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Saturday, August 1, 2009

【岡倉天心と東洋的思想について。】

                  横山大観作 【屈原】
【岡倉天心と東洋的思想について。】

【私のコメント】
 最近になって、私の学生時代に愛読した岡倉天心の思想に、再度ふれて見たいという思いが強くなり、そのさしさわりとして、インターネットで、明治大正時代に活躍された岡倉天心のことを調べ始めました。以下は、その一部です。ここに御紹介をさせて頂きます。

 後日において、その結果について、私の見解をこのブログにて、公開する予定でおります。
まずは、図書館で、その著作本を借りて、読んでからになると思います。
 
 私は、若い時に、この岡倉天心をその著作(東洋の理想、茶の本)を通して、親しみ、尊敬と関心をもってきたのですが、現実の生活に追われる中で、いつの間にか忘却されていたのです。

 日本が西洋文化におくれているという日本社会の大半の見方に反抗し、日本の良さを対比させて、明治期において、日本の伝統的な仏教美術、芸術に、誇りをもって、積極的にに西洋世界に、紹介し
、尽力をされた先覚者であったのである。 その活動に共感した代表的人物はアーネスト・フェノロサであったのである。


 この時代に、もしも、岡倉氏が、生きて活躍されていなければ、西洋諸国の人々は、日本をもっと、蔑んだであろうと思われるのである。

 この岡倉天心氏の思想的な探求は、今後の日本の進むべき進路を探るために、大きな要素があるように、思われてなりません。
 
 岡倉天心は、多くの弟子を育て、多方面に渡る影響を与えて、その使命を終えたのである。
 
 近代日本画の大家の横山大観もその弟子のひとりであった。
 
 明治時代において、西洋と東洋の進むべき道、あるいは、理想とすべき道筋を探求しようと努力した人のその著作は、きっと、若い人にも、ためになると思います。是非、読んで頂きたいと思います。

 それでは、ひとまず失礼を致します。

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【WEB公開参考資料引用リンク1】: 岡倉天心と『東洋の覚醒』(1890年代)
    (リンク1):http://www.yorozubp.com/asiaism/asiatenshin.htm

【引用始め】以下の通り。
Yorozubampo  
岡倉天心と『東洋の覚醒』(1890年代)
 一般的にいって第一次大戦以降における人種意識の問題は、外交・政治・経済的要因をぬきにしていうならば、まさに文明の原理としての人種という姿をとりはじめた、ということができよう。

 幕末以来のながい西洋文明へのコンプレックスを脱却し、アジア人であること、日本人であることを、むしろひとつの誇らしい原理としてとらえなおそうとする次元へと、問題が移されたわけだ。

 その場合、日本の知識人がある好ましい典型として思いおこしたものの一人が、岡倉天心であったことは、偶然ではない。この物語の中では、天心のことを取りあげたことが一度もなかったので、ここでこの人物の場合を考えておきたいと思う。
 天心といえば、その最初の本『東洋の理想』(明治三十六年、ロンドンで刊行)の冒頭にかかげられた「アジアは一つ」という言葉があまりにも有名である。いわばそれは日本の青年たちばかりでなく、インドや中国の青年たちをも鼓舞する、霊感に満ちたスローガンというべきものであった。それは福沢諭吉の「脱亜入欧」とふしぎな逆説で結ばれたかのように、時代の転換期のそのつどに想起された言葉であった。もちろん、この言葉はアジアの芸術と哲学の同一性の直観を表現したものであり、かならずしも政治の言葉として語られたものではなく、いわんや白色人種に対する黄色人種の一体性を主張したものでもない。とくに天心の場合、多くのいわゆるアジア主義者とは異なり、本来の意味でのオリエントの広大な地域が、その視野に含まれていたことから見ても、また彼が明治時代にも稀有のコスモポリタンであったという事実から見ても、天心を何らかの意味で人種主義者と見ることは当らないはずである。しかし、たとえば次のような文章は、ほとんどこれを普通の意味での人種主義の表現と見てもおかしくない。

「アジアの兄弟姉妹よ!

