【以下に星野芳樹氏の活動に係わる人々の紹介記事です。】
【注:google検索を利用しました。】
【出展引用1】: ダニエルサラーム便り 根本 利通(ねもととしみち)
http://jatatours.intafrica.com/habari66.html
【出展引用2】: ケニア旅行記3
http://www.geocities.jp/walkabout_ted/kenya_travel3.htm
【出展引用3】:
第001回国会 在外同胞引揚問題に関する特別委員会引揚促進並びに感謝決議に関する小委員会 第1号
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/001/1536/00108071536001a.html
【出展引用4】:
日本―アフリカ交流史の展開
日本-アフリカ交渉史の諸相を考える
―いくつかの研究課題と展望ー
http://wwwsoc.nii.ac.jp/africa/j/publish/pdf/V72/75-81.pdf
大谷大学文学部 古 川 哲 史
2008 年1月15 日受付,2008 年1月31 日受理
連絡先: 〒603-8143 京都市北区小山上総町
大谷大学文学部
e-mail: frukawa@res.otani.ac.jp
【出展引用始め】:
【出展引用リンク】:
http://wwwsoc.nii.ac.jp/africa/j/publish/pdf/V72/75-81.pdf
特集 : 日本-アフリカ交渉史の展開
日本ーアフリカ交渉史の諸相を考える
いくつかの研究課題と展望
大谷大学 文学部 古川哲史 2008年5月16日作成
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【出展引用リンク】:
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はじめに
本稿は長崎で開催された日本アフリカ学会・第 44 回学術大会の公開シンポジウム(2007 年5月 26 日)における私の発表「日本-アフリカ交渉史の諸相を考える――いくつかの課題と展望」の内容に,現在考えていることを少し加えたものである1)。
発表に際しては主催者から,最後の登壇者としてできるだけ既成の枠を打ち破るような話を,と求められていたこともあり,まだ学術的あるいは歴史学的に裏づけされていない話やテーマも,あえて問題提起として触れた。発表では,一般への公開シンポジウムであることを意識して,学会などでは普段話すことのない私自身のアフリカとの私的係わりから述べた。
それは単に聴衆への自己紹介という意図だけではなく,私のアフリカとの係わりもまた,非常に微々たるものではあろうが,日本-アフリカ交渉史の時代的諸相を表すものと考えたからである。
もちろん,1964 年に設立された本学会の会員の今までの活動自体が,日本における学術的な側面を主とした日本とアフリカとの係わりの形成に大きく寄与してきたであろうし,個々の会員の「アフリカ体験」の中身,その質と量の変容に,日本-アフリカ交渉史の流れを見ることができる。
1.私とアフリカ,本研究テーマとの係わり私は 1964 年(昭和 39 年)に兵庫県で生まれ育った。そして 17 歳の高校生のときに父に連れられケニアを訪れる機会を得た。当時,私自身は外国といえばアジアに関心があった程度なのだが,父がチヌア・アチェベなどアフリカ文学の研究・紹介に携わっていた関係で,初めての外国旅行の地がケニアとなった。その時はわずか1週間あまりの観光客としてのケニア滞在であった。
しかし,想像以上に発展していたナイロビの中心街,そして人々の喧騒が渦巻く下町通り,さらには首都を離れて訪れたスケールの大きな自然公園(日本の動物園で見るのとは違い,風景と溶け合う動物たちの美しさ)などでの刺激にみちた体験の日々であった。
それと同時に驚かされたのが,至るところで目にする車や電化製品といった日本製品の多さであった。
アフリカ研究者なら,あるいは 1980 年代初頭のナイロビを知っている人なら意外なことではないだろうが,当時,ほと近年,日本-アフリカ交渉史に関する研究は,日本やアフリカ,欧米諸国などの研究者によって増えつつある。
しかし,歴史学的な観点から見ると,未開拓な分野,着手されていないテーマはまだ多い。
私は今まで 1920年代- 30 年代の日本とアフリカの交渉史に焦点を当ててきたが,本稿ではまず私自身のアフリカや本テーマとの係わりを述べる。それは,その事例自体が,日本人のアフリカへの係わりの時代的諸相の一側面を反映していると思われるからである。
次に,先行研究を概観し,時代区分の問題や対象地域への視座の問題を論じる。
そして,私自身も未検討な,あるいは推測の域を出ていない事柄も含めて,今後の研究課題としていくつかの問題を提示する。
最後に,日本-アフリカ交渉史研究における方法論的枠組みのさらなる議論や,国際的かつ学際的な共同研究の必要性を指摘する。
発表に際しては主催者から,最後の登壇者としてできるだけ既成の枠を打ち破るような話を,と求められていたこともあり,まだ学術的あるいは歴史学的に裏づけされていない話やテーマも,あえて問題提起として触れた。発表では,一般への公開シンポジウムであることを意識して,学会などでは普段話すことのない私自身のアフリカとの私的係わりから述べた。
それは単に聴衆への自己紹介という意図だけではなく,私のアフリカとの係わりもまた,非常に微々たるものではあろうが,日本-アフリカ交渉史の時代的諸相を表すものと考えたからである。
もちろん,1964 年に設立された本学会の会員の今までの活動自体が,日本における学術的な側面を主とした日本とアフリカとの係わりの形成に大きく寄与してきたであろうし,個々の会員の「アフリカ体験」の中身,その質と量の変容に,日本-アフリカ交渉史の流れを見ることができる。
1.私とアフリカ,本研究テーマとの係わり私は 1964 年(昭和 39 年)に兵庫県で生まれ育った。そして 17 歳の高校生のときに父に連れられケニアを訪れる機会を得た。当時,私自身は外国といえばアジアに関心があった程度なのだが,父がチヌア・アチェベなどアフリカ文学の研究・紹介に携わっていた関係で,初めての外国旅行の地がケニアとなった。その時はわずか1週間あまりの観光客としてのケニア滞在であった。
しかし,想像以上に発展していたナイロビの中心街,そして人々の喧騒が渦巻く下町通り,さらには首都を離れて訪れたスケールの大きな自然公園(日本の動物園で見るのとは違い,風景と溶け合う動物たちの美しさ)などでの刺激にみちた体験の日々であった。
それと同時に驚かされたのが,至るところで目にする車や電化製品といった日本製品の多さであった。
