機」を完成させたのです。佐吉24歳のときでした。翌24年(1891年)、この「豊田式木製人力織機」で初めての特許を取りました。その後も佐吉は研究を続け、明治27年(1894年)にはかせくり機を、29年には木鋳混製動力織機を発明するなど、その発明は生涯を通じて119件にものぼりました。


世界に追いつけ、追い越せ

また、佐吉は、終生の目標であった海外にも目を向け、明治43年(1910年)には初めて欧米に渡り、その広大な国土、機械を使った効率的な農業、工場の設備の巨大さ、機械の精巧さに驚きました。しかし、織機・紡績工場を見学してみて、自分の発明した織機が必ずしも世界の一級品に劣るものではないという結論を得ました。
大正10年(1921年)には中国上海に「豊田紡織廠」を設立、昭和3年(1928年)にはインドへ工場設備を輸出、翌4年(1929年)にはイギリスのプラット・ブラザーズ社へ国産技術を輸出しました。こうして、「世界に追いつけ、追い越せ」の執念は実を結び、ついに佐吉の自動織機は世界に認められたのでした。
佐吉のこの歩みが、自動車をはじめとする日本の産業の著しい発展の礎となりました。その功績は、わが国の産業史はもちろん、郷里湖西の市史を飾る一大金字塔

日本の墓:著名人のお墓:豊田佐吉

$yuujiのブログ-豊田佐吉

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【私のコメント】:

創業者とともに、その人の創業の精神や理念を理解して、その事業を育成し、幾多の苦労をともにしてきた番頭等の適切な役割を見逃すことはできない。

事業の成長と継続の中でこのような人間関係が賢固に形作られた組織は強いのである。

時代の流れの中で、その強固なその人間関係や創業者の理念【創業者の魂】が、変化して、失われ、事業の根本精神が失われて、拡散されて、継続が困難となることが引き起こされる。あるいは、まったく別の理念によって事業が継続・形成されていくのである。

ただし、社会の中で、事業が継続されるには、その時代において、その事業が社会的に必要とされるから存続できるのである。

社会的な存続の理由が、その社会から、認められてこその事業の存在の価値があるのである。

この創業者の精神において、誇りと伝統のある社内文化を逸脱してしまった最近の経営方針・路線を早急に見直さなければ成らないであろう。

米国流の合理主義一辺倒の経営路線は、世界の社会や文化の中で、大きく問われているのである。

この合理主義の中で、厳しく選別されて、切り捨てられてものの中で、その事業に直接に従事する人達や下請け協力会社等も出てくる。 このような都合主義の経営では、その社会的な責任を放棄したものと判断されてしまうであろう。

このことに、気がつきはじめたトヨタは、これからの経営・事業等の路線の変革によって、これからも、発展していくことができる多くの可能性を世界の人々とともに、時代の流れを見極めて、社会の要請に適合し、追求していくための努力と姿勢が必要で、重要なことなのである。



がんばれ、トヨタ。と世界の人々皆から、声援されるような人格をもった法人になって頂きたいものである。
 
トヨタ現社長 豊田章男氏のような謙虚なる姿勢を取り戻せるトヨタであるならば、この道を比較的に容易に進み、早期に、再構築が可能となることであろう。

再び、同様な失敗を繰り返さないためにも、ここで、再度、自らの道筋を振り返り、省みれば、誤った経済合理性一辺倒の経営路線が、なぜ、引き起こされたかの人事的な選定における問題や原因の究明についても、同時並行して、解明・究明が必要で不可欠なこととなることであろう。








Monday, March 8, 2010

FIRST TOUCH

カテゴリ: エンターテイメント
タグ: iulian fratela rusianraven yanni first touch water drops beauty

Sunday, March 7, 2010

【Earthquake Hazard Program】:U.S. Geological Survey

【出展引用リンク】: 【Earthquake Hazard Program】: U.S. Geological Survey 

http://earthquake.usgs.gov/


Latest Earthquakes

USA (Magnitude 1+)

March 7, 2010 08:02:30 UTC

World (Magnitude 4.5+)

March 7, 2010 08:08:24 UTC
World Map

Regional Offices

Our scientists study locations around the world. Learn about research conducted in our regional offices, regional seismic network monitoring, and local activities of interest.

Today’s Earthquake Fact

The earliest reference to unusual animal behavior prior to a significant earthquake is from Greece in 373 BC. Rats, weasels, snakes, and centipedes reportedly left their homes and headed for safety several days before a destructive earthquake. Anecdotal evidence abounds of animals, fish, birds, reptiles, and insects exhibiting strange behavior anywhere from weeks to seconds before an earthquake. However, consistent and reliable behavior prior to seismic events, and a mechanism explaining how it could work, still eludes us.

