ノアの箱舟を創ろう Let us Create the Super Ocean-Floating-Structures such as the Noah's ark.

ノアの箱舟を創ろう Let us Create the Super Ocean - Floating - Structures such as the Noah's ark.

Tuesday, July 14, 2009

浮体の復元性


【艦船の復原性】

 【出展引用リンク】:
       http://www5f.biglobe.ne.jp/~Tan-Lee/modo/gijutu/fukugen.html


【引用始め】以下の通り。
1.初期復原力
 艦船の重量は水の浮力によって支えられ、その浮力の中心点を浮心と呼ぶ。一般的に船の重心は浮心よりも上にあり、重心と浮心が同一垂直線上にあれば船は安定している。
 図1に示すように船体が傾くと水中に没している部分の船体形状が変わるので、最初の浮心B0は新しい浮心Bに移動する。この時船の重心位置は変わらないので、重力による下向きの力の作用線と、浮力による上向きの力の作用線とがずれ、モーメントが発生する。
 重心がGにあれば船を元に戻すようなモーメントが発生し、GZを復原挺と呼ぶ。GZに船の重量を乗じたものが復原モーメントで、これを初期復原力と呼ぶ。船の重心位置が高くなると復原挺はG1Z1と小さくなり、復原モーメントも小さくなって復原力は低下する。更に重心が上がってG2の位置になれば、発生するモーメントは逆向きとなり、船を転覆させるようなモーメントとなる。
 最初の浮力作用線と傾斜後の浮力作用線との交点Mはメタセンターと呼ばれ、傾斜角度が小さい場合には一定となる。重心とメタセンターとの距離GMをメタセンター高さと呼び、設計の初期段階では復原力の目安としている。
 図示はしていないが、GM値が大きくなればGZも大きくなることは容易に理解できると思う。GMを大きくするためには、Mを上げる・Gを下げるの2つが考えられるが、Mの位置は水没部の船体形状で定まるので、Mを上げるためには幅を広げる必要がある。安易な幅の増大は推進抵抗や船体重量の増加を招くので、出来る限りGを下げる方向で設計を進めるのが一般的である。
 GM値の増加は復原性能上は有利であるが、GMが過大になると今度は動揺周期が短くなって乗り心地は悪くなってしまう。特に軍艦の場合にはあまり動揺周期が短くなると砲の照準が困難になるので、適切なGM値を保っておく必要がある。

2.動復原力

 船体の傾斜が大きくなるにつれてGZの値も大きくなっていくが、概ね乾舷が水没する付近を境として減少を始める。更に傾斜が進めば復原挺GZは0となり、復原力は失われる。この時の傾斜角度を復原力消失角と言い、艦艇の場合は90度前後となるものが多い。ただしこれは荷崩れ等による重心の移動がなく、静かに船を傾けた場合の値である。
 図2に示すのは復原力曲線と呼ばれるもので、船体が傾いた時の復原挺の大きさを表している。D・D1の曲線は、図1において上甲板の高さの異なる2つの船型D・D1に対応している。上甲板が水没するまでは同じ曲線を描いているが、D1の船型ではGZの減少が早く始まり、復原力範囲が小さくなっている様子が分かると思う。
 左側の曲線はGM値が大きく、乾舷が低い場合の1例である。GMが大きいのでGZの増加も著しいが、乾舷が早く水没してしまえば復原力の喪失が早まる場合もあることを示している。実艦ではこれほど極端ではないが、GMの値が大きい場合でも、必ずしも復原性範囲が大きいとは限らないことを知って頂きたい。
 復原挺GZは静復原力と呼ばれ、これに対してその角度まで傾斜させるのに必要な仕事量を動復原力と呼ぶ。図2において復原力曲線で囲まれた部分は船を転覆させるのに必要な仕事量を示しており、この部分が大きいほど転覆しにくいと考えて良い。
 艦艇を転覆させる要素で大きいのは風であり、風速が大きいほど船体を傾斜させる力も大きくなる。船を正横から見た時の投影面積を風圧側面積といい、風圧側面積が大きくなると風の影響を受けやすくなる。側面から風を受けた船は反対側に傾き、船を傾けようとする力と復原力とが釣り合った所で止まる。
 現在の艦艇では、定められた風速の風を受けた時にどの程度傾くかを計算し、そこから転覆するまでにどれくらい余裕があるかを復原力の基準としている。風と言うものは常に同じ速さで吹いているのではなく、時として激しい突風を伴うことがある。突風は一時的なものなので、定常風よりも大きな値を用いて別の基準を定めてある。
 戦前の駆逐艦は重心を下げ、風圧側面積を小さくする努力を払った反面、乾舷はそれ程大きくなかった。戦後の駆逐艦は風圧側面積が大きいので一見復原性が劣るようにも見受けられるが、乾舷が大きいので十分な復原力を持っているのである。

3.その他

 艦艇の場合、戦闘によって損傷を受けた時の復原性も考慮しておかなければならない。水線下に損傷を受けて片舷だけ浸水すると傾斜が大きくなるので、小型艦の場合には縦方向に水密隔壁を設けることはない。しかし両舷対称に浸水した場合でも、その区画は自由水面となってしまうので復原力は発生しない。船体中央部での損傷は大量の浸水を招き、乾舷の低下と自由水面の影響で大きく復原力が低下する。艦艇の場合には適切に水密横隔壁を設けて浸水量を局限し、予備浮力と復元性を確保している。
 水線上に被弾した場合には浸水はしない場合もあるが、火災が発生すれば消火しなければならない。艦船の消火活動で注意しなければならないのは、放水すると同時に排水もしなければならないことである。排水を怠ると放水された水は自由水となり、荷崩れ状態となって重心上昇と同様の効果をもたらす(図1において、Gが右に移動すればGZが小さくなることが分かると思う)。実例としても、消火活動を行っていた巨大な客船が転覆した例がある。
 今まで述べてきたのは水面が水平な場合であるが、水面が傾斜している場合には状況は更に悪くなる。浮力の影響だけで船体が傾いてしまうので、水平面の場合よりも復原力は遥かに低下する。通常艦船は風の吹いてくる方向に船首を向けるので、このような状態に陥ることはない。しかしヨット等帆走船の場合は、回頭する際に一時的にこのような状態となるので要注意である。
 潜水艦の場合は、浮上している状態では一般艦船と同様である。潜水している場合には重心が浮心より下にあるので、極めて安定している。水上航行から潜航に移る場合は、重心と浮心とが近付いていき、一時的に復原挺が0となる状態がある。この状態が長く続けば危険であるが、短時間で安定状態に移るので大きな問題とはならない。

4.復原性の改善

 復原性が不十分な艦船の復原性を改善する場合、先ず最初に検討するのは重心の降下であり、風圧側面積の減少である。それでも不十分な場合には、船幅の増大を図るのが一般的である。しかし復原性に関して中途半端な知識を持った人の中には、GM値を上げさえすれば改善されると考えている人もいるようなので、艦船の復原性に関して補足説明をすることとした。

 復原性の改善でしばしば引き合いに出されるのは、旧海軍における「千鳥」型水雷艇の例であろう。「千鳥」型は計画当初から異常に兵装重量の大きな船であったが、予算の関係で排水量だけが減少させられた結果、更に兵装重量の配分比が大きな船となってしまった。しかも実際の兵装重量は計画時の見積もりよりも増加してしまったので、元々高かった重心の上昇に拍車をかける状況となった。このような悪条件が重なって、「千鳥」型は船体の割りに極めて重心の高い船となってしまったのである。