アフリカ研究者なら,あるいは 1980 年代初頭のナイロビを知っている人なら意外なことではないだろうが,当時,ほと近年,日本-アフリカ交渉史に関する研究は,日本やアフリカ,欧米諸国などの研究者によって増えつつある。
しかし,歴史学的な観点から見ると,未開拓な分野,着手されていないテーマはまだ多い。
私は今まで 1920年代- 30 年代の日本とアフリカの交渉史に焦点を当ててきたが,本稿ではまず私自身のアフリカや本テーマとの係わりを述べる。それは,その事例自体が,日本人のアフリカへの係わりの時代的諸相の一側面を反映していると思われるからである。
次に,先行研究を概観し,時代区分の問題や対象地域への視座の問題を論じる。
そして,私自身も未検討な,あるいは推測の域を出ていない事柄も含めて,今後の研究課題としていくつかの問題を提示する。
最後に,日本-アフリカ交渉史研究における方法論的枠組みのさらなる議論や,国際的かつ学際的な共同研究の必要性を指摘する。
アフリカ研究 72:75-81(2008)75
日本-アフリカ交渉史の諸相を考える
―いくつかの研究課題と展望―
大谷大学文学部 古 川 哲 史
―いくつかの研究課題と展望―
大谷大学文学部 古 川 哲 史
2008 年1月 15 日受付,2008 年1月 31 日受理
連絡先 : 〒 603-8143 京都市北区小山上総町大谷大学文学部
e-mail: furukawa@res.otani.ac.jp
特集:日本-アフリカ交流史の展開
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1.私とアフリカ,本研究テーマとの係わり
私は1964 年(昭和39 年)に兵庫県で生まれ育った。
そして17 歳の高校生のときに父に連れられケニアを訪れる機会を得た。当時,私自身は外国といえばアジアに関心があった程度なのだが,父がチヌア・アチェベなどアフリカ文学の研究・紹介に携わっていた関係で,初めての外国旅行の地がケニアとなった。
その時はわずか1週間あまりの観光客としてのケニア滞在であった。しかし,想像以上に発展していたナイロビの中心街,そして人々の喧騒が渦巻く下町通り,さらには首都を離れて訪れたスケールの大きな自然公園(日本の動物園で見るのとは違い,風景と溶け合う動物たちの美しさ)などでの刺激にみちた体験の日々であった。
それと同時に驚かされたのが,至るところで目にする車や電化製品といった日本製品の多さであった。
アフリカ研究者なら,あるいは1980 年代初頭のナイロビを知っている人なら意外なことではないだろうが,当時,ほとんど予備知識もなく訪れた日本の一高校生にとっては,そうした視界に飛び込む日本製品の流入・浸透ぶりは予想していなかったことであった。
私にとって物理的にも心理的にも「遠いアフリカ」が,少し身近に思えた。その後,アフリカへの関心は膨らむばかりで,数年後,大学在学中に休学し再びケニアに向かった。
今度は日本-アフリカ文化交流協会が 1975 年にナイロビに設けた「スワヒリ語学院」で半年間学ぶためであった。
当時は学院関係者によって「星野学校」と呼ばれていたその学校は,創設者・星野芳樹(1909 - 92)の思想と人脈もあり,語学学校というよりは,所属や肩書きを問わず日本の若者にケニア滞在の長期ビザと,勉学あるいは時にやや無謀ともいえる「遊学」の場を与えてくれるところであった。
学校は同時に,ケニアの青年に日本語を学ぶ機会を提供していた。私が在籍していた時期は,講師陣は学院長の星野に加えて,ケニアの著名な学者,ジャーナリスト,在住日本人など多彩な顔ぶれであった。
星野芳樹は第二次世界大戦前に反戦・共産主義運動により7年間を獄中で過ごし,戦後は平和運動に身を投じ,参議院議員や新聞社の論説委員を務めた人物である。
ちなみに,兄・星野直樹は戦前は満洲国総務長官,戦後はA級戦犯となったので,兄弟の人生は実に対照的であった。
星野芳樹は戦前からのアジアでの豊富な体験をもとに,アフリカへ関心を拡げ,1957 年に静岡新聞の特派員としてアフリカ各地を訪れた。日本人による現地に根ざしたアフリカ研究や報道が本格化する前の時期であった。
以降,アフリカ紹介に精力的に携わり,定年後は私財をはたいてナイロビに先述の学校を創設する。星野は必ずしも日本のアカデミズムの世界と深く係わったわけではないが,戦後の日本とアフリカの人的交流史において,忘れられない日本人の一人であろう。
私自身が日本-アフリカ交渉史に興味を持つようになったのも,戦前や戦後初期にアフリカに渡った日本人のことを,彼から何度も聞いていたからであった2)。
さらに私がこのテーマに関心を持つ契機となったのは,学院を卒業後,タンザニアのザンジバル島を旅行中に,現地で知り合った人に,かつて「からゆきさん」が住んでいたという家に案内されたことであった。
白石(1981)などでその話は知っていたが,なぜ明治時代に日本の女性が遥か東アフリカにまでやって来ることになったのか,と実際にその場所に立ち思いを馳せた。
また,その年は<国連女性の 10 年>の最終年(1985 年)であり,ナイロビで開かれた国際会議や催しに日本から多くの女性が参加した。
現地にいた私も,京都からのNGOの活動の手伝いなどをした。
このような東アフリカでの体験がもとで,大学の卒業論文には「戦前期の日本-アフリカ交渉史」というテーマを選んだ。
以降,1920 年代から 30 年代の交渉史を中心に,このテーマへの関心を持ち続けて現在に至っている。
2.先行研究について日本-アフリカ交渉史に関しては,当然のことながら先行研究の蓄積がある。
第二次世界大戦以前の時期を本格的に研究対象にしたのは,1960 年代以降の西野照太郎であった。
国立国会図書館に勤務していた西野は,明治期からの日本人とアフリカの係わりを明らかにすることに力を注いだ。
西野の論文やエッセイはこの分野の先駆的なものとして,今日でも高く評価されるべきである。
しかし,西野の研究は日本における刊行書物にもとづいたものがほとんどで,一次史料や雑誌文献,さらには外国語文献の利用が僅かしかないという点で限界がある。1980 年代以降は,本テーマの研究成果も増加する。
順不同でいくつか言及すると,国際関係論の視点から森川純がいくつかの論文や著書『南アフリカと日本――関係の歴史・構造・課題』(同文舘,1988 年)を発表し,後に英文著作 Japan and Africa: Big Business andDiplomacy (London: Hurst & Co.; Trenton & Asmara: AfricaWorld Press, 1997) を出版した。