Wednesday, March 3, 2010

【豊田章男社長の米国議会証言を聞いて思う】 : by 天木直人


豊田章男社長の米国議会証言を聞いて思う


2010年02月25日


今朝(2月25日)の未明から始まった豊田章男社長の米国議会証言を私はNHKテレビで聞いていた。一時間ほど聞いてつくづく思った。トヨタは容易ならざる事態に追い込まれたと。
この調子で何時間も証言を求められる事は厳しい。しかもどのように答えても追及はやむことはないだろう。誰が答弁しても批判は起きるであろう。
今回の議会証言について2月25日の産経新聞に古森義久氏が「豊田証言の潜在的危機」と題して次のように書いていた。
豊田証言への米国民の反響いかんでは、日米関係の安全保障など他の領域にも影響を及ぼしかねない潜在的危機をもはらんでいるといえる、と。
それは違う。順序が逆だ。
安全保障をはじめとする政府・官僚のこれまでの対米政策が無策であったからトヨタ問題がここまで攻められるのだ。
日本のメディアの対米追従ぶりが、事態をここまで自虐的にしているのだ。
米国で公聴会が始まったことについて鳩山首相は24日夜、首相官邸で記者団に次のように語ったという(2月25日産経新聞)。
「・・・(トヨタ社が)真摯に、誠実に公聴会で対応することを期待している。そのことで大きな日米の経済問題に発展せず、トヨタの信頼回復する・・・」
まるで他人事のような突き放した言葉だ。意味不明の発言を繰り返して米国に対日不信を抱かせた鳩山首相が口にすべき言葉ではない。
前原国土交通相は、「日本政府もトヨタ問題を調査する」と語ったという。
今頃になって何が調査だ。
もっと早く日本政府が、そして国土交通省の官僚たちが、この問題を真剣に受け止め、適切な対応を指示していたなら、ここまで米国議会で追及される事にはならなかった。
なによりも米国議会証言に対しては官民一体で臨む事ができた。
今回のトヨタ問題は鳩山民主党政権の対米政策の欠如の裏返しでもある。
日本メディアの対米従属振りの裏返しでもある。
トヨタ一人に責任をかぶせて済むと思うのは大きな間違いだ。
民主党政権とメディアの責任が厳しく問われる時が必ずやってくる。
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「水上達三の生き方に学ぶ日本復興への思い」+『トヨタ問題』 : by 寺島実郎

【出展リンク】 :  http://www2.jfn.co.jp/tera/index.html
月刊 寺島実郎の世界
オンザウェイ・ジャーナル「月刊 寺島実郎の世界」。この番組では、政治・経済・社会そして文化、歴史にまで視野を広げてこれからの日本のあるべき姿をテーマに、財団法人日本総合研究所会長で三井物産戦略研究所会長、そして多摩大学学長の寺島実郎さんと共に考えてまいります。

◆ 寺島実郎初の対談集発刊のお知らせ
寺島実郎の対談集『時代との対話』が3月2日、ぎょうせいより出版されます。
月刊誌「Forbes日本版」誌上での対談を中心に、現代を代表する21名の知識人との対話を収録した寺島実郎の最新刊。「知性の試練」ともいうべき21世紀初頭、時代に対して自分の爪を立て、自らの存在を賭けて発信を続けている人々との対話を通じ、時代に真摯に向き合う人々の「一点の素心」を探った一書。
↓サイン本購入のお申し込みはこちらから↓
http://www.nissoken.jp/president/book/
■ 寺島実郎サイン会・講演会開催のお知らせ
寺島実郎対談集『時代との対話』の発刊に伴い、寺島実郎サイン会・講演会を下記の通り開催致します。
※お陰様をもちまして定員に達し、受付を締め切らせて頂きました。

刊行記念講演会&サイン会「時代と並走するということ」
2010年3月17日(水)18:30~(開場18:00)
八重洲ブックセンター・本店8階ギャラリー
定員80名(申込先着順)
問い合わせ先:電話03-3281-8201

◆ 寺島実郎新刊発売のお知らせ
寺島実郎の新刊『世界を知る力』が12月15日、PHP研究所より発売致しました。
しっかりと足元を見つめる虫の眼で、世界の潮流と日本の立ち位置を確認し、 確かな時代認識の必要性を描く著書。現代社会において世界を把握するために必要な全体知のあり方を、 豊富なデータと自身の経験を基に、明快に説きます。
↓サイン本購入のお申し込みはこちからから↓
http://www.nissoken.jp/president/book/

最新の動画 vol.1[2010/02/27,28 OA]
最新の動画 vol.2[2010/02/27,28 OA]