 艦船の復原性を確認する目安の一つに、メタセンター高さ(GM)がある。GM値が小さいと復原梃も小さくなり、復原モーメントが小さくなって復原性は悪化する。GM値を大きくするためには重心を下げるか、幅を広げてメタセンター(M)を上げる方法とがある。構造が複雑な艦艇の場合は幅を広げる方法は大工事となるので、安易な方法としてバルジの装着によってGMを確保する場合がある。しかし水線付近に装着したバルジは初期メタセンターを高くはするが、復原性能上は余り効果は無い。
 右の図は復原力が発生する仕組みを表したものであるが、船体を傾けているので見慣れなていないと見難いかも知れない。(W0-L0)は直立状態の喫水線で、(W1-L1)(W2-L2)は船体が傾いた時の喫水線である。船体が(W1-L1)まで傾いた時、船体中心から右側の縦線の部分は水中に没し、左側の部分は水中から空中に浮かび上がることとなる。この結果右側では上向きの力が発生し、逆に左側では下向きの力が発生し、船を元の鉛直状態に戻そうとする、復原モーメントが発生する。バルジを装着した場合には縦線部分に黒い部分の力が加わるので、更に復原モーメントが大きくなることが理解できると思う。
 図のBは傾斜後の浮心の位置で、B1はバルジを装着した場合の浮心の位置である。バルジの分だけ浮心の移動が大きくなり、GM値が大きくなる様子が理解できると思う。B2は更に傾斜して喫水線が(W2-L2)になった時の浮心位置である。バルジが完全に水中に没してしまうと、復原力の増加は元の船体だけに頼ることとなり、バルジの効果が消えてしまったことに注目していただきたい。このようなバルジの装着では初期復原力を増すことは出来ても、復原力範囲を増加させる効果は殆ど無いのである。なお図では何れの場合も重力・浮力の作用線を平行に書いているが、これは図を見易くするためであり、実際には喫水線に垂直に働くものである。

 このようなことを踏まえ、「千鳥」型では上甲板にまで達するようにバルジを延長して装着したのであるが、それでも十分な復原力は得られなかった。
 右の図において、B1は船が幅1の時の傾斜後の浮心位置、そしてB2は幅2に広がった場合の浮心位置である。幅の拡大によってメタセンター高さはGM1からGM2へと増大するが、重心位置がG2の位置に上昇すれば、メタセンター高さはG2M2と減少してしまう。その結果、復原梃G2Z2が減少する様子も分かることと思う。
 更に幅を大きくして行けば復原梃を大きくすることも出来るが、排水量は更に増加し、速力は減少してしまうことになる。また、深さがそのままで幅を広げただけでは、図からも分かるように上甲板の水没が早まることになるので、最大復原梃を発生する傾斜角も小さくなり、復原力消失角も小さくなることが予想される。2項の動復原力で説明した、図2のDとD1曲線の関係と同様と思えば分かり易いだろう。単に幅を広げるのではなく、乾舷を確保することも必要なのである。
 重心の上昇が僅かであれば幅の拡大で復原梃が大きくなるので、たとえ復原力消失角が小さくても、動的復原力は増大する場合もありうる。しかし重心の上昇が大きなものであれば復原梃は減少するか、大きくなったとしてもその増加量は僅かなものであり、復原力消失角及び動的復原力の双方が減少する結果は避けられない。
 「友鶴」の転覆後、復原性に対して更に見直しを図ることとなったのであるが、結局は過大であった兵装の減少、そしてバラストの搭載により、重心を降下させることとなったのである。重心を下げればGMが大きくなって安定性は増すのだが、GMが過大であると今度は動揺周期が短くなり過ぎて、乗り心地も悪く、砲の照準が困難な船となってしまう。そこで増設したバルジを撤去し、オリジナルの船型に戻して適切なGM値が得られるように改善された。「千鳥」型の場合には幅の拡大で初期GM値を上げることよりも、兵装を減らして重心を下げることの方が、より効果的だったのである。ただし排水量700tの船に100t近いバラストの搭載は、どう見ても異常な値であると言わざるを得ない。

 なお兵装の減少や、艦橋の小型化等によって風圧側面積が減少したことも、復原性の向上には多いに役立っている。風圧側面積が減少すれば風によって船を転覆させようとするモーメントが減少するので、同じ復原力曲線を持った船でも、動的復原力は向上するのである。
 現在の防衛庁基準では、定められた風速の定常風の中での動的復原力、そしてより大きな風速の突風を受けた時の復原力について基準が定められている。しかし戦前の艦艇においては、まだそこまで動的復原力に関する研究が進んでいなかったのである。

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Study on the strength evaluation of an ultra-large floating structure

【Study on the strength evaluation of an ultra-large floating structure 】
 超大型浮体式海洋構造物の強度評価
【出展引用】 http://airex.tksc.jaxa.jp/pl/dr/AA0001166001/en


Study on the strength evaluation of an ultra-large floating structure

超大型浮体式海洋構造物の強度評価
村岸 治 1 吉川 孝男 2 池渕 哲朗 3 佐野 淳 4 高坂 明 5 佐岡 俊次郎 6
Muragishi, Osamu 1 Yoshikawa, Takao 2 Ikebuchi, Tetsuro 3 Sano, Atsushi 4 Kosaka, Akira 5 Saoka, Shunjiro 6
Number of Authors : 06

1 川崎重工業 明石技術研究所 強度研究部 2 川崎重工業 明石技術研究所 強度研究部 3 川崎重工業 明石技術研究所 流体技術研究部 4 川崎重工業 明石技術研究所 流体技術研究部 5 川崎重工業 船舶事業本部 技術室 基本設計部 6 川重テクノサービス
1 Kawasaki Heavy Industries Ltd Strength Research Department, Akashi Technical Institute 2 Kawasaki Heavy Industries Ltd Strength Research Department, Akashi Technical Institute 3 Kawasaki Heavy Industries Ltd Fluid Dynamics Research Department, Akashi Technical Institute 4 Kawasaki Heavy Industries Ltd Fluid Dynamics Research Department, Akashi Technical Institute 5 Kawasaki Heavy Industries Ltd Initial Design Department, Central Technical Office, Ship Group 6 Kawaju Techno Service Co Ltd

language:Japanese

■Source Publication Title
川崎重工技報
(第135号)

Kawasaki Technical Review
(No.135) , pp.2-8
ISSN:ISSN 0387-7906

■publisher
川崎重工業
Kawasaki Heavy Industries Ltd.
Publication Date:19971020

■Description
超大型浮体式海洋構造物(ULFS)の深さと喫水は、長さと幅に比較して非常に小さい。このため、波浪その他の負荷に対するULFSの応答を推定するためにはULFSの弾性を考慮する必要がある。本論文では、まず、曳航中の波浪荷重と圧力を推定し、曳航が許容される波浪条件を水槽試験結果を用いて決定した。次いで、スラミングが発生する条件およびスラミングによる衝撃圧の予測値を実験結果から求めた。最後に、航空機やエンジンの落下衝突に起因するULFSへの構造的損傷を数値シミュレーションにより検討した。
The depth and the draft of the Ultra-Large Floating Structure (ULFS) are very small compared with its length and width. Because of this, the elasticity of the ULFS must be considered to estimate the response of the ULFS against the wave and other loads. In this paper, firstly, the wave exiting forces and pressure under towing were estimated and the allowable wave condition for towing were determined using the tank test results. Secondly, the condition under which slamming occurs and the prediction of impact pressure due to slamming were obtained from the experiment results. Finally, the structural damage to the ULFS due to airplane and engine impact was investigated by numerical simulation.