北川勝彦は経済史的な視点から研究を進め,岡倉登志は政治史的な視点から関連論文を発表してきた。
岡倉は北川との共著で『日本-アフリカ交流史――明治期から第二次世界大戦期まで』(同文舘,1993 年)を刊行している。
北川は領事報告などを綿密に分析し,数多くの論文と『日本-南アフリカ通商関係史研究』(国際日本文化研究センター,1997 年)を公にしている。青木澄夫は国際協力事業団(後に中部大学)に勤務しながら精力的に文献探索をおこない,『アフリカに渡った日本人』(時事通信社,1993 年)および『日本人のアフリカ「発見」』(山川出版社,2000 年)の著作をはじめ,関係論文・エッセイを刊行してきた。
吉國恒雄はアフリカの大学でアフリカ史の博士号(ジンバブウェ大学,1989 年)を取得した数少ない日本人のひとりである。
吉國は日本にアフリカ史学を根付かせようと務め,この分野でも貴重な論考を残しているが,2006 年に病により亡くなった。
日本人のアフリカ認識の問題に取り組んできた藤田みどりは,主に比較文化・文学史論的観点から論文を発表してきた。
藤田は博士論文(東京大学,1997 年)の一部を補訂した『アフリカ「発見」――日本におけるアフリカ像の変遷』(岩波書店,2005 年)を出版している3)。
アフリカ研究者なら,あるいは1980 年代初頭のナイロビを知っている人なら意外なことではないだろうが,当時,ほとんど予備知識もなく訪れた日本の一高校生にとっては,そうした視界に飛び込む日本製品の流入・浸透ぶりは予想していなかったことであった。
私にとって物理的にも心理的にも「遠いアフリカ」が,少し身近に思えた。その後,アフリカへの関心は膨らむばかりで,数年後,大学在学中に休学し再びケニアに向かった。
今度は日本-アフリカ文化交流協会が 1975 年にナイロビに設けた「スワヒリ語学院」で半年間学ぶためであった。
当時は学院関係者によって「星野学校」と呼ばれていたその学校は,創設者・星野芳樹(1909 - 92)の思想と人脈もあり,語学学校というよりは,所属や肩書きを問わず日本の若者にケニア滞在の長期ビザと,勉学あるいは時にやや無謀ともいえる「遊学」の場を与えてくれるところであった。
学校は同時に,ケニアの青年に日本語を学ぶ機会を提供していた。私が在籍していた時期は,講師陣は学院長の星野に加えて,ケニアの著名な学者,ジャーナリスト,在住日本人など多彩な顔ぶれであった。
星野芳樹は第二次世界大戦前に反戦・共産主義運動により7年間を獄中で過ごし,戦後は平和運動に身を投じ,参議院議員や新聞社の論説委員を務めた人物である。
ちなみに,兄・星野直樹は戦前は満洲国総務長官,戦後はA級戦犯となったので,兄弟の人生は実に対照的であった。
星野芳樹は戦前からのアジアでの豊富な体験をもとに,アフリカへ関心を拡げ,1957 年に静岡新聞の特派員としてアフリカ各地を訪れた。日本人による現地に根ざしたアフリカ研究や報道が本格化する前の時期であった。
以降,アフリカ紹介に精力的に携わり,定年後は私財をはたいてナイロビに先述の学校を創設する。星野は必ずしも日本のアカデミズムの世界と深く係わったわけではないが,戦後の日本とアフリカの人的交流史において,忘れられない日本人の一人であろう。
私自身が日本-アフリカ交渉史に興味を持つようになったのも,戦前や戦後初期にアフリカに渡った日本人のことを,彼から何度も聞いていたからであった2)。
さらに私がこのテーマに関心を持つ契機となったのは,学院を卒業後,タンザニアのザンジバル島を旅行中に,現地で知り合った人に,かつて「からゆきさん」が住んでいたという家に案内されたことであった。
白石(1981)などでその話は知っていたが,なぜ明治時代に日本の女性が遥か東アフリカにまでやって来ることになったのか,と実際にその場所に立ち思いを馳せた。
また,その年は<国連女性の 10 年>の最終年(1985 年)であり,ナイロビで開かれた国際会議や催しに日本から多くの女性が参加した。
現地にいた私も,京都からのNGOの活動の手伝いなどをした。
このような東アフリカでの体験がもとで,大学の卒業論文には「戦前期の日本-アフリカ交渉史」というテーマを選んだ。
以降,1920 年代から 30 年代の交渉史を中心に,このテーマへの関心を持ち続けて現在に至っている。
2.先行研究について日本-アフリカ交渉史に関しては,当然のことながら先行研究の蓄積がある。
第二次世界大戦以前の時期を本格的に研究対象にしたのは,1960 年代以降の西野照太郎であった。
国立国会図書館に勤務していた西野は,明治期からの日本人とアフリカの係わりを明らかにすることに力を注いだ。
西野の論文やエッセイはこの分野の先駆的なものとして,今日でも高く評価されるべきである。
しかし,西野の研究は日本における刊行書物にもとづいたものがほとんどで,一次史料や雑誌文献,さらには外国語文献の利用が僅かしかないという点で限界がある。1980 年代以降は,本テーマの研究成果も増加する。
順不同でいくつか言及すると,国際関係論の視点から森川純がいくつかの論文や著書『南アフリカと日本――関係の歴史・構造・課題』(同文舘,1988 年)を発表し,後に英文著作 Japan and Africa: Big Business andDiplomacy (London: Hurst & Co.; Trenton & Asmara: AfricaWorld Press, 1997) を出版した。
北川勝彦は経済史的な視点から研究を進め,岡倉登志は政治史的な視点から関連論文を発表してきた。
岡倉は北川との共著で『日本-アフリカ交流史――明治期から第二次世界大戦期まで』(同文舘,1993 年)を刊行している。
北川は領事報告などを綿密に分析し,数多くの論文と『日本-南アフリカ通商関係史研究』(国際日本文化研究センター,1997 年)を公にしている。青木澄夫は国際協力事業団(後に中部大学)に勤務しながら精力的に文献探索をおこない,『アフリカに渡った日本人』(時事通信社,1993 年)および『日本人のアフリカ「発見」』(山川出版社,2000 年)の著作をはじめ,関係論文・エッセイを刊行してきた。
吉國恒雄はアフリカの大学でアフリカ史の博士号(ジンバブウェ大学,1989 年)を取得した数少ない日本人のひとりである。
吉國は日本にアフリカ史学を根付かせようと務め,この分野でも貴重な論考を残しているが,2006 年に病により亡くなった。
日本人のアフリカ認識の問題に取り組んできた藤田みどりは,主に比較文化・文学史論的観点から論文を発表してきた。
藤田は博士論文(東京大学,1997 年)の一部を補訂した『アフリカ「発見」――日本におけるアフリカ像の変遷』(岩波書店,2005 年)を出版している3)。