[2010/02/27,28 OA] 
今回は「寺島実郎が語る歴史観」をお送り致します。テーマは、「水上達三の生き方に学ぶ日本復興への思い」。

寺島さんと水上達三さんとの繋がり、そして戦後の復興から現在は貿易立国となった日本に想いを巡らせたお話を伺います。






















































































































































































































































































第45回

<水上達三の生き方に学ぶ日本復興への思い>

木村>  先週の放送では、「世界を知る力余談―発売後の余波―」というテーマでお話を伺いました。
今週の前半は「寺島実郎が語る歴史観」をお送りします。テーマは「水上達三の生き方に学ぶ日本復興への思い」で、水上達三さんという方が登場人物となります。

寺島>  私はこのコーナーでは歴史というところで、私にとって存在感が重いというだけではなくて「一体それは誰だ?」と皆さんが思うような人を取り上げていきたいと思っています。
私は1973年の石油危機の年に三井物産に入社しました。大学院を卒業してからなので普通の人よりも遅れて社会参加をした形となり、私は三井物産という会社に育てられてきたという部分もあるわけです。
そのような中で、戦後の三井物産のまさにキーパーソンが水上達三だったのです。どのような人であったかというと、戦後の三井財閥の中核企業でもあった三井物産は1947年、戦争が終わって2年後の7月にGHQ、つまり、マッカーサーの総司令部によって解散命令を受けました。世に言う財閥解体です。これは私が生まれる前の月に起こったのです。その月に三井物産という戦前の三井財閥の中核であった企業は解散させられたのです。これは、ある面においては進駐軍の狙いだったとも言えます。日本の経済力の1つの中核で、しかも、これからの日本を考えたのであれば、これを潰しておかなければならないということと、経済民主化ということもあって、世界の歴史で1つの民間企業が受けた途方もなく例がないほどの苛酷な解散命令だったと言われていました。一私企業が進駐軍によって「おまえたちは解散だ」と。これは旧三井物産で部長以上だった人が2人以上で新しい会社をつくってはならないとか、商号を使ってはならないとか、旧三井物産の従業員が100人以上で新しい会社を組織してはならない、資本金20万円以上の新会社の設立をしてはならないという厳しいものだったのです。つまり、大きな会社はつくってはならなくて、二百何十の小さな会社が雨後の筍のように、色々な部門ごとに旧三井物産ということでつくられました。
その時に、旧三井物産の物資部の部長代理にすぎなかった43歳の水上達三が資本金195,000円でつくった会社が「第一物産」だったのです。当時43歳だった水上達三が、まさに、荒野にレールを敷く思いで、まったくあてどない荒野に出たようなものです。突然、会社が解散となり、「おまえたちで生きていけ」ということで、仲間と一緒に小さな商社をつくってなんとか生き延びようとしたのです。
水上さんが会社の名前を何故「第一物産」としたのかというと、「天下第一物産という意味でつけた」ということで、やがて、三井物産が統合になった時の中核会社に自分たちがなってやろうというくらいの気迫と大きな構想があったと言えると思います。その後、1959年から12年後に三井物産大合同をしていくのですが、水上さんがつくった会社がスタートを切った小さな会社の中で、結局、頭角をあらわしていき、中核会社となっていったわけで、水上さんの見識や指導力が大変なものであったと分かります。
私が三井物産に入社した時には、水上さんは相談役にひいていたのですが、新入社員だった私と意外なほど縁がありました。私は調査部という部署に入っていて、水上さんのものの見方や考え方に触れる機会がありました。当時、水上さんから「1週間後までに調べてくれ」と依頼されて、私が書類を持っていくと、水上さんは鋭い人でマクロの経済統計とミクロのビジネスの動きを結び合わせながら物凄く的確で鋭いコメントが返ってきたことを思い出します。
1973年に入社した私に水上さんが「日本の輸出が1日1億ドルを超したよ、君」と言われた言葉をいまでも覚えています。つまり、日本が年間365億ドル=1日1億ドルの輸出ができる国になったということが、彼にとって物凄く感慨深かったのだと思います。それはどのような意味かというと、戦後の日本において1970年代まで売る物がないために買う物も買えない状況で、日本が海外に輸出するようなものがないために外貨を稼ぐことができなかったのです。そのような時代、つまり、終戦後という時代に日本人は物凄く歯を食いしばって頑張ったわけなのです。
例えば、ニューヨーク駐在の商社マンといったら格好よくみえると思いますが、その頃の日本の貿易の前線を支えた商社マンたちは何をしていたかというと、「三条燕の洋食器」(註.1)の見本とクリスマス・ツリーのランプの見本を大きなボストンバッグの中に入れて、けんもほろろの応対を受けながら売り歩いていたのです。
私がニューヨーク、ワシントンに勤務していた頃、先輩たちが訪ねて来て、私たちに「おまえたちは生意気でダメになったなあ」と厭味を言ったものです。それは何故かというと、彼らの感覚からすると、クリスマス・ツリーのランプの見本をけんもほろろの応対を受けながら売って歩かなければならなかった時代は、駐在員としてせめて駐在している間に少しはお金が貯まって、例えば、「ゴルフセットを1セット持って帰れたらいいなあ」ということが夢だったわけです。そのような思いをして輸出をしないと外貨を稼ぐことができなかったのです。外貨を持っていないと買いたい物が買えない、例えば、食糧や資源等が買えないというようなことを経済論的に「国際収支の天井」という言い方があって、国際収支の天井が張り付いているために、その天井よりも高いものは買えないのということです。