Document Number AA0001166001
Copyright Indicator Copyright
Subject Category Code JA 3948
Total Page 00007
Document Type Journal Article
SHI-NO AA0001166
KIJ-NO 001
Format Received JA HCMF
Uncontrolled Index Term JA 超大型浮体式構造物
構造弾性
波浪荷重
波浪縦曲げモーメント
曳航抵抗
スラミング衝撃圧
曳航速度
航空機衝突
構造的損傷
有義波高
Identifiers - Uncontrolled Index Term ultra large floating structure
structural elasticity
wave exiting force
wave bending moment
towing resistance
slamming pressure
towing speed
airplane impact
structural damage
significant wave height

PermaLink : http://airex.tksc.jaxa.jp/pl/dr/AA0001166001/en
■Full Text
Total Page:00007




Copyright 2009 Japan Aerospace Exploration Agency

太陽黒点とは?:太陽黒点:「復活」の兆し+スパコンで再現

【太陽黒点とは?】

太陽黒点:「復活」の兆し+スパコンで再現

【出展引用リンク】: http://wiredvision.jp/news/200906/2009062323.html

【出展引用以下の通り】

Alexis Madrigal

Image credit (以下の動画も): Matthias Rempel、米国大気研究センター(NCAR)/大気研究大学連合(UCAR)

太陽黒点の完全なシミュレーションが初めて作成された。

太陽の磁場によって発生するとされる黒点が、新しい76テラフロップスのスーパーコンピューターを使って、これまでで最も詳細に再現されたのだ。

この美しい仮想の黒点は、太陽の構造に関する新たな観測データを基に作られたもの。シミュレーションでは、約4万9900キロメートル×9万9800キロメートル四方、奥行き約6000キロメートルの領域を再現している(文末の動画参照)。

作成にあたった米国大気研究センター(NCAR)の研究チームは、環境中の粒子の相互作用を記述した多くの計算式を用いて、1つの黒点の動きを、18億の細かい箇所に分けて計算した。[論文はScienceに掲載。使用されたスパコンは、NCARに設置された米IBM社製の通称『bluefire』]

黒点は、およそ11年周期で増減している。[太陽活動が活発になると、]膨大な量のプラズマを太陽系に放出し、時に地球の通信や電力インフラを混乱させる(日本語版記事)。[太陽の活動が活発になると黒点が出現し、大きな黒点の周囲でフレアが発生する。なお、黒点の温度が低いのは、そこに強い磁場があるためで、この磁場により、太陽の表面から出てくる熱や光が妨げられている]

黒点の研究は100年前から行なわれているが、より詳細な観察とコンピューターの計算能力の発達によって、黒点を本格的に理解することが可能になったのはつい最近のことだ。

そしてこの1年間は、黒点の数が異常に少ない理由を説明しようと研究者たちは試みてきた。通常の周期が乱れていると考えられ、もしそうならば太陽内部のダイナミクスについて、大幅な再考が必要となるはずだった。

ところが6月中旬、米国立太陽天文台の研究チームが、米国天文学会(ASS)の会議の記者会見において、黒点が少ない原因を特定したと発表した。それは、「ジェット気流」の遅れだ。

[ここでいうジェット気流とは、太陽内部を流れる「帯状流」(プラズマの流れ)のこと。このジェット気流は太陽の極周辺で11年ごとに発生し、約17年かけて赤道に近づいていくが、緯度22度付近まで移動したときに黒点が発生するという]

研究チームによると、ここ2、3年、ジェット気流は以前に比べてゆっくりとしたペースで赤道の方へ向かっていたが、それがこのほどようやく緯度22度付近に到達したため、今後は黒点の活動も活発化するはずだという。

[NASAの記事によると、例外的に活動極小期が長引いてきたが、この数か月間で活性化の兆しがあり、小さな黒点や「原始的な」黒点が見え始め、出現頻度も増している。赤道に向かって表面を伝うプラズマの流れが強くなっており、太陽の電波放射が上昇しているという。次のピークは2013年と予測されている]

「ジェット気流が黒点の発生とどう関連しているのかは、依然として分かっていない」と、米航空宇宙局(NASA)ゴダード宇宙飛行センター(GSFC)のDean Pesnell氏は話す。「ジェット気流自体がどのように発生するのかも、完全には分かっていない」

最初に紹介した黒点のシミュレーションモデルは、太陽の活動をより深く理解するために役立つだろう。

以下の動画は、黒点を形成する複雑な磁場をコンピューター・シミュレーションで再現したもの。上のモノクロ画像は太陽の表面で、黒い部分と白い部分はそれぞれ負極の黒点と正極の黒点とを表わしている。下のカラーの画像は、太陽の表面下のシミュレーションだ。色が明るいほど、磁場の強さが大きいことを表わす。



[日本語版:ガリレオ-高橋朋子]

WIRED NEWS 原文(English)


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どの程度の精度なのかしら

umiusi452009年6月24日 23:35:15

やーキモイよw

Fuyu762009年6月24日 20:03:33

うお、すごい

furasuke212009年6月24日 03:29:21

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【以上引用終わり】


【参考リンク】

1:太陽黒点:wikipedia
     http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E9%99%BD%E9%BB%92%E7%82%B9

 2:新しい周期の太陽活動を示す太陽黒点を観測
     http://www.astroarts.co.jp/news/2008/01/21sunspot/index-j.shtml


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【太陽光;レザー装置を利用して、海水淡水化の実現をめざす研究】の紹介

【太陽光;レザー装置を利用して、海水淡水化の実現をめざす研究】
  【出展リンク】 http://wiredvision.jp/blog/yamaji/

          山路達也の「エコ技術研究者に訊く」           

世界は、石油文明からマグネシウム文明へ【 1/3 ~ 3/3 】

【出展引用リンク】

   1/3 :http://wiredvision.jp/blog/yamaji/200907/200907031401.html

   2/3 :http://wiredvision.jp/blog/yamaji/200907/200907031402.html

   3/3 :http://wiredvision.jp/blog/yamaji/200907/200907031403.html


【1/3】以下の通り

 化石燃料の枯渇が迫っているが、自然エネルギーだけで今の世界経済を支えることはできない。理想のエネルギーと言われる核融合への道もまだ遠い……。だが今、エネルギーや資源の問題を一挙に解決するかもしれない研究が進んでいる。その鍵はマグネシウム。海水に無尽蔵に含まれるマグネシウムを取り出し、エネルギー源として利用。生じた酸化マグネシウムは、太陽光レーザーを使ってマグネシウムに精錬する。この壮大な計画に取り組むのが、東京工業大学の矢部孝教授である。
マグネシウムを燃やして、エネルギー源にする

 金属マグネシウムは、携帯電話を始めとする電子機器や飛行機、自動車などで広く使われる。
──次世代エネルギーとして、マグネシウムを用いる研究を進めているとお聞きしました。マグネシウムがよく燃えるのは知られていますが、なぜ今までエネルギー源として使われてこなかったのでしょうか?

 ほとんどの金属は粉末にすればよく燃えて、燃料として使うことができます。昔から、金属燃料エンジンの研究はどの自動車会社もやってきていますし、実際にマグネシウムを配合したロケット燃料も作られています。

 では、なぜマグネシウムが一般的なエネルギー源として使われていないかといえば、マグネシウムを作るのに莫大なエネルギーをかけなければならないからです。触媒を使う今までの技術だと、マグネシウム1トンを作るために石炭が10トンも必要になります。石炭の発熱量が30MJ/kg、マグネシウムは25.5MJ/kgとほぼ同じ。これでは誰もマグネシウムをエネルギー源に使うはずがありません。

 それならば、自然エネルギー、例えば太陽光を集める太陽炉を使って酸化マグネシウムや塩化マグネシウムからマグネシウムを直接精錬してはどうかということになるわけですが、これも困難でした。酸化マグネシウムからマグネシウムを精錬するには2万℃という超高温に相当するエネルギーが必要で、仮に太陽光を集めてそれだけの温度にできたとしても、炉が耐えられません。製鉄炉の耐熱温度が千数百℃ですから。

 マグネシウムをエネルギー源にできるなど、誰も考えていなかったのです。

太陽光を直接レーザーに変換する「太陽光励起レーザー」
──それなのに、なぜマグネシウムをエネルギー源にできると思われたのですか?

 きっかけになったのは、7年前です。私は30年以上レーザー核融合を研究しているのですが、それを応用して、飛行機を飛ばす実験を行いました。

──レーザー核融合と飛行機にどういう関係があるのでしょうか?