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Page 3 (77) 特集:日本-アフリカ交流史の展開
なお,アフリカや欧米諸国でも日本-アフリカ交渉史の研究は進められてきた。
たとえば,第二次世界大戦期までの日本とアフリカの関係を世界史の枠組みで論じることを試みた,日本生まれのアメリカ人による博士論文(Richard Bradshaw, “Japan and European Colonialismin Africa:1800-1937,”Ohio University, 1992)や, 日 本 の大学から博士号(筑波大学,1999 年)を取得したエチオピア人研究者の編による関連論考を含んだ SeifudenAdem ed., Japan, a Model and a Partner: Views and Issues inAfrican Development (Leiden: Brill, 2006) など,近年の書物まで数も少なくない。
逆にこのテーマに取り組む日本人の割り合いの少なさが目立つほどである。内外での学会や研究会,国際会議等で,日本とアフリカとの交渉史が取り上げられるようになってきてもいる。
たとえば,第二次世界大戦期までの日本とアフリカの関係を世界史の枠組みで論じることを試みた,日本生まれのアメリカ人による博士論文(Richard Bradshaw, “Japan and European Colonialismin Africa:1800-1937,”Ohio University, 1992)や, 日 本 の大学から博士号(筑波大学,1999 年)を取得したエチオピア人研究者の編による関連論考を含んだ SeifudenAdem ed., Japan, a Model and a Partner: Views and Issues inAfrican Development (Leiden: Brill, 2006) など,近年の書物まで数も少なくない。
逆にこのテーマに取り組む日本人の割り合いの少なさが目立つほどである。内外での学会や研究会,国際会議等で,日本とアフリカとの交渉史が取り上げられるようになってきてもいる。
3.時代区分と叙述について
上述した先行研究の業績は貴重であるが,もちろんそれだけで十分というわけではない。未開拓の分野,未着手のテーマは非常に多い。
一次史料の探索をはじめ,聞き取りや口承資料の扱い,分析枠組みに関する議論などはまだ不十分であろう。
現在,個人的に気になる点のひとつに,日本-アフリカ交渉史研究における時代区分の認識やその区分にもとづいた叙述の問題がある。
それは,日本-アフリカ交渉史をグローバルな歴史のなかで捉える眼差しの問題でもある。
一次史料の探索をはじめ,聞き取りや口承資料の扱い,分析枠組みに関する議論などはまだ不十分であろう。
現在,個人的に気になる点のひとつに,日本-アフリカ交渉史研究における時代区分の認識やその区分にもとづいた叙述の問題がある。
それは,日本-アフリカ交渉史をグローバルな歴史のなかで捉える眼差しの問題でもある。
時代区分とともに地域区分も議論すべき問題であるが,地域区分については,「日本」や「アフリカ」という概念自体が,時代とともに,また研究者によって恣意的に設定あるいは変容されやすいという点だけを指摘しておきたい。(研究対象としての「日本人」「アフリカ人」も同様である。)海域世界をどう扱うかの問題もある。
時代区分については,時代を時間軸にそって区分することの意味合いが,アフリカ史さらには歴史学一般における基本的な問題あるいは歴史哲学的課題としてあるが,ここでは便宜上,日本史,アジア史,アフリカ史のそれぞれの枠組みとの関連を少し考えたい。
時代区分については,時代を時間軸にそって区分することの意味合いが,アフリカ史さらには歴史学一般における基本的な問題あるいは歴史哲学的課題としてあるが,ここでは便宜上,日本史,アジア史,アフリカ史のそれぞれの枠組みとの関連を少し考えたい。
日本-アフリカ交渉史を日本人が考察する場合,日本史で一般に流通している区分に沿って考えられることが多い。
私自身も「安土桃山期」「江戸期」「明治期」「昭和期(第二次世界大戦期まで)」「昭和期(戦後)」といった時代区分を安易に利用して議論や叙述を進めてきた。
しかし自己反省しつつ考えると,交渉史研究でそれらを使う場合は,世界史的な流れとより密接に繋げてその区分の適切さ,あるいは意味合いを深く問う必要があろう。
また,アジア史の枠組みから日本とアフリカの交渉史を考える際には,インドや中国を含めたアジアとアフリカの歴史的に長く層の厚い交渉史のなかで,日本とアフリカの係わりの諸相を捉えなければならない。
その際,たとえばフィリップ・カーテン(Philip Curtin)の異文化間交流における「トレード・ディアスポラ」の研究(Curtin,1984),K・N・チャウドリ(K. N. Chaudhuri)による,近代世界システムの誕生とインド洋における交易ネットワークの収縮と膨張を図とともに分析・提示した研究(Chaudhuri, 1985)などは,史実の背景にあるシステムを理解するために参照とすべきものであろう。
日本人研究者にも家島彦一のインド洋と地中海を結ぶ人と物の移動を扱った大部な著書がある(家島,2006)。
19 世紀後半から 20 世紀前半においては,アジアやアフリカでのイギリス帝国の存在は無視できないし,第二次世界大戦後のアメリカ合州国とソビエト連邦による冷戦体制の史的形成と変容もまた考慮せねばならない4)。
私自身も「安土桃山期」「江戸期」「明治期」「昭和期(第二次世界大戦期まで)」「昭和期(戦後)」といった時代区分を安易に利用して議論や叙述を進めてきた。
しかし自己反省しつつ考えると,交渉史研究でそれらを使う場合は,世界史的な流れとより密接に繋げてその区分の適切さ,あるいは意味合いを深く問う必要があろう。
また,アジア史の枠組みから日本とアフリカの交渉史を考える際には,インドや中国を含めたアジアとアフリカの歴史的に長く層の厚い交渉史のなかで,日本とアフリカの係わりの諸相を捉えなければならない。
その際,たとえばフィリップ・カーテン(Philip Curtin)の異文化間交流における「トレード・ディアスポラ」の研究(Curtin,1984),K・N・チャウドリ(K. N. Chaudhuri)による,近代世界システムの誕生とインド洋における交易ネットワークの収縮と膨張を図とともに分析・提示した研究(Chaudhuri, 1985)などは,史実の背景にあるシステムを理解するために参照とすべきものであろう。
日本人研究者にも家島彦一のインド洋と地中海を結ぶ人と物の移動を扱った大部な著書がある(家島,2006)。