そのような時代がどんどん続いて日本経済が輸入超過という状態を出した年が1965年で、安定的な輸出超過を実現したのは1973年と1979年の2度の石油危機を経た、1981年からなのです。つまり、この30年間くらいの間ということです。日本人はいまや、自動車産業をはじめとする隆々たる輸出産業が育って、外貨を稼ぐことができることが当り前のことのように思っていますが、そのような産業群があったからこそ、海外から食糧を買ったり、資源を買ったりして今日の日本を築いていったわけです。
分かり易くいうと、先程申し上げたように、水上達三さんたちは荒野にレールを敷く思いで、クリスマス・ツリーのランプと三条燕の洋食器を売りながら日本の戦後の産業の創生を支えた人たちということです。
その後、私は水上達三さんについて調べて感慨深いことがありました。まず1つは人間山脈であるということで、人間はひとりでは育たないということです。水上さんは山梨県の甲府中学校の出身者で、中学の先輩の影響を大変に受けたそうです。彼が尊敬してやまなかった人物は東洋経済の石橋湛山で、戦後、首相にまでなりました。水上さんは石橋湛山主宰の勉強会にいつも参加をしていました。
石橋湛山は甲府中学校の伝統としてクラーク博士の影響を物凄く受けた人物です。それは何故かというと、これは話がややこしくなりますが、私の故郷北海道で、クラーク博士というと札幌農学校で現在の北海道大学です。クラーク博士が日本にやって来て、実はクラーク博士は8カ月しか日本にいませんでした。つまり、第1期生だけしか教壇に立っていないということになります。第2期生の人たち、その中には内村鑑三もいますが、実際はクラーク博士の顔も見たことがなかったのです。しかし、先輩たちが「クラーク博士という人が昨年まで教壇に立っていて彼はこんなに情熱がある素晴らしい人だった」と、あの有名な「Boys Be Ambitious」の世界を語り継いでいって大きな影響を与えているということです。
クラーク博士に直接薫陶を受けた1期生のひとりで大島正健(註.2)という人がいました。この人がその後に甲府中学校の校長となって赴任していくのです。大島正健の影響をもろに受けたのが先程からお話ししている水上達三だったわけです。
水上さんが影響を受けた石橋湛山は自分の「湛山回想」という本の中で、「自分の意識の底に常に宗教家的、教育家的な志望が潜んでいたことは明らかであり、私は大島校長を通じてクラーク博士のことを知り、これだと強く感じたのである。つまり、私もクラーク博士になりたいと思ったのだ。私はいまでも書斎にクラーク博士の写真を掲げている」と書いてあります。ここのポイントは何かというと、クラーク博士がアメリカからやって来て撒いた種のようなものが大島正健という校長を通じて石橋湛山に繋がり、石橋湛山を尊敬してやまなかった水上達三が戦後日本の貿易を支えて頑張って戦ったのです。私はこれがまさに、人間山脈であると言いたいわけです。人間の影響が脈々と伝わっていくもので、小さな1粒の種がそのように大きな影響を与えて、戦後の日本の貿易の戦線を支えていく人になっていったと言ってよいと思います。
水上さんは不思議な存在感があって「このおじいさんがそんなにこの会社の偉大な先輩なのか」というくらいの若干、距離感、違和感等を感じながら、当時、若造としての私は見ていました。しかし、ただ者ではないという空気を漂わせて、まさに、先程申し上げたように、情報に対する異常な感度を持っていたのです。
そこで、水上さんの人生を調べてみると、面白いことがあって、水上さんは一橋大学、当時の東京商科大学を卒業していて、入社した途端に6年間も群馬県の高崎出張所に追いやられてしまいました。本社勤務どころか、高崎出張所の所員として6年間も働くことになって、普通の人間であれば腐ってしまうと思うのですが、不思議なことに彼はその6年間が自分にとって物凄くプラスになったと言っていました。もしも、本社に勤務していたとしたら、そんな新入社員の若造等には回ってこないような書類が、出張所が小さいために回って来ていて、会社が全部わかるということです。その時に彼は色々なビジネスのことを考えたりするために物凄く勉強になったそうです。
更に申し上げると、水上さんは終戦を北京の支店長代理のような形によって北京で迎えました。そして、そこから1年半くらいの間、中国で抑留されることになりました。その時に千何百人の引き揚げ者を率いてくる団長として日本に帰ってくるのですが、その逆境に立った時の強さが感動的なのです。彼の日記等が残っていますが、それらを見ると、分かり易くいうと、北京で敗北した国の捕虜として収容所に入れられていたようなもので、彼は北京で一生懸命に努力をして短波放送が聴くことができるラジオを手に入れました。そして、インドやオーストラリアやサンフランシスコから短波によって色々な国の放送が流れてきていて、敗戦後の日本がどのような状況になっているのかということに関して一生懸命に情報を集めて、それを聴いて、リーダーとなって引き揚げ者を率いて日本に帰ってきたのです。
私が彼を「ただ者ではない」と思う理由は、情報に関する感度、敗北して打ちひしがれている時に彼が見せた力や、高崎出張所に追いやられたらふて腐れるだろうと思うところをひょっとしたらこれは自分にとってプラスになるかもしれないと考えていく力等があるからなのです。これは若い人たちにも非常に参考になると思います。
それが水上達三という人で、戦後、解散されて多くの三井物産社員が野に放たれ、打ちひしがれている中で、「天下第一物産」をイメージして会社に「第一物産」と名前をつけて、そこから戦後の三井物産の統合を彼が中心となって推し進めていったということは誠に感慨深い話なのです。
我々はそのような人たちの歴史の中を生きて、戦後の日本がつくられているのだということを忘れてはならないと思います。水上さんは「貿易立国論」という本まで書いています。