 レーザー核融合では、レーザーを使って数千万度の超高温を作り出します。レーザーがすごいのは、時間的にも空間的にもエネルギーを集中できるということ。つまり、少ないエネルギーであっても、一瞬だけ一点に集中させることで、大きな効果を得ることができるのです。私たちは、長さ5cmくらいの小さな模型飛行機に水タンクを載せ、外からレーザーを照射しました。水は一瞬で水蒸気に変わって飛行機の後方へ吹き出し、その反作用で飛行機が進みます。つまり、水蒸気ロケットができたということになります。この実験で使用したレーザーの出力はたったの5W。5Wなんて懐中電灯並みですが、レーザーにすれば模型飛行機を飛ばすこともできるのです。

 では、人が乗れるような飛行機を飛ばすには、どれだけの出力を持ったレーザーがあればよいのか。計算してみたところ、1GW(1ギガワット=100万キロワット)という答えが出ました。これは大規模発電所の出力に相当しますから、こんなレーザーを電気で作ることはできません。

 どうしたらよいかと考えた時に思い当たったのが、太陽光をそのままレーザーに変換する、太陽光励起レーザーです。1995年、我々のグループの一人、吉田國雄特任教授がクロムとネオジムからレーザー媒質を開発していました。日本のある会社はこれをさらに改良し、2005年には効率が42%のレーザー媒質を作ることに成功しました。太陽光をこのレーザー媒質に当てると、レーザー光線が出ます。



 矢部研究室が用いているレーザー媒質。これに太陽光を当てると、レーザーに変換される。

──このレーザー媒質は大量生産できるのですか?

 クロムとネオジムを混ぜて焼き固めるだけですから、大量生産するのは簡単です。

 ただ、レーザーで飛行機を飛ばすといっても、そんな実験にはどこもお金を出してくれないので、別の応用を考えました。それが次世代エネルギー、レーザーによる酸化マグネシウムの還元だったのです。もっとも、今ではこちらが本命になってしまいましたが(笑)。

(1/3 )以上

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【1/3 】以上
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

【2/3】以下の通り

海水中には無尽蔵のマグネシウムが含まれている
──マグネシウムを燃やしてエネルギーを生み出し、できた酸化マグネシウムは太陽光励起レーザーで還元して、またマグネシウムに戻すわけですね。しかし、リサイクルを綿密にやったとしても、エネルギー源になるほどの量があるのでしょうか?

この地球上には、マグネシウムが無尽蔵といってよいほどあります。海水中には石油30万年分に匹敵するマグネシウムが含まれています。

──ですが、海水からマグネシウムを取り出すにもエネルギーが必要になるでしょう?

 そう思うでしょう(笑)。ここにもう1つのポイント「淡水化」があります。

 2025年には、30億人分の淡水が不足すると言われています。最も広く使われている逆浸透膜方式で30億人分の淡水を作ったとすると、現在世界で使われている電気の半分が必要になります。

 そこで、太陽光を使った淡水化装置を作り、特許を取りました。私たちは「エレクトラ」というベンチャー企業を興し、この装置を海外に販売しています。現在、アジアの二カ国から国家レベルの発注が来ています。

──太陽光を使って淡水化するということは、光を集めて水を蒸発させるということですか?

そういうことです。しかし、単純に熱を加えて蒸発させようとすると大量のエネルギーを消費します。

みんな、水は100℃にならないと蒸発しないと思っていますが、私たちが汗をかいたら自然に乾きますね。洗濯物も自然に乾きます。

──湿度が関係しているのですか?

はい。湿度のバランスをうまく調整することで、エネルギーをほとんど使うことなく淡水を作ることができます。

 現在の逆浸透膜方式は、装置コストを1とすると、20年使った場合のランニングコストは20。

 これに対して、私たちの装置は装置自体のコストも1桁安いですし、エネルギーもほとんど必要としません。スピードも速く、1台当たり1日10トンの淡水を作れます。2Lのペットボトルなら5000本分です。

──あとには、塩やその他の物質が残るというわけですね。マグネシウムはどう取り出すのでしょう?

 淡水を取ったら、あとには塩(塩化ナトリウム)と、にがり(塩化マグネシウム)が残ります。塩とにがりを分離するのは、エネルギーが不要な昔ながらの方法を使います。

 塩化ナトリウムと塩化マグネシウムの混合物に、上から少し水を掛けると、ぽたぽたと液体がしたたってくるのですが、これがほとんど塩化マグネシウムなのです。塩化マグネシウムは塩化ナトリウムより水に溶けやすく、この性質を利用するだけで簡単に塩化マグネシウムだけを取り出せます。



 マグネシウム循環社会のイメージ。海水や砂漠の砂に含まれるマグネシウムを取り出してエネルギー源として利用。太陽光励起レーザーでふたたびマグネシウムに戻す。

 マグネシウムがエネルギー源になると、世の中はどう変わる?
──あとは、太陽光励起レーザーで塩化マグネシウムをマグネシウムに精錬するというわけですね。それでは、マグネシウムは世の中でどう使われるのでしょうか?

 まず、火力発電所です。現在の火力発電所では、石油や石炭で湯を沸かし、その蒸気でタービンを回して発電しています。マグネシウムの場合、水と反応させることで水素が発生し、この水素を燃やせば高温高圧の水蒸気が発生します。これでタービンを回して発電すればよいのです。これまでの火力発電所の設備は、タービンも含めてほとんどそのまま流用できます。発生した水素と酸素を反応させれば水になりますから、二酸化炭素も出ません。

 自動車用の燃料電池も研究が進んでいます。例えば、米国のベンチャー企業は亜鉛燃料電池で動く自動車を2003年に開発しました。この自動車は百数十kg弱の亜鉛を積み、走行距離は600kmです。マグネシウムなら亜鉛に比べて3倍のエネルギー密度がありますから、10kgあれば200kmは走れるでしょう。燃料となるマグネシウムは、コンビニで売ることを想定しています。爆発もしませんし、少々水がかかっても大丈夫です。マグネシウムの価格は現在kg当たり300〜400円ですが、太陽光励起レーザーによる精錬で価格が下がれば、マグネシウム燃料電池自動車以外はすべて消えることになるでしょう。

──マグネシウム燃料電池も水と反応させるのですか?

 火力発電の場合は水と反応させますが、燃料電池の場合は酸素と反応させます。酸素と反応させると水素が発生しないため、安全だからです。水素は軽いために自動車のどこかに貯まる可能性があり、引火すると爆発してしまいます。また、燃料電池の電極に水素が付くと、電極の性能が著しく低下します。現在の燃料電池は、高価な白金で水素を吸着しようとしていますが、それくらいなら最初から水素が発生しない反応を使えばよいのです。

 マグネシウム燃料電池の技術的課題はほとんど解決されており、今は燃料待ちの段階。マグネシウムの価格が安くなれば一挙に実用化が進むでしょう。燃料電池を使って生じた酸化マグネシウムは、やはり太陽光励起レーザーを使ってマグネシウムに精錬できます。

 400Wの太陽光励起レーザーを今年中に実現


 80Wの太陽光励起レーザーなら、ステンレス板に一瞬で穴を開けることができる。



 読書用ルーペなどにも用いられるプラスチック製フレネルレンズ。東工大のレーザー発生装置には、4㎡のフレネルレンズが使われている。
──太陽光励起レーザーを使って、いかに低コストでマグネシウムを精錬できるかにかかっているのですね。

 2007年に北海道の千歳にレーザーの実験施設を作り、実験を重ねてきました。現在4㎡のレンズで集めた太陽光をレーザー媒質に当て、80Wのレーザーを出力できています。80Wのレーザーでもステンレス板に一瞬で穴を開けるほどの威力があります。しかし、4㎡に当たる太陽光は4kWですから、80Wというのは2%の変換効率でしかなく、このままでは商用化できません。目標の出力は400Wですが、すでに目処はついており、今年中には達成できるはずです。

──5倍の出力アップをそんなに簡単に実現できるものなのですか?