19 世紀後半から 20 世紀前半においては,アジアやアフリカでのイギリス帝国の存在は無視できないし,第二次世界大戦後のアメリカ合州国とソビエト連邦による冷戦体制の史的形成と変容もまた考慮せねばならない4)。
一方,日本-アフリカ交渉史をアフリカ史の流れで考えた場合,どのような時代区分と叙述が有益であり,どうした歴史像が描けるのであろうか。今の私には具体的な議論はできないが,いずれにせよアフリカ史のダイナミズムと深く連動した歴史像となろう。
当然,アフリカは世界史の中で孤立した存在ではなく,古代から現在に至るまで,西アジアや地中海世界,インド洋世界,ヨーロッパや南北アメリカ世界などとの結びつきを発展させてきた。
現在,トランス・ナショナルな視点からの歴史学が重要視され,「グローバル・ヒストリー」構築などの学問的動向を生んでいるが,日本-アフリカ交渉史(そしてアフリカ史自体)がそもそもトランス・ナショナルであり,トランス・オーシャン,トランス・コンチネンタルであるのは明らかである。
単なる二つの国,二つの点の関係だけでなく,日本とアフリカの間の要素,そして日本とアフリカの交渉の諸相を取り巻く外的要素を,グローバルな史的視座から捉える必要がある。
当然,アフリカは世界史の中で孤立した存在ではなく,古代から現在に至るまで,西アジアや地中海世界,インド洋世界,ヨーロッパや南北アメリカ世界などとの結びつきを発展させてきた。
現在,トランス・ナショナルな視点からの歴史学が重要視され,「グローバル・ヒストリー」構築などの学問的動向を生んでいるが,日本-アフリカ交渉史(そしてアフリカ史自体)がそもそもトランス・ナショナルであり,トランス・オーシャン,トランス・コンチネンタルであるのは明らかである。
単なる二つの国,二つの点の関係だけでなく,日本とアフリカの間の要素,そして日本とアフリカの交渉の諸相を取り巻く外的要素を,グローバルな史的視座から捉える必要がある。
4.本研究テーマのいくつかの課題
長崎のシンポジウムでの発表では,私自身がまだ検討していない,あるいは推測の域を出ない事柄も,あえて問題提起あるいは今後の課題,さらには今後の課題になりそうな話題として,日本史の時間軸に沿っていくつか触れた。
まず,その問いかけ自体に問題があるのかもしれないが,<日本人>と<アフリカ人>の出会いの嚆矢はいつ頃まで遡ることができるのかという点に言及した。現在の東南アフリカ,モザンビーク周辺のアフリカ人を伴ったイエズス会の宣教師やヨーロッパ商人らが来日した
まず,その問いかけ自体に問題があるのかもしれないが,<日本人>と<アフリカ人>の出会いの嚆矢はいつ頃まで遡ることができるのかという点に言及した。現在の東南アフリカ,モザンビーク周辺のアフリカ人を伴ったイエズス会の宣教師やヨーロッパ商人らが来日した
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16 世紀は,しばしば「日本人と西洋人の出会い」の時期であり,「日本人とアフリカ人の出会い」の始まりともされる。しかし,こうした見方は,両者の接触や出会いを,長崎はじめ日本国内に限定した場合に過ぎない。
詳細は今後の研究を待たねばならないが,おそらくは遥か以前から両者の接触や交流はあったであろう。
詳細は今後の研究を待たねばならないが,おそらくは遥か以前から両者の接触や交流はあったであろう。
たとえば7世紀初頭に始まる唐の長安(現在の西安)は,8世紀には人口 100 万人を越える国際的な大都市となっている。
筆者は近代以降とくに 1920 年代から 30 年代に研究の焦点を当ててきたので,その時代は門外漢であるが,中国の都でアフリカ大陸から来た人と日本列島から訪れた人との接触はなかったのであろうか。
筆者は近代以降とくに 1920 年代から 30 年代に研究の焦点を当ててきたので,その時代は門外漢であるが,中国の都でアフリカ大陸から来た人と日本列島から訪れた人との接触はなかったのであろうか。
16 世紀以前にも,世界中で人の移動は活発に行われており,それはアジアやアフリカでも例外ではない。
インド洋と東アジアを結ぶ東南アジアの貿易・商業拠点都市では両者の接触はあったであろう。
マラッカなど諸都市に関する記録にはどのようにあるのだろうか。
インド洋と東アジアを結ぶ東南アジアの貿易・商業拠点都市では両者の接触はあったであろう。
マラッカなど諸都市に関する記録にはどのようにあるのだろうか。
16 世紀の日本人とアフリカ人の出会いについては,イエズス会士アレッサンドロ・ヴァリニャーノから織田信長に「献上」された<黒人>のエピソードが有名である。
彼については,本能寺の変の後に明智光秀によりイエズス会に返されたといわれる。
この<黒人>の出身地や日本に至るまでの経緯,その後の消息など,もう少し詳細を知る確かな一次史料はないのだろうか。
また,日本-アフリカ交渉史の関連論考や著書に「南蛮屏風」に描かれた<黒人>たち,と紹介されることが多い「肌の色の濃い人々」は,必ずしもアフリカ大陸出身者ばかりではなく,東南アジア出身者なども多いはずである。
かつて,美術研究では屏風絵の人種同定などはされていないと聞いたが,この問題に関する科学的なアプローチはあるのだろうか。
彼については,本能寺の変の後に明智光秀によりイエズス会に返されたといわれる。
この<黒人>の出身地や日本に至るまでの経緯,その後の消息など,もう少し詳細を知る確かな一次史料はないのだろうか。
また,日本-アフリカ交渉史の関連論考や著書に「南蛮屏風」に描かれた<黒人>たち,と紹介されることが多い「肌の色の濃い人々」は,必ずしもアフリカ大陸出身者ばかりではなく,東南アジア出身者なども多いはずである。
かつて,美術研究では屏風絵の人種同定などはされていないと聞いたが,この問題に関する科学的なアプローチはあるのだろうか。
さらには筆者の 16 世紀への関心でいえば,ヨーロッパ人による日本人奴隷の売買あるいは奴隷貿易の問題がある。
当時,東南アジアからアフリカ,ポルトガル,さらにはアルゼンチンなどにまで日本人奴隷の存在が記録されているようだ。
<黒人>によって買われた日本人奴隷もいたという。
おそらく,様々な地域でアフリカ系と日系の人々の接触が起きていた。
藤田(2005)等が若干の事例や文献紹介を試みているが,こうした日本人奴隷の諸相の実態を解明できる一次史料はどれほど残されているのか,あるいは仮に現存していても入手できるのであろうか。
当時,東南アジアからアフリカ,ポルトガル,さらにはアルゼンチンなどにまで日本人奴隷の存在が記録されているようだ。
<黒人>によって買われた日本人奴隷もいたという。