 われわれの父祖の地は、大いなる苦難のもとにある。今や、東洋は衰退の同義語になり、その民は奴隷を意味している。たたえられているわれわれの温順さは、礼儀をよそおった異国人の卑怯なあざげりにほかならない。われわれは、商業の名のもとに好戦の徒を歓迎し、文明の名のもとに帝国主義者を抱擁し、キリスト教の名のもとに残酷のまえにひれふしてきた。国際法の光は、白い羊皮紙の上に輝いているが、完全な不正は有色の皮膚に黒い影をおとしている。

 王たちの座は、まだくつがえされていないにしても、ゆらぎつつあり、われわれにやすらぎをあたえていたあの乎和は、もはや地上にはない。やせおとろえた飢餓が炉ばたにすわり、天は昔のような恩恵の雨を降らさない。男たちは、無言の恥辱のうちにあってたがいに見かわすだけで、その恥辱をみとめる勇気もない。女たちは、今では、英雄をうむために結婚するのではない。」

「アジアの兄弟姉妹よ!

 われわれは、さまざまな理想のあいだを長いあいださまよってきた。さあ、ふたたび現実に目覚めようではないか。われわれは、無感覚という河をただよい流れてきた。さあ、もう一度現実という苛酷な岸に上陸しようではないか。われわれは、結晶のような生活を誇りとして、たがいに孤立してきた。さあ、共通の苦難という大洋のなかで溶け合おうではないか。『黄禍』の幽霊は、往々にして、西洋の罪悪感がつくりあげたものであった。東洋の静かな凝視を『白禍』にむけようではないか。私は、諸君に暴力をよびかけているのではない。私は諸君の勇気に訴えているのであり、侵略をよびかけているのではなく、その自覚をもとめているのである。

 ヨーロッバの栄光は、アジアの屈辱である!歴史の過程は、西洋とわれわれのさけがたい敵対関係をもたらした歩みの記録である。

狩猟と戦争、海賊と略奪の子である地中海およびパルト海諸民族の、落ちつきのない海洋的本能は、最初から、農業的アジアの大陸的安定とはいちじるしい対照をなしていた。自由という、全人類にとって神聖なその言葉は、彼らにとっては個人的享楽の投影であって、たがいに関連しあった生活の調和ではなかった。彼らの社会の力は、つねに、共通の餌食を撃つためにむすびつくカにあった。彼らの偉大さとは、弱者を彼らの快楽に奉仕させることであった。彼らの誇りは、ぜいたく品をつんだ彼らの車を曳く無力な者たちにたいする軽蔑からなりたっていた。自由を謳歌したギリシア人でさえも、奴隷にたいしては暴君であったし、ローマの逸楽は、エチオピアの汗とゴール(ケルト族の居住地。おもに現在のフランス、ペルギー)の血のなかを泳いでいた。西洋は平等を自慢するが、彼らの特権階級は今なお大衆の背にまたがり、富者は貧者をふみにじることをやめず、永遠のユダヤ人は以前にまさる追害をうけている。」

「破滅の運命は進み、貪欲の党徒はいそぐ。極東は今や、生体解剖のまないたの上にのせられた。われわれは、中国において、一八四○年の阿片戦争に『白禍』を感じとった。このもっともいまわしい戦争で、大砲の脅追のもとに毒物がわれわれに強制され、香港がうばいとられてイギリスの作戦根拠地となった。一八五七年のアロー号事件では、ふたたび何の口実もなしに英仏連合草が北京に侵入して、夏宮の略奪をおこない、その財宝は、今日にいたるまで彼らの芸術品収集の誇りとなっている。二年後には、三色旗はついにサイゴンにひるがえって、アンナンおよびトンキンをその保護領とし、シャム(タイ国の旧称)を脅追してメコン河の南に後退させた。保護領!--いったいだれから保護するというのか!つぎの年には、合衆国を先頭とする全世界の武装使節は、日本に開港を命ずるためにその扉をたたいたのである。

 だがなぜ、このようなわれわれの没落の物語がつづくのか?朝鮮とカスピ海、太平洋諸島とペルシア湾のおそろしい喜劇と苦痛な道化芝居を語らねばならないのか?西洋の友好的介入が実際にはロシアに満州を保障した、日清戦争後の三国連合のことを諸君は聞かなかったか?われわれのもっとも神聖な聖所をののしった二人の宣教師が怒った暴徒に殺されたことを理由に、ドイツが中国中部の要衝をおさえた膠州湾併合を、諸君は見なかったか?全ヨーロッパが強姦と強奪のために結集して、彼らが海賊の血をひくものであることをふたたび証明した最近の連合占領の悲劇を、諸君は目撃しなかったか?ピルマは、ついきのうまでは存在していたのに、今はどこへいってしまったのか?ティボー(ピルマの鉱山、ルピーの産地)の紅玉には、マンダレー(ビルマの古都)の罪なき血の叫びがこもっている。コイヌールの金剛石(イギリス王室所蔵のインド産ダイヤモソド、一○九カラット)は、ゴルコンダ(インドの昔の城市)の涙のしずくである。彼らの邸宅や博物館で略奪した富、寺院からうばった宝物、泣き叫ぶ女性からとりあげた宝石を誇らぬものがあろうか?