木村>  日本貿易会の会長もなさっていましたね。

寺島>  私が三井物産に入社した年に日本の輸出が1日1億ドルだったものが、現在はその20倍になりました。その20倍の外貨を稼ぐ力を持っているからこそ、我々は気楽に食糧を海外から輸入しているわけです。昨年は約60兆円の食べ物を海外から買っていますが、食糧自給率40%という妙な国をつくってしまったのです。それも外貨を稼ぐことができる力があるからこそ、そのようなことが成り立っているわけで、そのことを思うと不思議な感慨を覚えます。

木村>  「荒野にレールを敷く思いをして」という言葉を寺島さんがおっしゃいましたが、水上達三という人の存在を通して経済人の経綸、思想、或いは、志について考えさせられました。
<後半>

木村>  後半ではリスナーの皆さんからのメールを紹介してお話を伺います。愛知でお聴きの「86ラブ」さんからです。「最近、トヨタの問題が随分マスコミで取り上げられています。アメリカのレクサスブランドのアクセル・ペダル問題だけでなく、日本でもプリウスのブレーキ問題で揺れているトヨタですが、世界のトヨタの信頼が崩れて日本の自動車産業が窮地に立たされる可能性はあるのでしょうか? 寺島さんは今回のトヨタ問題についてどのように感じていらっしゃいますか?」。

寺島>  これは対応がまずかった等、色々な議論がありますけれども、今回我々は、トヨタの立場に立って議論をしてみたいと思います。
私は3、4年前くらいから似た話はアメリカで聞いていました。その時にフロアー・マットの不具合があって、フロアー・マットが挟まってブレーキがきかなくなってしまうというクレームの問題が耳に入ってきました。おそらく、トヨタはフロアー・マットが挟まるなどという話はユーザーの自己責任で、自分でフロアー・マットをキチンとしていれば挟まるわけがないので、そのようなクレームをメーカーに対してつけてくるべきではないというニュアンスで最初の頃は捉えていたと思います。
更に、いま話題に出たアクセル・ペダルの問題もトヨタが日本で車をつくって輸出していた時代ではなくて、アメリカで走っているトヨタの7割以上の車が高級車を除いてアメリカ製のトヨタで、現地生産を深めれば深めるほど、部品の現地調達比率を高めてくれという要請を受けて、日本から部品を持っていって組み立てるだけではなくて、現地の部品メーカーの会社を使ってやってくれという流れの中で、アメリカの部品メーカーの会社を採用していかざるを得ない状況があるわけです。アクセル・ペダルの不具合に関していうと、トヨタにしてみればそれこそ愛知県のトヨタを支えている部品工場から調達していたならばこんなことは起こらなかったという思いがなかったとは言えないと思います。
そのような様々な複雑な思いに加えて、トヨタが世界一の自動車メーカーになってしまって、GMを追い抜いてビッグスリーを1つずつ追い抜いていっている時からトヨタに対するアメリカの自動車産業の関係者には、フランクにいうと嫉妬心とも猜疑心ともつかない空気が高まっていったと言ってよいと思います。
そこで、トヨタは我々からみても物凄く慎重にそのような人たちの神経を逆なですることがないように努力をし、気を遣っているなあと思うことが私がワシントンにいた時に何回もありました。
例えば、これは4、5年前くらいの話になりますが、ワシントンというところは皆さん御存知のようにありとあらゆる利害関係者が跋扈していて、「揉め事屋」といってよいような弁護士、はたまた「ロビイスト(Lobbyist)」と称して問題を政治化させてそれをまたマッチポンプのように片付けて自分の生活に繋げていく人たちがたくさんいて、アメリカの政府がどうのこうのという話ではなくて、そのような人たちが問題化させるケースが多々あります。例えば、トヨタの子会社にトヨタ通商という会社がありますが、トヨタ通商がイランのアサデガン石油の開発に一部資本参加していました。そのことを見つけ出して、「トヨタという会社はイランを支援している。そのような会社の車は不売運動を起こしてボイコットすべきだ」等ということを本気になって回覧板を回していた人たちもいました。
したがって、当時、トヨタはパッと動いてアサデガン石油のプロジェクトから完全に引いて、トヨタはそのようなことには参加しないという形の意思を表明したりして物凄く気を遣っていたということです。しかし、それらの人たちのように、先程のフロアー・マットだ、アクセル・ペダルだという話がだんだんエスカレートさせていく力学がワシントンに存在していて、これは大変に悩ましいことなのですが、このファクターも決して小さくはありません。ただ、ここではっきりしておかなければならないことは、トヨタは既に世界に冠たるチャンピオンの会社になったということです。グローバルカンパニーとして耐えなければならない試練があって、盤石の対応を求められるのです。先程、冒頭でトヨタの立場になっていうと……、という話をしましたが、逆に言うとトヨタは本当に堂々と王者の戦いをしなければならない立場になっていて、正面からこのような問題に対応していかなければならないという中におかれているということです。トヨタ以外にも日本のいくつかの企業は既にそのようなレベルになってきています。トヨタは見本になるような姿勢を引き継いでいなかければならない立場になってしまっているということを我々は肝に銘じなければならないのでないでしょう。