おそらく,様々な地域でアフリカ系と日系の人々の接触が起きていた。
藤田(2005)等が若干の事例や文献紹介を試みているが,こうした日本人奴隷の諸相の実態を解明できる一次史料はどれほど残されているのか,あるいは仮に現存していても入手できるのであろうか。
近代に話を移すと,物理的にも心理的にも日本(人)から「遠い」と思われがちなアフリカゆえにこそ,その地への係わりに,日本の近代化の特徴を凝縮して見ることができる場合がある。日本は欧米諸国との関係を主軸に,「脱亜」と「興亜」の狭間にゆれ,アフリカとの係わりはその副産物であることが多かった。
したがって,日本-アフリカ交渉史も,政治,経済,社会,文化の側面において,必然的に当時の欧米列強をはじめ諸外国・地域との国際関係史とともに考慮されねばならない。
二つの世界大戦期においても同様である。
したがって,日本-アフリカ交渉史も,政治,経済,社会,文化の側面において,必然的に当時の欧米列強をはじめ諸外国・地域との国際関係史とともに考慮されねばならない。
二つの世界大戦期においても同様である。
戦後から現在までの時期は様々な研究課題があるが,最近の動向に目をやると,中国やインドのアフリカへの経済を軸とした積極的な関係構築の動きがあり,日本とアフリカの関係に影響を与えている。
東南アジアや日本を含めた東アジアで増加するアフリカ系の人々の「アジア体験」「日本体験」5)なども研究対象となろう。
東南アジアや日本を含めた東アジアで増加するアフリカ系の人々の「アジア体験」「日本体験」5)なども研究対象となろう。
また,日本-アフリカ交渉史の研究に際しては,同時に「日本人のアフリカ観」が論じられることも多い。
しかし,「アフリカ」という前提条件を成立させている要因を考慮する必要があろうし,現在われわれが利用できる過去の文献の言説分析の組み合わせで,どこまでのことが言えるのかという問題がある。口承・映像資料などの扱いもある。さらには,近代以降のアフリカ人や黒人に対するイメージを問題にする場合,アフリカ系アメリカ人(アメリカ黒人)の要因が重要になる。幕末に日本近海にやってきたアメリカの捕鯨船やペリーの黒船には,乗組員のなかに黒人がおり,日本人漂流者や幕府の関係者と接触・交流を持った者もいる。
日本人にとっての<アフリカ>や<アメリカ>そして<黒人>や<有色人>という,それぞれのイメージの重なりとずれを考えねばならないだろう。
しかし,「アフリカ」という前提条件を成立させている要因を考慮する必要があろうし,現在われわれが利用できる過去の文献の言説分析の組み合わせで,どこまでのことが言えるのかという問題がある。口承・映像資料などの扱いもある。さらには,近代以降のアフリカ人や黒人に対するイメージを問題にする場合,アフリカ系アメリカ人(アメリカ黒人)の要因が重要になる。幕末に日本近海にやってきたアメリカの捕鯨船やペリーの黒船には,乗組員のなかに黒人がおり,日本人漂流者や幕府の関係者と接触・交流を持った者もいる。
日本人にとっての<アフリカ>や<アメリカ>そして<黒人>や<有色人>という,それぞれのイメージの重なりとずれを考えねばならないだろう。
おわりに
最後に,日本-アフリカ交渉史を研究する意義と今後の課題についていくつか触れておきたい。
日本-アフリカ交渉史の研究は,日本史研究に「遠い」と思われがちなアフリカの視点を投げかけることになる。それは,日本史研究が陥りやすい狭い「一国史観」を解き開き,新たな日本史像の構築に寄与するであろう。
「国民の歴史」だけではなく,日本とアフリカ,そしてその間にまたがる地域に生きる人々の歴史を描くことになる。したがって,アジア史研究の発展にも貢献し,「グローバル・ヒストリー」の試み,記述に繋げることができよう。
「国民の歴史」だけではなく,日本とアフリカ,そしてその間にまたがる地域に生きる人々の歴史を描くことになる。したがって,アジア史研究の発展にも貢献し,「グローバル・ヒストリー」の試み,記述に繋げることができよう。
また日本-アフリカ交渉史の研究は,旧宗主国やアメリカ合州国との関係に偏りがちなアフリカの対外交渉史・関係論研究に,「日本」という要素を加えることができるであろう。日本(語)の史・資料によるアフリカ史像構築も含めて,アフリカ研究の視野を広げることに
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Page 5 (79) 特集:日本-アフリカ交流史の展開
なる。さらには近年,とくに蓄積が目覚しいアフリカン・ディアスポラの歴史研究にも,日本を含めたアジアというまだまだ未開拓な領域から,光を照射することができよう。
アフリカン・ディアスポラとの関連で言えば,ロンドン生まれのブラック・ブリティッシュであるポール・ギルロイ(Paul Gilroy)が「ブラック・アトランティック」として投げかけた主張(Gilroy, 1993)6),あるいは近年盛んな「環大西洋世界」といった枠組みは,アフリカン・ディアスポラ,とくに南北アメリカおよびヨーロッパにおけるアフリカ系の人々とアフリカの人々の歴史・文化に関する研究を有機的に繋げる試みを促した。
現在,それに加えて,「ブラック・パシフィック」や「ブラック・インディアン・オーシャン」といったアフリカとアジア世界を結ぶ視座の構築,理論的かつ実証的な研究が必要とされているのではないか7)。
その作業は,アジアにおけるアフリカ系ディアスポラの歴史世界を描くことであり,移動する人々のルーツとルートを繋ぐ,時空間の<接続性>の歴史叙述を含むことになろう。
現在,それに加えて,「ブラック・パシフィック」や「ブラック・インディアン・オーシャン」といったアフリカとアジア世界を結ぶ視座の構築,理論的かつ実証的な研究が必要とされているのではないか7)。
その作業は,アジアにおけるアフリカ系ディアスポラの歴史世界を描くことであり,移動する人々のルーツとルートを繋ぐ,時空間の<接続性>の歴史叙述を含むことになろう。
日本とアフリカの交渉史のみならず,日本と世界との交渉史全般に言えることであるが,陸からの視点に加えて,海からの視点は重要である。「海からの歴史」という言葉が表すように,海から見た人の移動性の考察は,アジアとアフリカの史的係わりを理解する上では欠かせない8)。
さらには,現在は人も物も空を通して運ばれることが多い。
難民も移民もヘリコプターやジャンボジェット機で移動する時代である。
現代史の舞台においては,ルートとしては点と点を結んでゆく,そして物理的距離と実際に要する時間的距離の大きな乖離を含んだ「空からの歴史」の視点による関係史像構築も必要ではないか。
昨今の情報化社会の発達においては,日本とアフリカを結ぶインターネットなどの役割や影響も今後の研究課題となろう。