 イギリスの金本位制はベンガル(ガンジス河上流域の地方)とカルナチック(南インド東海岸の地方)の略奪に基礎をおいており、彼らじしんの計算によれば、プラッシーの戦いとワーテルローの戦いのあいだに十億ポンドが彼らの金庫に流れこんだ。まことに、西洋の栄光は東洋の屈辱である!

 私は、われとわが身に慚じざるをえない。」

「私は今、彼らの言語を借りて諸君に訴えているが、この彼らの言語そのものが、東洋の一体化を示している。それは、共通の復活の叫びをつたえながら、千島列島からコモリン岬まで、カンボジアの出入りの多い海岸からさざ波立つ緑のクレタ島まで達している。そしてじっさい、全アジアの武装をよびかけるのに、西洋の傲慢のおそろしいイメージ以上にいったい何が必要であろうか?

 アジア人ひとりひとりの心臓は、彼らの圧追によるいいようのない苦しみに血を流していないであろうか?ひとりひとりの皮膚は、彼らの侮蔑的な眼の鞭の下でうずいていないであろうか?

ヨーロッパの脅迫そのものが、アジアを鞭うって、自覚的統一へみちびいている。アジアはつねに、その巨体をうごかすのに緩慢であった。しかし眠れる巨像は、あすにも目覚めて、おそるべき巨歩をふみだすかもしれない。そして、八億三千万の人間が正当な怒りを発して進むならば、そのひと足ごとに地球は震動し、アルプスはその根底まで揺れ、ラインとテームズは恐怖にさかまくであろう。」(日本の名著39『岡倉天心』昭和四十五年)

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【引用終わり】
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【参考引用リンク2】 : 岡倉天心 wikipedia :

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A1%E5%80%89%E5%A4%A9%E5%BF%83

岡倉 天心(おかくら てんしん、男性、1863年2月14日文久2年12月26日) - 1913年9月2日)は明治期に活躍した美術家美術史家美術評論家美術教育者である。本名は覚三(かくぞう)。幼名は角蔵。弟の岡倉由三郎英語学者横浜生まれ。東京美術学校(現・東京藝術大学)の設立に大きく貢献し、日本美術院の創設者としても著名。
福井藩士だった・岡倉勘右衛門は貿易で、幼いころから英語に慣れていた。東京開成所(のちの官立東京開成学校、現・東京大学)に入所し、政治学・理財学を学ぶ。英語が得意だったことから同校講師アーネスト・フェノロサの助手となり、フェノロサの美術品収集を手伝った。また天心は明治15年(1882年)に専修学校(現在の専修大学)の教官となり、専修学校創立時の繁栄に貢献し学生達を鼓舞した。専修学校での活躍は、文部省専門学務局内記課に勤めていたころである。また専修学校の師弟関係で浦啓一も天心と出会い、天心の指導によりその一生に決定的な影響を受けたのである。
明治23年(1890年)から3年間、東京美術学校でおこなった講義「日本美術史」は日本(の美術史学)における日本美術史叙述の嚆矢とされる。
東京都台東区岡倉天心記念公園(旧邸・日本美術院跡)がある。また、ニューヨークで英語で「茶の本」を出版して100年にあたる2006年10月9日に、天心が心のふるさととしてこよなく愛した福井県の大本山永平寺において“岡倉天心「茶の本」出版100周年記念座談会”が行われた。
目次[非表示]
1 来歴
2 親類縁者
3 逸話
4 関連著作
5 脚注
6 関連項目
7 外部リンク
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来歴 [編集]
文久2年(1862年)12月26日、福井藩士・岡倉覚右衛門の次男として横浜(生誕の地は現在の開港記念会館)に生まれる。
明治6年(1873年)、官立東京外国語学校(現東京外国語大学)に入学。
明治8年(1875年)、東京開成学校(明治10年(1877年)に東京大学に改編)に入学。
明治13年(1880年)7月、東京大学文学部卒業。11月より文部省に勤務。
明治14年(1881年)アーネスト・フェノロサと日本美術を調査。
明治15年(1882年)、専修学校(現在の専修大学)の教官となり、専修学校創立時の繁栄に貢献し、学生達に大きな影響を与えた。
明治19 - 20年(1886 - 1887年)、東京美術学校設立のため、欧米視察旅行。
美術雑誌国華』創刊。
明治20年(1887年)、東京美術学校幹事。東京美術学校は明治22年(1889年)に開校した(現・東京藝術大学美術学部)。
明治23年(1890年)、東京美術学校第2代校長(初代は浜尾新)。27歳のこの頃が最も活動がさかんであった。同校での美術教育が特に有名で、横山大観下村観山菱田春草西郷孤月らを育てたことで知られる。
明治31年(1898年)、東京美術学校を排斥され辞職。同時に連帯辞職した横山らを連れ、日本美術院を上野谷中に発足させる。
明治34 - 35年(1901 - 1902年)、インド訪遊。タゴール等と交流する
明治36年(1904年)、ビゲローの紹介でボストン美術館中国・日本美術部に迎えられる[1]。この後は館の美術品を集めるため日本とボストン市を往復することが多くなり、それ以外の期間は茨城県五浦(いづら)のアトリエにいることが多くなり表立った活動は少なくなった[2]
明治38年(1906年)、美術院の拠点を茨城県五浦に移す。この団体は岡倉の活動が鈍るにつれて活動も減少するが岡倉の没後、横山らによって再興された。
明治43年(1910年)、ボストン美術館中国・日本美術部長。
大正2年(1913年)9月2日、新潟県赤倉温泉の自身の山荘にて永眠。同日、従四位・勲五等双光旭日章を贈られる。墓所は豊島区駒込染井墓地。遺言により分骨され五浦にも墓がある。