木村>  それはある意味においてはこれからの日米関係という中で、日本の私たちがどのような道筋で生きていくのかということについて、いま「学習」しているということでもあるのでしょうね。

(註1、新潟県にある都市で、古くからある産業で「燕の洋食器」、「三条の刃物」と呼ばれる程、優れた商品を生産してきた。現在では、伝統的な職人技から最先端のテクノロジーを駆使した製品をつくることで有名)
(註2、文学博士。「札幌農学校」の第1期生としてクラーク博士の教育を受けた教育者、宗教家、言語学者)



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【参考リンク】: 石橋 湛山(いしばし たんざん):

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E6%A9%8B%E6%B9%9B%E5%B1%B1

石橋 湛山(いしばし たんざん、1884年(明治17年)9月25日 - 1973年(昭和48年)4月25日)は、日本のジャーナリスト、政治家。第55代内閣総理大臣。自由民主党総裁。従二位勲一等。早稲田大学名誉博士(Doctor of Laws)
戦前から一貫して日本の植民地政策を批判して加工貿易立国論を唱えて、日本の敗戦後は日中米ソ平和同盟を主張して政界で活躍する。保守合同後初の自民党総裁選を制して総理総裁となるが、在任2ヵ月弱で脳梗塞を発症して退陣する。幼名は、省三(せいぞう)[1]。実父は総本山身延山久遠寺第81世法主杉田日布。

生い立ち [編集]
日蓮宗僧侶・杉田湛誓ときん夫妻の長男として生まれる。実父の湛誓は、当時東京大教院(現・立正大学)の助教補(助手→助教)を務めていた。母・きんは、江戸城内の畳表一式を請け負う大きな畳問屋石橋藤左衛門の次女である。石橋家は日蓮宗承教寺の有力な檀家で、同寺院内に所在した東京大教院に在学中の湛誓と親しくしていた。故あって母方の姓である石橋を名乗った[2]、[3]。
1885年(明治18年)に父親の湛誓が郷里山梨県南巨摩郡増穂村(現・同郡増穂町)に在る昌福寺の住職へ転じる為に、母親のきんと共に甲府市稲門へと転居する。1889年(明治22年)に、甲府市立稲門尋常小学校に入学する。3年生の時に初めて父と同居する事になり、稲門から約20km奥まっている増穂村の小学校に転校する。

1894年(明治27年)に父親の湛誓が静岡市の日蓮宗本山青龍山本覚寺の住職に転じる事になり、山梨県中巨摩郡鏡中条村(旧・同郡若草村→若草町、現・南アルプス市)に在る長遠寺の住職である望月日顕(後に身延山久遠寺83世法主)に預けられる。以来実質的な親子の関係は絶たれて、幾度となく手紙を出すが父母からの返事はもらえなかったという。湛山自身は、「もし望月師に預けられず、父の下に育てられたら、あるいはその余りに厳格なるに耐えず、しくじっていたかもしれぬ。…望月上人の薫陶を受けえたことは、一生の幸福であった。そうしてくれた父にも深く感謝しなければならない」と『湛山回想』に記している[4]。