さらには,現在は人も物も空を通して運ばれることが多い。
難民も移民もヘリコプターやジャンボジェット機で移動する時代である。
現代史の舞台においては,ルートとしては点と点を結んでゆく,そして物理的距離と実際に要する時間的距離の大きな乖離を含んだ「空からの歴史」の視点による関係史像構築も必要ではないか。
昨今の情報化社会の発達においては,日本とアフリカを結ぶインターネットなどの役割や影響も今後の研究課題となろう。
日本-アフリカ交渉史における研究テーマは豊富にある。学術的かつ教育・社会的意義を考えれば,まずは基本的な年表作成作業などから始めるべきであろうか。
そして,今後の研究遂行の実務的な面では,非文字資料も含めた関連史・資料や情報の収集およびアクセス,あるいは閲覧許可,そこにまつわる言葉の壁などを考慮すると,質の高い個人研究とともに,有機的な国際共同研究が求められている。
そして,歴史学だけでなく,地理学や政治学,法学,文学,社会学,文化・生態人類学,ジェンダー学など人文・社会の諸分野と協同しつつ,ときに自然科学の力も借りて,グローバルな射程のもと地道に史実を積み上げてゆく長期間の作業が必要であろう。
そして,今後の研究遂行の実務的な面では,非文字資料も含めた関連史・資料や情報の収集およびアクセス,あるいは閲覧許可,そこにまつわる言葉の壁などを考慮すると,質の高い個人研究とともに,有機的な国際共同研究が求められている。
そして,歴史学だけでなく,地理学や政治学,法学,文学,社会学,文化・生態人類学,ジェンダー学など人文・社会の諸分野と協同しつつ,ときに自然科学の力も借りて,グローバルな射程のもと地道に史実を積み上げてゆく長期間の作業が必要であろう。
注
1)本シンポジウムでの発表後,日本アフリカ学会会長である関西大学・北川勝彦先生より有益なコメントを頂いた。
また,本稿執筆に際しても再度,先生の研究室を訪れ意見をお伺いした。深く感謝したい。もちろん本稿の内容については,すべて筆者に責任がある。
また,本稿執筆に際しても再度,先生の研究室を訪れ意見をお伺いした。深く感謝したい。もちろん本稿の内容については,すべて筆者に責任がある。
2)星野芳樹については,星野(1959),星野(1978),星野(1986)などの著作のほか,星野がナイロビで発行し続けてきたニューズレターをまとめた星野(1997)などが参考になる。
3)青木(2000)および藤田(2005)については,筆者も本誌『アフリカ研究』で書評する機会があった(古川,2001,2006)。
4)Curtin(1984),Chaudhuri(1985),家島(2006)などの重厚な研究が参照されるべきであろう。川勝編(2002)も参考とした。
5)たとえば,日本では三島禎子がソニンケの人々のアジアへの移動と経済活動を論じ,ディアスポラ概念の再検討を行っている(三島,2002)。また,現在2-3万人と考えられている在日アフリカ人についても,近年,研究者やNGO関係者が本格的な研究を始めている。
6)Paul Gilroy は著書の中で,ブラック・ナショナリズムの枠組みをアメリカ中心主義から広く大西洋域に拡大し,時間軸と空間軸の両面で再構成を試みている(Gilroy, 1993)。
7)アフリカおよびアフリカ系の人々とアジアの人々を結ぶグローバルな史的視座による歴史研究が本格化されてきたのは近年である。
たとえば,Jayasuriya and Pankhurst(2003),Gomez(2005),Zeleza(2005)などを参照のこと。
アフリカ系アメリカ史におけるアジアの視座の重要性については,Horne(2006)が指摘している。
なお,同様の試みのひとつとして筆者が係わったものに『アフリカーナ』(Africana)百科事典がある。
この百科事典の編纂構想は,アフリカ系アメリカ人として米国に生まれ,「近代黒人解放運動の父」としてパンアフリカニズムなどにも多大な影響を与え,最晩年にはガーナの国籍を取得して生涯を終えたW・E・B・デュボイス(W. E. B. Du Bois)によるものである。
デュボイスは,黒人への偏見や差別に対抗するためには黒人の知性を示すための百科事典が必要と考えた。
その彼の発案によってアクラで始められた黒人百科事典プロジェクトは彼の死とともに未完に終わった。しかしその遺志を受け継ぎ,ハーバード大学W・E・B・デュボイス研究所所長のヘンリー・ルイス・ゲイツ(Henry Louis Gates, Jr.)が同僚のクワメ・アンソニー・アッピア(Kwame AnthonyAppiah)とともに編集責任者となり,ナイジェリアのノーベル文学賞作家ウォレ・ショインカ(Wole Soyinka)をプロジェクト顧問とし,1999 年に 1 巻本の百科事典(Appiah andGates, 1999)を完成させた。
しかし,この事典については画期的な出版という評価の一方で,索引の不備などにくわえて,何よりも項目がアフリカ系アメリカに偏りすぎているという批判がでた。その後,2005 年刊行の増補改定版(5巻本)では「黒人とアジア人の関係」の項目(Furukawa, 2005)が取り入れられた。ただし同項に関して編集部が設定したのは,「黒人とアジアの人々の関係を,古代から現在まで概観し,
たとえば,Jayasuriya and Pankhurst(2003),Gomez(2005),Zeleza(2005)などを参照のこと。
アフリカ系アメリカ史におけるアジアの視座の重要性については,Horne(2006)が指摘している。
なお,同様の試みのひとつとして筆者が係わったものに『アフリカーナ』(Africana)百科事典がある。
この百科事典の編纂構想は,アフリカ系アメリカ人として米国に生まれ,「近代黒人解放運動の父」としてパンアフリカニズムなどにも多大な影響を与え,最晩年にはガーナの国籍を取得して生涯を終えたW・E・B・デュボイス(W. E. B. Du Bois)によるものである。
デュボイスは,黒人への偏見や差別に対抗するためには黒人の知性を示すための百科事典が必要と考えた。
その彼の発案によってアクラで始められた黒人百科事典プロジェクトは彼の死とともに未完に終わった。しかしその遺志を受け継ぎ,ハーバード大学W・E・B・デュボイス研究所所長のヘンリー・ルイス・ゲイツ(Henry Louis Gates, Jr.)が同僚のクワメ・アンソニー・アッピア(Kwame AnthonyAppiah)とともに編集責任者となり,ナイジェリアのノーベル文学賞作家ウォレ・ショインカ(Wole Soyinka)をプロジェクト顧問とし,1999 年に 1 巻本の百科事典(Appiah andGates, 1999)を完成させた。