親類縁者 [編集]
子の岡倉一雄は朝日新聞記者で天心の伝記をまとめた。孫(一雄の子)の岡倉古志郎非同盟運動にも関わった国際政治学者。曾孫(古志郎の子)の岡倉徹志中東研究者。玄孫(徹志の子)の岡倉禎志写真家西洋史学者の岡倉登志は曾孫。
岡倉家の祖先は、浅井長政が有名な近江国戦国大名浅井氏の一門であると言う。

逸話 [編集]
明治36年(1903年)、天心は米国ボストン美術館からの招聘を受け、横山、菱田らの弟子を伴って渡米。羽織・袴で一行が街の中を闊歩していた際に1人の若い米国人から冷やかし半分の声をかけられた。「おまえたちは何ニーズ? チャイニーズ? ジャパニーズ? それともジャワニーズ?」。そう言われた天心は「我々は日本の紳士だ、あんたこそ何キーか? ヤンキーか? ドンキーか? モンキーか?」と流暢な英語で言い返した。
<原文>
"What sort of nese are you people? Are you Chinese, or Japanese, or Javanese?"
"We are Japanese gentlemen. But what kind of key are you? Are you a Yankee, or a donkey, or a monkey?"[要出典]
当初は天心を引き立てた上司である文部官僚の九鬼隆一男爵の妻・波津子(九鬼周造の母)との不倫関係は彼の更迭との関連をも噂され、世情の好奇の対象となった。

関連著作 [編集]
『岡倉天心全集』 平凡社 全8巻 1980年
『The Ideals of the East-with special reference to the art of Japan』 1903年 ジョン・マレー書店(ロンドン) 日本語訳:『東洋の理想』講談社学術文庫
『The Awakening of Japan』 1904年 センチュリー社(ニューヨーク)及びジョン・マレー社(ロンドン) 日本語訳:『日本の目覚め』
『THE BOOK OF TEA』 1906年 フォックス・ダフィールド社(ニューヨーク):日本語訳は以下。
『茶の本』岩波文庫 村岡博訳、他には『新訳茶の本』大久保喬樹訳で角川文庫ソフィア、『茶の本 英文収録』桶谷秀昭訳で講談社学術文庫、また対訳「茶の本」が講談社インターナショナルと「対訳ニッポン双書 茶の本」IBCパブリッシング。
佐伯彰一桶谷秀昭橋川文三訳『東洋の理想 日本の覚醒 東洋の覚醒』平凡社東洋文庫422  1983年
坪内隆彦『岡倉天心の思想探訪―迷走するアジア主義』勁草書房、1998年
『日本美術史』平凡社ライブラリー377  2001年
『内村鑑三・岡倉天心』 新学社近代浪漫派文庫4  2004年  浅野晃訳版「東洋の理想」ほか
『岡倉天心・志賀重昂』 (日本の名著39 中央公論社
木下長宏著『岡倉天心』 日本評伝選 ミネルヴァ書房 2005年
岡倉登志 『世界史の中の日本 岡倉天心とその時代』 明石書店  2006年
大井一男著『美術商<アートディーラー> 岡倉天心』 文芸社 2008年
ワタリウム美術館編集 『岡倉天心 日本文化と世界戦略』平凡社 2005年
『茶の本の100年 岡倉天心国際シンポジウム』松岡正剛磯崎新熊倉功夫ほか 小学館スクウェア 2007年
大原富枝 『ベンガルの憂愁 岡倉天心とインド女流詩人』(ウェッジ文庫 2008年)
『宝石の声なる人に プリヤンバダ・デーヴィーと岡倉覚三 愛の手紙』(大岡信/大岡玲編訳、平凡社ライブラリー 1997年)
 橋川文三編『岡倉天心 人と思想』(平凡社 1982年)
宮川寅雄著『岡倉天心』 1956年  日本美術史叢書 東京大学出版会
斉藤隆三著『岡倉天心』 1960年  人物叢書 吉川弘文館
大岡信著『岡倉天心』 朝日新聞社 のち朝日選書 1980年