中学生時代でのかつて札幌農学校(現・北海道大学)第一期生としてクラーク博士の薫陶を受けている大島正健校長との出会いは、湛山の人生観に大きな影響を与えており晩年に至る迄湛山の枕元には常に日蓮遺文集と聖書が置かれていたという。
1902年(明治35年)3月に、山梨県立第一中学校を卒業する。中学を卒業する頃に、“湛山”と改名している[5]。 翌月に、第一高等学校(現在の東京大学教養学部)受験の為に上京する。その際に正則英語学校に通っている[6]。 しかしながら同年7月の試験は不合格となる。翌年に再度受験するが又もや失敗して、早稲田大学高等予科の編入試験を受けて合格して9月に入学する。こうして、東京での下宿生活が始まっている[7]。


【参考リンク】: 水上 達三(みずかみ たつぞう):

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E4%B8%8A%E9%81%94%E4%B8%89

水上 達三(みずかみ たつぞう、1903年10月15日 - 1989年6月16日)

略歴・人物 [編集]

山梨県北巨摩郡清哲村字青木(現・韮崎市)に農業水上勘三郎 千鶴の五男として生まれる。水上家は江戸時代、庄屋を務めた家系という。
旧制甲府中学校(現山梨県立甲府第一高等学校)を経て、1928年東京商科大学(現一橋大学)卒。大学の同期には三井物産副社長や東レ副社長等を務めた町田栄次郎、三菱地所社長を務めた伊藤達二、松下電器理事を務めた乗松健二、第一電工社長等を務めた松原美義がいる。
1928年三井物産入社。第一物産代表取締役常務、同社副社長、三井物産副社長等を経て、1961年から1970年まで三井物産社長、1969年から1971年まで三井物産会長、後に同社相談役就任。
その間の1961年から1963年までは社団法人経済同友会代表幹事を務めた。1972年から1985年まで社団法人日本貿易会会長。貿易会会長としてはジェトロと、貿易研究所(現 財団法人国際貿易投資研究所)の設立に尽力。1977年から1989年まで財団法人中東調査会会長。
晩年には教育関係においても活躍し、1976年に就任した母校・一橋大学創立百年記念事業募金会副会長をはじめ、同年に財団法人国際大学設立準備財団設立発起人代表にも就任し、国際大学の設立・運営に尽力した。1976年一橋大学創立百年記念事業募金会副会長。1976年財団法人国際大学設立準備財団設立発起人代表。国際大の設立・運営に尽力。
葬儀は理事長を務めた聖路加国際病院の礼拝堂(チャペル)で行われた。


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【参考リンク】: 大島正健 (おおしま まさたけ) : 

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%B3%B6%E6%AD%A3%E5%81%A5

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

大島正健 (おおしま まさたけ、安政6年7月15日(1859年8月13日) - 昭和13年(1938年)3月11日) は日本人の宗教家・教育者・言語学者。札幌農学校(現在の北海道大学)の第1期生であり、クラーク博士の教育指導を直接受けた一人となった。クラークの 'Boys, be ambitious' (青年よ、大志をいだけ) との言葉を後世に残す上で大きな役割を果たした。

出生 [編集]
1859年(安政6年)、相模国高座郡中新田村(現在の神奈川県海老名市)の名主、大島彦三郎正博・その妻 縫(縫子)の四男(実質次男)として生まれた。幼名は金太郎。兄(三男、実質長男)の頼三郎正義が温厚でおとなしかったのに対し、金太郎は活発な性格であったという。生家は1923年(大正12年)の関東大震災で倒壊し、跡地は大島記念公園として残されている。
金太郎は幼少時より勉学を良くし、寺子屋で助教を務めるようになった。1873年(明治6年)、村に新設された小学校の教師の薦めにより、東京・牛込若宮町にあった私立の英語学校、逢坂学校に遊学した(この頃までに元服し、正健と改名)。1年ほどで学校に飽き足らなくなり、さらに官立東京英語学校(後の第一高等学校)に進学した。1876年、意気盛んな生徒の一人だった正健は、開拓使札幌学校農学専門部(9月に札幌農学校と改称)の生徒募集に応じ、7月、第1期生として入学した。
札幌農学校時代 [編集]
札幌農学校第1期生16人は、教頭クラークの徳育を直接に受けた。開校直後にクラークは、学生らにただ一言、'Be gentleman'(紳士たれ)との鉄則を示した。大島は、終生この鉄則を意識した人生を送ることになった。1877年3月、クラークに感化された第1期生全員は、「イエスを信ずる者の誓約」 (Covenant of Believers in Jesus) に署名し、キリスト教徒となることを誓った(同年9月には正式に洗礼を受けている)。