まず、レーザー媒質に混ぜるクロムの割合を増やします。理論的には、これだけで変換効率を3倍にできます。

 また、太陽光励起レーザーではこういうプラスチックレンズを使っているのですが、この設計を改良します。

──えっ、こんなプラスチックレンズなんですか?

 はい、これのサイズを大きくしたものを使っています。金型でどんどん作れますから、大量生産すれば製造コストはタダみたいなものですよ。

 ただし、現在のレンズは気泡が混じっていたりして、太陽光を半分くらいしか集められていません。金型を作り直してレンズの精度を上げれば、太陽光の透過率は2倍にはなるでしょう。

 レーザー媒質とレンズの改良を合わせれば、5倍の出力アップはそれほど難しくないと考えています。
【 2/3 】以上

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【3/3】以下の通り
3/3

 太陽光励起レーザーの発生装置は1台50万円


 東工大の屋上で実験中のレーザー発生装置。上部のフレネルレンズで集めた太陽光を、中心部にあるレーザー媒質に当てる。
──酸化マグネシウムからマグネシウムを精錬するには2万℃の超高温が必要になるとおっしゃっていました。 これに耐えられる炉は実現できるのでしょうか?

 そこでレーザーの長所が発揮されます。レーザーなら、1mmのスポットだけ2万℃にするということが可能です。その周辺はすぐに冷えますから、炉全体が2万℃に耐える必要はありません。

──細いレーザー1本では、大量の精錬が難しいのでは?

 だからこそ、太陽光励起レーザーの装置をたくさん作るのです。何百台という装置を並べてレーザーを作り、各装置から光ファイバーで精錬所に伝えます。酸化マグネシウムにレーザーが当たると、0コンマ数秒でマグネシウムを精錬できます。

──レーザーの発生装置は高価になりませんか?

 現在東工大の屋上で実験装置を稼働させており、太陽の位置を自動追尾して最適な出力を得ることができます。水道用のパイプなどを利用して組み立てたら、1基当たり50万円ほどで制作できました。

──太陽光がいつもあるところでないと、精錬はできませんね。

 アリゾナやモンゴルの砂漠など、1年中雲のない地域は世界中どこにでもあります。こういう地域でマグネシウムを精錬して、日本に持ってくればよいでしょう。

 淡水化事業からスタートし、マグネシウム循環社会へ──マグネシウムの循環社会は、どういうステップを経て実現すると考えていますか?

 まずは、海水を淡水化する事業で利益を上げます。先に述べたとおり、すでに海外から淡水化装置の発注が来ており、この事業だけでも十分に利益を出せます。今後、世界の淡水ビジネスは年間150兆円規模になると言われています。

 次は、マグネシウムの精錬ですが、最初はエネルギー源としてではなく、資源としてマグネシウムを売ればよいでしょう。携帯電話のボディなど、マグネシウムの需要はいくらでもあります。マグネシウムは今1kg当たり400円と高価ですからここでも利益を得られ、そうすれば太陽光励起レーザーの装置をもっとたくさん作れるようになります。ちなみに、マグネシウムに限らず、鉄やアルミ、シリコンも、レーザーを使って同様に精錬可能です。金属産業の構造を根本的に変えてしまう可能性もあると思っています。

 そうして十分にマグネシウムの値段を下げられるようになったら、エネルギー源として、発電所や家庭、自動車に使えばよいでしょう。燃料として使った後にできる酸化マグネシウムは、太陽光励起レーザーで精錬してマグネシウムに戻します。

──これからのロードマップはどうなっていますか?

 ある外国の企業が200億円出資してくれることになり、この資金を使って今年中には沖縄の宮古島に実験施設を作ります。この施設では、海水の淡水化からレーザーによるマグネシウムの精錬まで全サイクルの実験を行います。投資を得られたので、政府からの補助金も必要なくなりました。

 マグネシウム循環社会は、2025年に実現する
──エネルギー生産から、産業利用、リサイクルまで、1つの街で完結するんですね!

 はい。宮古島の施設が成功したら、東南アジアの各所に同じような施設を作り、もっと大規模な実験を行う予定です。


 うまく行けば、2025年頃にはマグネシウムをエネルギー源とした社会を実現できるのではないでしょうか。みなさんが考えるより、早いペースで進むと思っています。

──少し前には、水素社会という言葉がもてはやされました。マグネシウムではなく、水素をエネルギー源にしてもよいのではないでしょうか?

 水素は、保管場所が問題になります。700気圧で保管すれば場所を取らないという人がいますが、700気圧に耐えられるタンクはごくごく小さいものしか作れず、結局は1気圧で保管するしかありません。日本が必要とするエネルギーをすべて水素にしたとすれば、日本中の地下が水素タンクになるでしょう。

──マグネシウム循環社会の実現可能性をどう見ていますか?

 私は30年間レーザー核融合の研究をしてきました。レーザーを出す、金属を溶かして反応させる、そうした研究はマグネシウムの精錬や淡水化にすべて活かされています。そして、吉田國雄特任教授によるレーザー媒質。こうした要素が今この時期にすべて合わさったのはとても不思議で、自分はこれをやるために生まれてきたのではないだろうかという気すらします。実験を繰り返して実証データも蓄積されており、実現には絶対的な自信がありますよ。



 研究者プロフィール

 矢部 孝(やべ たかし)

 現職は、東京工業大学・大学院理工学研究科・教授。1973年、東京工業大学工学部を卒業後、同大学助手に就任。その後、1981年に大阪大学・レーザー核融合研究センター講師、85年に同助教授、1995年には東京工業大学・教授となり現在に至る。また大学発ベンチャー「株式会社エレクトラ」の代表取締役も兼任。1999年の英国王立研究所200周年記念招待講演を行うなど、数多くの賞を受賞。現在、国際数値流体学会の名誉フェロー、計算力学国際連合の理事など。


【 3/3 】以上

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------- ------- ----- 以上出展引用終わり -----
【参考リンク1】海水淡水化;逆浸透膜 (wikipedia) :

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%86%E6%B5%B8%E9%80%8F%E8%86%9C

【参考リンク2】20年後に生き残る水資源開発を

      http://www.spc.jst.go.jp/hottopics/0907water/r0907_yabe.html 

【参考リンク2】引用開始以下の通り。

矢部 孝(東京工業大学教授、株式会社エレクトラ 代表取締役) 2009年6月5日

 我々は、株式会社エレクトラを東京工業大学の大学発ベンチャー第38号として2007年1月に設立した。現在の主な事業内容は、太陽光励起レーザーの開発、レーザーによるマグネシウム還元技術の確立、太陽光エネルギーを利用した淡水化装置の開発である。将来的にはこれらの技術が弊社の提案する再生可能エネルギーサイクル、マグネシウム社会の基幹技術として一つのサイクルを形成することになる(図1参照。参考文献 日経サイエンス2007年11月号)。これらエレクトラで開発を行っている技術のうち、本稿では、我々が開発し実用化が間近な淡水化装置について説明する。


図1マグネシウムと太陽光励起レーザーを用いたエネルギー循環システム

 水不足の問題は、人類にとって早急に解決しなければならない問題である。2025年には30億人分の水が不足すると報告されている。この30億人分の水というのは計算すると年間1.5兆トン(1日当り41億トン)となる。よってこの水不足問題の解決には、20万トン/日の淡水化プラントを20年以内という時間の制約の中で、2万基新設する必要があるということである。また仮にこのクラスの淡水化プラントが2025年までに完成したとしても、このプラントを稼働させるためには当然エネルギーが必要となる。しかし消費電力が少ないと言われている逆浸透膜淡水化プラントでさえ60気圧の圧力で駆動する必要があるため、20万トン/日クラスのプラントを稼働させるためには、多大な電力が必要となる。30億人分の水不足を解消するため、2万基の逆浸透膜淡水化プラントを稼働させると使用電力は年間9兆kW時となる。これは2002年の世界電力使用量16兆kW時の56%に相当する莫大な電力量である。