脚注 [編集]
^ アメリカでの教え子の1人に、ラングドン・ウォーナーがいる。
^ アトリエの跡地は現在、茨城大学五浦美術文化研究所となっている(「五浦海岸」の項参照)。

関連項目 [編集]
五浦海岸
九州国立博物館
茶道
わび・さび

外部リンク [編集]
福井県と岡倉天心
茨城大学五浦美術文化研究所
茨城県天心記念五浦美術館
岡倉天心の世界、茶の本
岡倉 天心:作家別作品リスト青空文庫
プロジェクト・グーテンベルク岡倉天心作品集(英語)
"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A1%E5%80%89%E5%A4%A9%E5%BF%83" より作成
カテゴリ: 出典を必要とする記事 日本の美術評論家 美術史家 アジア主義の人物 1863年生 1913年没
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【参考リンク3】:アーネスト・フェノロサ wikipedia:






【参考リンク4】:横山大観 :



横山大観作 :【屈原】
【出展引用】  
WordsWorthof April
Keiyokokou
an emaciated look
Quoted from "Gyofu no Ji"
 
4月の四字熟語
形容枯槁
四字熟語に秘められた先人の思い
 
copy by Ko Tamura
a staff writer of zuzu creations
「漁父辞」
屈原既放游於江潭行吟澤畔顔色憔悴形容枯槁
漁父見而問之子非三閭太夫與何故至於斯屈原曰與世皆濁我独清衆人皆酔我独醒是以見放漁父曰聖人不凝滞於物而能與世推移世人皆濁何不乱其泥而揚其波衆人皆酔何啜其汁何故深思高挙自令放為屈原曰吾聞之新沐者必弾冠新浴者必振衣安能以身之察察受物之紋紋者乎寧赴湘流葬於江魚之腹中安能以晧晧之白而蒙世俗之塵埃乎漁父莞爾而笑鼓(木世=えい)而去/乃歌曰滄浪之水清兮可以濯吾纓遂去不復與言
 屈原は放逐されて江や淵をさまよい、詩を口ずさみつつ河岸を歩いていた。顔色はやつれはて、見る影もなく痩せ衰えている。一人の漁夫が彼を見付け、尋ねた。「あなたは三閭太夫さまではございませぬか。どうしてまたこのような処にいらっしゃるのですか?」 屈原は言った。「世の中はすべて濁っている中で、私独りが澄んでいる。人々すべて酔っている中で、私独りが醒めている。それゆえ追放されたのだ」 漁夫は言った。「聖人は物事に拘らず、世と共に移り変わると申します。世人がすべて濁っているならば、なぜご自分も一緒に泥をかき乱し、波をたてようとなされませぬ。人々がみな酔っているなら、なぜご自分もその酒かすをくらい、糟汁までも啜ろうとなされませぬ。なんでまたそのように深刻に思い悩み、高尚に振舞って、自ら追放を招くようなことをなさったのです」 屈原は言った。「ことわざにいう、『髪を洗ったばかりの者は、必ず冠の塵を払ってから被り、湯浴みしたばかりの者は、必ず衣服をふるってから着るものだ』と。どうしてこの清らかな身に、汚らわしきものを受けられよう。いっそこの湘水の流れに身を投げて、魚の餌食となろうとも、どうして純白の身を世俗の塵にまみれさせよう」漁夫はにっこりと笑い、櫂を操って歌いながら漕ぎ去った。「滄浪の水が澄んだのなら、冠の紐を洗うがよい、滄浪の水が濁ったのならば、自分の泥足を洗うがよい」そのまま姿を消して、彼らは再び語り合うことがなかった。
There is a story of how an old fisherman met Qu Yuan, haggard and distraught, wailing beside the Canglang River in Hubei province. When the fisherman asked Qu Yuan how he had come to this , he replied, " The world is foul and I alone am clean. They all are drunk and I alone am sober. So I was banished." " The true sage does not quarrel with his surroundings , but adjusts to them," the fisherman said. " If the world is foul, why not leap into the side and make it clean? If all men are drunk, why not drink with them, Why should you be so virtuous as to get yourself banished?" He rowed away singing a song:" When the water of the Canglang is clean and clear, in it I wash my headgear. When it is filthy more than met, I use it to wash my feet. " But Qu Yuan was unable to do this.
 