1877年4月16日、クラークは任期を終えて札幌農学校を去った。大島はクラークとの別離を漢詩に詠んでいる(クラークの別離の言葉については、ウィリアム・スミス・クラークを参照のこと)[1]。

Tuesday, March 2, 2010

【自然に学ぶ"森里海連環学"】 : 天野礼子

【出展リンク】: 


自然に学ぶ"森里海連環学"

山陰中央新報連載 自然に学ぶ"森里海連環学" No.9
「生物多様性年」  一からやりなおす
「生物多様性条約第10回締結国会議」が10月18日から名古屋市で開催され、日本が議長国を務める今年は、おそらく各新聞社でも年頭から"生物多様性"という言葉を使う紙面が増えるだろう。
「生物多様性条約」は、1992年にブラジルのリオデジャネイロで行われた「国連環境開発会議(地球サミット)」で、「国連気候変動枠組み条約」とともに採択され、168カ国が署名したもの。条約は93年に発効し、現在は191の国と地域が参加している。
私はその92年のリオデジャネイロに、川の非政府組織(NGO)として参加し、現地でシンポジウムを組み立てた経験を持っている。
日本ではほとんどの国民が知らないので残念なのだが、2007年にわが国の農水省は、「農林水産省生物多様性戦略のポイント」というものをひっそりと(国民にほとんど知られていないのだから、私にこういう風に書かれても仕方ない)発表している。書かれていることは、素晴らしすぎて信じられないほど、まともなこと。いわく。
「農林水産業は、人間の共存に必要な食料や生活物資などを供給する不可欠な活動であるとともに、多くの生き物にとって、貴重な生息・生育環境の提供、特有の生態系の形成・維持など生物多様性に貢献」、「しかし、不適切な農薬・肥料の使用、経済性や効率を優先した農地・水路の整備、埋め立て等による藻場・干潟の減少など一部の農林水産業の活動が生物多様性に負の影響」と。
驚くべきことに、そこに添えられている写真はなんと、諫早水門の閉じられている姿なのだ。
戦後アメリカから移入した農薬を使う指導を農協に続けさせてきた農林水産省が、農薬の弊害を初めて"負の遺産"と認め、干潟などの埋め立てが生物の多様性を損ね、生存に必要な食料の獲得にとっては、かえってマイナスでもあったと認めているのだ。
どうして、こんなことを、わが国は大声で言わないのだろう。また新聞諸紙も、それを今まで報道しなかったのだろう。
この国には、「一からのやりなおし」がどうも必要な気がする。
森と川と海との"つらなり"や"つながり"を問う「森里海連環学」が、今年こそ、そしてこれからこそ、必要な年になったと強く認識している。

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「二木啓考:検察の狙いはズバリ〝小沢の脱税逮捕〟」をクリックするとこの天野礼子氏のサイトが表示されるがどういうことか?
戦後アメリカから移入した農薬を使う指導を農協に続けさせてきた農林水産省が、農薬の弊害を初めて"負の遺産"と認め、干潟などの埋め立てが生物の多様性を損ね、生存に必要な食料の獲得にとっては、かえってマイナスでもあったと認めているのだ。
驚くべきことに、そこに添えられている写真はなんと、諫早水門の閉じられている姿なのだ。
本文より
諫早湾の件については、この《THE JOURNAL》【第18回政治家に訊く:舟山康江】のコラムに私の意見を投稿しました。
また、このジャーナリストのお一人である、相川氏他、いろいろな方が、独自の視点で農業問題を捉えておられます。
農業者の一人として、この20年程まえから、少しづつ農業行政の変化を感じてはいますが、如何せん農林水産省内の縦割り行政は、相変わらずです。
一方で、ダムや区画整理や埋め立て等で自然を変え、一方でそれを見直しているという矛盾を生んでいると私は感じています。
今回の政権交代で、その悪しき予算編成で農業公共事業予算を建設省に横断型予算として振替て、今後新規ダム工事は、農林水産省で行われないことを、私は高く評価しています。
それでも、まだ見直しは必要です。
農林水産業は、環境問題とも大きく関わっています。
環境省との連携も必要です。
農林水産業の新たな部門開拓には、経済産業省との連携も必要ですし、食育と言う面では、文部科学省など、このほかにも他の省庁との連携が必要です。
農林水産省内でも、それはあすこの部門が担当しているからでなく、隣同士の机と言うのか議論に参加し、相互の関係が深まることを期待しています。
その議論の中心にいるのが、官僚でなく政治家である。
それが、この政権に求められているのだと私は思っています。

Monday, March 1, 2010

岩手・大槌町の観測で145cmの津波 チリ巨大地震(10/02/28)

Tsunami arrives in Japan 3:55




Japan prepares for the worst as tsunami waves from the Chilean earthquake arrive. CNN's Kyung Lah reports.

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