 比較的低消費電力で稼働するといわれる逆浸透膜法淡水化装置でさえこのような状況なので、現存する淡水化装置で将来の水不足問題を解決するというのは現実的ではないように思われる。水不足問題の解決のためには、建設が容易かつ低消費エネルギーで稼働可能な全く新しい淡水化装置が必要となる。

 さらには、逆浸透膜法にはいくつかの大きな欠点がある。その1つは海水中のホウ素が除去できないことである。WHOの基準では、1リットルの飲料水中のホウ素の量を0.4mg以下と定めている。これ以上では、人間の生殖能力に影響が出るからである。しかし、最新の逆浸透膜でさえ、まだ、1-3mg残存している。

 意外な問題もある。淡水装置の性能が良すぎると塩などが取れすぎて、この塩害をどうするかということも中東では問題となってきている。我々は、こうした淡水装置から出てくる塩やその他の資源を有効に利用するためのプロジェクトにも取り組んでいる。その1つが、この残存物から得られるマグネシウムの有効利用である。このマグネシウムは、太陽から直接作られた太陽光励起レーザーによって精製され、石炭の代わりとなって発電所の燃料や自動車の電池に使われる。この点については、多くの新聞や上述の日経サイエンスで紹介されているので、ここでは省略する。

 それでも結局最も大きな問題は、淡水装置を駆動する電気であることの例をここに紹介しよう。2007年5月25日のAP通信で報じられたドバイの新型淡水装置建設計画である。日産270万トンの淡水装置に対して、必要発電設備900万キロワットということである。これは、大型火力発電所9基分である。2050年までに、CO2排出を半減させようというが、後、20年後に50%のCO2排出増がありうる、淡水化装置を受け入れることはできないであろう。

 将来は、我々が提案するマグネシウム燃焼によって駆動される淡水化装置がその役割を担うであろうが、その前に、今ある技術で緊急な対策が必要である。この解決に有望なものは、太陽などの自然エネルギーを利用した淡水装置であるが、現在提案されている装置は逆浸透膜と蒸発式の混合であったり、真空を利用した蒸発方式であったりと、電気で駆動されている逆浸透膜装置の10倍以上の価格となっている。最も、逆浸透膜が20年間で使用する電力を非石油生産国の電気代で計算すると、逆浸透膜装置の10倍の価格となるので、どちらも同じといえば同じであるが。

 この問題解決のため、我々は太陽熱を利用する低消費電力かつ安価な淡水化装置を開発した。この淡水化装置は、逆浸透膜法のように高圧の状態を作り出す必要は無く、常圧で淡水を製造することが可能である。また装置を多段化し、排水による熱ロスを少なくする工夫により、低消費電力で稼働する淡水化装置となっている。

 本装置は、太陽エネルギーを利用する装置でありながら、太陽のない夜間を含め24時間運転することができ、現在、日産10トンクラスの装置の試験を行っている。今後の予定では、宮古島との協力により、2009年8月には、日産600トンのテスト装置を稼動させる予定であり、そのテストプラントと同時にある地域での実用装置を建設してゆくための予算が確保されている。現状では、世界中に早く技術を広めるために、太陽光を利用しているが、近い将来は、我々が開発した太陽光励起レーザーによって還元されるマグネシウムを石炭の代わりとする燃焼熱で淡水化が可能となるであろう。

 我々が開発中の淡水化装置は、低消費エネルギー、低コストの装置となるが、淡水化装置自体にはなんら難しい技術は必要としておらず、いわゆるローテクの塊である。新しいのはその発想である。東京工業大学の矢部研究室ではこのようなこれまでにない発想に基づく技術がたくさん存在する。しかしこれらは未だ一般的にはなじみのないものがほとんどである。そこでこれらの技術を世に広めるため、ベンチャー企業を設立することになった。これが株式会社エレクトラを立ち上げたきっかけである

 エレクトラの究極の目標はマグネシウムによる循環型社会の構築である。しかし、この目標に対して外部資金を導入するのは不可能であると考えた。我々も何度も国のプロジェクトに応募したが、すべて落選している。その理由は、「太陽電池で水を分解し、水素を作り燃料電池を使えば、もっと簡単で有望である」ということだった。しかし、水素はエネルギー密度が低すぎるので、貯蔵には向かない。100万キロワットの発電所のわずか一日分でも、1km四方で高さ10mのタンクが必要である。高圧で大型のタンクが作れないからである。これは、自動車にも言える。確かに700気圧の小さな自動車用タンクは作れるかもしれないが、それに注入するために、全国に水素タンクを作るとどれくらい大きなタンクが必要かを考えた人がいない。メタンやメタノールを改質して水素を作るという案もあるが、そのときにCO2が発生するとは誰も言わない。

 こうした無理解な審査員を相手にいくら頑張っても意味がないということで、すべて自己資金でプロジェクトを進めることを決断した。これがエレクトラを設立した理由である。その資金で2007年7月に千歳に太陽光励起レーザー施設を建設し、現在、世界最高の効率を実現し、太陽光励起レーザーによってステンレス板を切断できるまでとなっている。資金さえあれば、一年以内に、必要なレーザー性能を達成できるであろう。しかし、これだけでマグネシウム社会を構築するまでの資金を確保することは困難なので、まずは、短期間で収入を上げる道を模索したのである。そこで生まれたのが、新型淡水化装置である。これを呼び水にして投資家の外部資金を獲得することに成功し、宮古島プロジェクトが始まろうとしている。


図2 千歳市に建設された4m2レーザー。一基あたり1kWのレーザー出力を目指す


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PROFILE

矢部孝(やべたかし):東京工業大学教授、株式会社エレクトラ代表取締役。

 1950年1月生まれ、1972年東京工業大学工学部卒業、1972年東京工業大学助手、1981年大阪大学講師、その後助教授を経て、1995年より東京工業大学教授、1980年東京工業大学 工学博士(論文博士)。

 大阪大学でレーザー核融合研究に従事し、その時代に考案した計算手法CIP法は世界中に広まり、参照数1200を超えている。この業績により1999年には、英国王立研究所設立200周年記念講演を行った。

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【以上引用終わり】

【参考リンク】:マグネシウム:wikipedia :

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%B0%E3%83%8D%E3%82%B7%E3%82%A6%E3%83%A0

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不足する水と、「水の私有化」の危険性

【不足する水と、「水の私有化」の危険性】
    2009年7月 6日

【出展リンク】:http://wiredvision.jp/news/200907/2009070623.html

全世界で真水の供給が近いうちに危機的に不足すると科学者たちが警告し、水の私有に向けた争奪戦を企業が繰り広げる中、水は基本的人権と考えるべきだとする声が一部の研究者や活動家からあがっている。

6月30日付けの『Public Library of Science Medicine』で編集者たちが綴った小論には、「健康に不可欠な、きれいな水を手に入れることが脅かされている」と記されている。

この考えは、知識人たちの間でも一貫して支持されている。水は、国連の世界人権宣言第25条に登場する「食糧」とまったく同様に、生きるために欠かせないものだというのだ。

現在、世界保健機関(WHO)では、世界の疾病の多くが水不足や不適切な水によるものであり、全死亡件数の6%は、安全な飲み水と衛生状態の改善を世界中で確保することによって防ぐことができると推測している。また、国連によれば、基礎的な水の需要を満たせない人は2025年までに28億人にのぼると考えられている。

もちろん、権利を宣言するのはそれを実行するよりもはるかに簡単だ。飢えを終結させるという国連の誓いにもかかわらず、10億人近い人々には食べるものが十分にない。水不足に苦しむ人々の数を2015年までに半減させるという国連の約束も、実現の見込みはサハラ砂漠で雪に降られるようなものだ。しかし、『Public Library of Science Medicine』の編集者たちが指摘しているように、水を人権の1つと考えることによって、少なくとも「水の私有化」に対処する枠組みができるだろう。