しかし,この事典については画期的な出版という評価の一方で,索引の不備などにくわえて,何よりも項目がアフリカ系アメリカに偏りすぎているという批判がでた。その後,2005 年刊行の増補改定版(5巻本)では「黒人とアジア人の関係」の項目(Furukawa, 2005)が取り入れられた。ただし同項に関して編集部が設定したのは,「黒人とアジアの人々の関係を,古代から現在まで概観し,
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21 世紀への展望も付あわせて付す」という,限られたスペースに比してあまりに大きなテーマであった。このテーマでは<黒人>や<アジア人>の多様性の欠如が問題となるが,これまでになかったアジアに関する項目が設けられたこと自体をまず評価すべきであろうか。
8)北川勝彦は「アジア史とアフリカ史の研究は,西洋中心史観の相対化という点では共通して『リオリエント』をめざしているのかもしれない。今は,海洋アジアと日本から近代アフリカ史を捉え返す好機が訪れているのかもしれない」と述べている(北川,2002)。
参考文献
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青木澄夫(1993)『アフリカに渡った日本人』,時事通信社。
青木澄夫(2000)『日本人のアフリカ「発見」』,山川出版社。
Appiah, Kwame Anthony and Henry Louis Gates, Jr. eds., (1999)
Africana: The Encyclopedia of the African and African AmericanExperience, New York, Basic Civitas.
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古川哲史(2001)「書評:青木澄夫『日本人のアフリカ「発見」』」,『アフリカ研究』59:115-116.
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岡倉登志・北川勝彦(1993)『日本-アフリカ交流史――明治期から第二次世界大戦期まで』,同文舘 .
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特集:日本-アフリカ交流史の展開
(Summary)
Historical Studies of Japanese-African Relations: Some Issues and Prospects
Furukawa Tetsushi
Otani University
This paper is primarily based on my presentation“Historical Studies of Japanese–African Relations:Some Issues and Prospects” at the symposium of the44th annual meeting of the Japan Association for Afri-can Studies, which was held in Nagasaki in May, 2007.
Historical relations between Japan and Africa have beenstudies by some scholars, but a number of importanttopics have not been examined yet.
For instance, Japa-nese scholars have tended to see the relations within thecontext of national history; thus, early contacts betweenJapanese and Africans outside the land of Japan beforethe 16th century have not been adequately known evento academics.
This paper presents some significantaspects to be further explored in historical studies ofJapanese-African relations.
It also states that historicalstudies, as well as studies on current issues in Japanese-African relations, provide Japanese, Asian, African,and world history with new and global perspectives.
Historical relations between Japan and Africa have beenstudies by some scholars, but a number of importanttopics have not been examined yet.
For instance, Japa-nese scholars have tended to see the relations within thecontext of national history; thus, early contacts betweenJapanese and Africans outside the land of Japan beforethe 16th century have not been adequately known evento academics.
This paper presents some significantaspects to be further explored in historical studies ofJapanese-African relations.
It also states that historicalstudies, as well as studies on current issues in Japanese-African relations, provide Japanese, Asian, African,and world history with new and global perspectives.
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以上