 
けいようここう【形容枯槁】
「屈原」部分 横山大観The Legendary Chinese Poet Qu Yuan 1898 by Taikan YokoyamaColor on silk, Itsukushima Shrine
 
「漁父辞」屈原既放 游於江潭 行吟澤畔 顔色憔悴 形容枯槁
「屈原既に放たれて 江潭にあそび ゆくゆく沢畔に吟ず 顔色憔悴し 形容枯槁せり」
意味 ー容貌がやせ衰えたり、やつれたりして、枯れ木のようになってしまった様子を表す。「形容」は形体・容貌のこと。「枯」は枯れる、やつれるという意味で「槁」と同じ。
いわれ ー古代楚国の賢臣屈原が追放され、べきらの渕に身を投げて自決する。そのときの憂憤のあまりやつれはてた姿をいった言葉。単に病気などでやつれた時には使わない。
 
***
 
今年の桜の開花は事のほか早かったものです。そんな桜が咲き競う並木を抜け上野公園の奥に位置する国立博物館に、横山大観展を観に行きました。横山大観の作品を愛してやまない多くの日本人同様、私も彼の絵が持つスケールの大きさ、力強さ、品格、そして構成の妙に魅せられております。かつて中国人の画家の友人曰く、『中国絵画の模倣の域を超えていないあまたの日本画家の中で、大観だけがオリジナリティーに満ちている。』さらに曰く『「屈原」(くつげん)はとても感動した。』大観だけが...の説には必ずしも賛成しかねるのでありますが、以来大観が日本美術院の第一回展に出展した「屈原」を是非観たいものだと思っておりました。屈原とは中国戦国時代の楚の国の人物であり優れた詩を残しています。国政に携わっていたのですが妬みをかい、讒言によって都を追放されるのです。やがて彼は滅亡の危機に瀕する祖国を憂いながら、五月五日に汨羅(べきら)に身を投じて、人生の幕を閉じるのでした。追放され、窶れてもなお憤然と逆風に立ち向かう屈原。大観は荒れ野にただずむ屈原の姿を、当時東京美術学校を追われた恩師岡倉点心にも重ねていた事を後に記しています。大観描く所の屈原は、高潔の象徴である蘭の花を手に、荒野の風に向ってふんばっています。手折られてもなお気品を持って屈原の手の中で静かに凛として咲く蘭と屈原のまわりに吹き荒れる疾風との対比が、絵を観ている私達にドラマティックに語りかけてきます。まさに形容枯槁の姿であるともいえましょう。野に下ってなお自分の理想を曲げない愛国者の気概を、政治の腐敗を聴くにつけ、現代に生きるわたくしたちひとりひとりも持っていたいと思うのであります。うつくしく咲くさくらの命は短くて...。デパートの玩具売場はもうすでに端午の節供の飾付が置かれています。「柱のきずはおととしの5月5日のせいくらべ。ちまき食べ食べにいさんが計ってくれた背の丈。」幼い頃からなじみのある唱歌にも登場するちまき。このちまきの起源がかの屈原の供養にさかのぼるといわれているのを知ったのは、大観展の後屈原についての資料を読んでいた時でした。屈原が汨羅にて身投げした後、最初は屈原の姉が後は人々が彼を弔うため、命日の5月5日に霊に捧げるべく竹筒に米を入れて川に流したのですかが、それを川に住む竜が盗んでしまうので、米を「おうち」(せんだん)の葉で包み、5色の糸で縛って捧げるようにかったと云います。これがちまきの始まりといわれております。今年の端午の節供には、おいしいちまきをほおばりながら屈原に思いを馳せてみようと思うのでありました。
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