過去20年にわたり、水道事業は、国際通貨基金(IMF)と世界貿易機関(WTO)の支援を受ける形で、わずか3社が支配する5000億ドル規模の世界産業に成長している。[3社とは「ウォーターバロン」(水男爵)とも呼ばれる、仏Veolia Environnement社、仏Suez社、英Thames Water社(元は独RWE社の子会社、現在は豪Kemble Water Limited社の子会社)。水道施設の設計・構築から運転維持管理、代金回収、下水処理までをトータルで受託する。世界の水道利用者の5%以上が民間水道を利用しており、その人口は10年間に12倍になっているが、そのうちの5割を仏の2社が寡占状態。Veolia(ヴェオリア)社は日本でも子会社を開設、3件受注したと報道されている]

非営利団体のFood and Water Watchが発表した報告によると、水道の私営化は、米国でも開発途上国でも大きな失敗になっているという。

国連総会議長の水問題に関する上級アドバイザーを務めるMaude Barlow氏は、昨年発表された小論の中で、「このモデルは失敗であることがわかった」と述べている。「水道民営化が残した負の遺産には、貧しい人々への供給停止、高い水道料金、サービス低下、約束不履行、そして汚染などがあげられる」

[水道民営化の問題としては、利潤追求が第一目標になり、収益が再投資されず株主配当や内部留保に回る/貧困層や地方部は取り残される/コスト削減で水質などに問題、等が上げられる。事業に失敗して企業が撤退した国も多く、撤退の仕方も問題になっている。

また、「水の私有化」に関する他の問題としては、ボトルウォーター事業のために水源が買収され、大量に水がくみ上げられることで水源が枯渇するという問題が各国で問題になっている。

Maude Barlow氏には以下のような訳書がある。『ウォーター・ビジネス――世界の水資源・水道民営化・水処理技術・ボトルウォーターをめぐる壮絶なる戦い』(邦訳作品社)、『「水」戦争の世紀』(集英社新書)]

参考論文: “Clean Water Should Be Recognized as a Human Right.” By the PLoS Medicine Editors. Public Library of Science Medicine, June 30, 2009.

[日本語版:ガリレオ-平井眞弓/合原弘子]

WIRED NEWS 原文(English)

私の尊敬する恩師・星野芳樹氏の社会・政治家の貴重な逆境経験と星野氏の思い出とその活動に係わる人々の人生経験を紹介致します。


ナイロビ便り 星野芳樹著

アフリカ人婦人と談笑する星野芳樹











1909年東京下谷に生まれる。静岡高校在学中に左翼運動に加わり7年間獄中生活を送る。刑期満了後上海に渡り中国人子弟のために容海中学校を創設、終戦まで経営。帰国後、第1期参議院議員に当選。シベリア抑留者帰国促進運動を展開。1954年より静岡新聞論説委員。海外特派員としてアジア、アフリカ各地を取材。1974年、同新聞を定年退職後、妻巴とケニア、ナイロビに日本アフリカ文化交流協会「ケニヤスワヒリ語学院」を設立、1988年病に倒れるまで日本人留学生にスワヒリ語やアフリカ文化を、又現地のケニア人や在留外国人には日本語や英語を教えた。1992年5月群馬県沼田にて死去83才。



ナイロビ便り 星野芳樹著

アフリカ諸国の夜明け前

1974年、ケニアナイロビに居をかまえ「ケニヤスワヒリ語学院」を運営した著者が、真のアフリカを伝えたいと学院留学生の家族や日本の知人に当てて送った通信文「ナイロビ通信」。月刊で約11年119号を発行。

独立気運最盛期のアフリカの政情や動向をリアルタイムに伝えると共にアフリカの自然や風俗、日常などが愛情に満ちた口調で語られている。

当初200部ほどだったものが800部まで至るが原稿作成から印刷、発送のための宛名書きまで全て一人でこなしている。

本書では「ナイロビだより」(全119号)の他に、アフリカ駐在の日本人向けに発行された「アフリカ古人今人」(全87号)、静岡新聞海外特派員時代掲載されたアフリカ関連記事(抜粋)も収録



参考リンク
http://www.suikodo.com/job/book.html 

:現在はリンクできなくなっています。


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社会・政治家の逆境経験と私の尊敬する恩師・星野芳樹氏の思い出とその活動に係わる人々の人生経験を紹介致します。

1.【恩師 星野芳樹氏の忘れがたい思い出】

私が大学生時代の時であった。 

当時、東海大学海洋学部の初代学部長 速水祥一郎氏(速水氏の母校京都大の京都大学防災研究所所長兼務)が、亡くなられて、静岡県清水市の東海大学海洋学部での学園葬の式典において、その式典に参列していて、その式典の進行の最中に、私の隣席に居られた星野芳樹氏が、突然に、私に、涙声で、語りかけてきました。 

星野氏の上海において、共産党員として、宮本書記長と共に潜伏活動をしながら、国家権力機関からの迫害・追放等の亡命生活の中で、当時、速水祥一郎氏が上海で、揚子江の河川の土木工学上の研究をされていた職場において、速水氏の研究の手助けをしていて、その職場で、速水祥一郎氏が、星野氏に優しくして頂いたという思い出と活動を私に語られたのです。私は、突然なことで、まごついてしまいました。

その時において、私が若く、未熟であり、未だ知りえない星野氏の心の奥に、深く刻まれた亡命生活同様のような生活での、想像を越える辛さや社会の不条理を経験したことを理解し得たことは、後生のことであった。

私はその式典の後において、星野氏が第2次世界対戦中に、戦争反対の思想・政治的な活動のために、中国に亡命生活を余儀なくされて暮らしていたことを知ったのは、星野氏の自伝を友人から借りて、読んだ後であったのである。
 
当時において、知り得ないことであるが、星野氏が海洋学部の政治学の講師と招かれた理由には、たぶん、海洋学部長の速水氏の推挙・推薦があったからであろう。

その両者ともに、既に、この世から、生命を絶たれて、失なわれてしまっておりますが、私の心の奥底に、両者の生きてきた時代の人生観が強く刻みこまれているのです。 

若者に対して、優しくふれて、気軽に、対話を応じて頂いた思い出と共に、私の社会や人生に対する見方を育んでくれた人達であった。


【追記1】

40数年前に、私たちに、アフリカの大切さを教え示して、後世をアフリカのケニヤ、ナイロビにて、日本の若者達に、スワヒリ語をまなばせる学校を設立して、励まれたその人生のなかにおいて、同時期に、米国大統領オバマ氏の父親が住んで暮らしていたことを知ったのもつい最近のことである。

ケニヤのナイロビで、星野芳樹氏とオバマ氏の父親と、交友がなされたことがあったのではなかろうかと思うのである。感慨深いものがある。

【追記2】

米国大統領として、大活躍をなされているオバマ氏の人生の逆境を乗り越える信念・闘争力と星野芳樹氏の不条理への闘争・反骨精神を重ねて、思い描くときに、現代の日本の社会・政治指導者達の人生と比べて、眺めれば、雲泥の人生の質の落差があることが、理解できるのである。

そこに、日本の社会の政治的構造における危機が潜んでいる様に強く、思いを致し、未来の社会を担うべきリーダーたるべき人生経験の重さ、社会経験の真なる厳しさのある政治家が活躍されていないことに対して、憂慮を覚える
のである。

人生の真なる目的を持たずに、人生に真の闘争を経験していない人たちが名誉と権力だけを求めて、社会や政治の指導者として、おられることが、この現代
日本の社会の混迷を深めさせている様なのである。

逆境を乗り越える経験したことがないと思われる自民党の小泉氏、阿部氏、福田氏、麻生氏や公明党の太田氏や経済界の権威者等である御手洗氏、トヨタ奥田氏等に、共通的に、そのエリート的な人生を歩んで来た人やこれから歩もうとしている人達に、人生上の真の逆境における経験がない人達の共通する危うさが、かいま見えてくるのである。


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2.【星野芳樹氏の活動に係わる人達の紹介】

【google検索を利用しました。】

【出展引用】

ダニエルサラーム便り 根本 利通(ねもととしみち)
http://jatatours.intafrica.com/habari66.html

【出展引用】

ケニア旅行記3
http://www.geocities.jp/walkabout_ted/kenya_travel3.htm

【出展引用】 星野芳樹氏の政治活動記録

第001回国会 在外同胞引揚問題に関する特別委員会引揚促進並びに感謝決議に関する小委員会 第1号

http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/001/1536/00108071536001a.html


【出展引用】:

日本―アフリカ交流史の展開 
日本-アフリカ交渉史の諸相を考える
―いくつかの研究課題と展望ー

大谷大学文学部  古 川 哲 史
2008 年1月15 日受付,2008 年1月31 日受理
連絡先: 〒603-8143 京都市北区小山上総町
大谷大学文学部
e-mail:

http://wwwsoc.nii.ac.jp/africa/j/publish/pdf/V72/75-81.pdf


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【星野芳樹氏の生涯】;出展引用:

http://www.jacii.net/page004.html 

http://74.125.153.132/search?q=cache:1162EFvEHswJ:www.jacii.net/page004.html+%E6%98%9F%E9%87%8E%E8%8A%B3%E6%A8%B9&hl=ja&strip=1

これは Google に保存されている http://www.jacii.net/page004.html のキャッシュです。 このページは 2009年5月27日 13:53:45 GMT に取得されたものです。

そのため、このページの最新版でない場合があります。 詳細

フルバージョンハイライトされているキーワード: 星野 芳樹
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創立者・星野芳樹の一生

1909(明治42) 3/30 東京下谷区にて出生、本籍は父 光多の出身地群馬県利根郡利南村大字戸鹿野(現沼田市戸鹿野町)697-1で、光多は当時両国教会の牧師で日本 キリスト教界の指導者の一人として活動していた。

母みねは光多が横浜フェ リス女学校の教頭時代に同僚であった。

1891(明治24)年7月15日に結 婚、芳樹が生まれた時父50才、母41才であった。

家族は兄二人姉一人と アメリカ留学中の父の妹あいがいて、芳樹が3才の時帰国、母校の津田英 学塾の教師になった。

長兄直樹は、後に東大を出て大蔵省に入り満州国総 務長官時代、時の首相東条英機に請われて帰国、国務大臣を勤めた。

戦 後A級戦犯として獄につながれた。釈放後はダイヤモンド社会長、東急ホテ ル社長となった。

次兄茂樹は東大で土木工学を学び鉄道省に入りトンネル 建設の第一人者として清水、丹那、関門各トンネルを手懸けた。

すぐ上の七 歳違いの姉花子は津田卒業後アメリカ留学、ミシガン大学教授の日系二世 山極越海と結婚、そのままアメリカに永住した。

1915(大正 4) 4  東京市立小日向台小学校入学。

1921(大正10) 4  私立早稲田中学校入学。

1926(大正15) 3  同校卒業。

1928(昭和 3) 4  旧制静岡高等学校文科甲類入学野球部入部、選手制度に疑問を持ちストライキを起こす。

1929(昭和 4) 共産党系の社会科学研究会の友人と交友が始まる。 同校3年在学中、思想運動に関係して逮捕され、放校処分を受ける。

1930(昭和 5) 7  同校退校。

1932(昭和 7) 7/7  父光多、永眠。

長兄直樹、満州へ赴任。

1933(昭和 8) 6
大阪で非合法活動中逮捕される。実刑5年未決通算7百日の判決を大阪北刑務所に下獄する。

獄中母方の従妹羽太巴の面会を受ける。その後図書の差し入れ、激励の手紙を貰う。

豊多摩刑務所に移される。

7年間の獄中生活に、語学特にエスペラント語や科学関係の本が読めた。初歩微分積分から理論物理学の書物、アインシュタインの一般相対性理論、プランクの量子力学まで原書で読み学の何たるかを知り得たと思い、社会思想をこの科学知識で見直した。

マルクス主義は資本主義の病理現象を鋭く分析した結果、マルクス主義は歴史的には認められるが、それ自身も病理現象を伴っており、これらの分析排除が必要でその限界を知ることが肝要であると悟る。

またこの期間、多くの共産主義者といわれる人々が転向していった。

芳樹はこれらの転向者とは根本的に違い、当時の日本政府が中国への武力侵入していることを批判、反対していた自分が、ここで転向という政府に謝罪を乞うのは筋が通らないと非転向を貫いて満期まで獄にいた。

この獄中で養った精神的エネルギーがその後の活動の基になったと後年語った。

さらに海外での多くの知友を得られたのも獄中の思考が役立った。

1934(昭和 9) 1 羽太巴、奈良女高師(現奈良女子大学)附属実科高等女学校英語教師に採用される。

1939(昭和14) 3 羽太巴、芳樹と結婚のため退職して上京、落合に一人でいた芳樹の母と一緒に住む。

1940(昭和15) 2/24
                        3/30
                       4

紀元二千六百年祭の恩赦で、満期より一ヶ月位早く出獄する。

巴と結婚、時に芳樹31才、巴29才。

国外へ行こうと計画をたて満州国経由で上海に向かう。途中ソウルで後に南北統一の星と呼ばれた呂運亨と語り合った。

1941(昭和16) 7
                        9
                        11

上海で華興銀行の鷲尾氏の紹介で上海自然科学研究所の助手となる。その間中国語を学ぶ。

夜間日本語講習会を開き、ここで多くの中国の友人が出来た。

上海市公平路に中国人児童のための容海中学校を創設、1945年8月15日敗戦の日まで同校を経営する。

自然科学研究所を退職。

この容海中学校の設立と経営は精魂傾けた最初の事業であった。当事の中国人は上下共日本を憎悪していたので、将来日中両国民族友好のためには憎んでいるが日本の科学技術に一目置いていることが解った。

そこで容海中学校で自分でも教壇に立って数学と物理を教えた。

1945年には小中併せて370名の生徒が在籍していた。後事を託して引き揚げる時、盛大な送別会を開いてくれた。

1981(昭和56年)3月、35年ぶりに上海を訪れた時、迎えてくれた7人の内4人が高校の理科と数学の教師になっていた。

1944(昭和19) 1/28
                         3  一子「楊」、生まれる。

日華親善の功により大東亜省より内山完造、頓宮博士と共に表彰される。日本政府が中国に対しそれまでの強圧政策を「日華共甘同苦」の政策に改めたためである。

1945(昭和20)12 日本敗戦後本国に先立って、在上海日本人居留民の間で総選挙を行い、代表委員30名を選出し日本人自治会を作る。帝国政府領事館が解散したため、その業務を自治会が引き継ぐ。

その代表委員の一人として、宣導部の教育班を担当帰国まで勤務する。

1946(昭和21) 5 日本に帰国。津田塾塾長の叔母星野あいの家に一時身を寄せる。

1947(昭和22) 2 未帰還同胞帰還促進連盟を組織、東京支部長として全国運動の中心となって活動する。当時革新政党も熱心でなかったソ連に抑留されている同胞の帰還促進を要求する市民運動であった。数寄屋橋で21日間の断食をしたのもこの時であった。

第一回参議院議員の選挙に全国区より立候補し、3年議員に当選。労働者農民党に属す。

1948(昭和23) 3
                         6
                         9/25
                         11/ 5 家族と共に沼田に引揚げ、以後住居を沼田に構える。 

                             巴、群馬県立沼田女子高校教諭の職を得る。              
                             「共産主義卒業の記」土佐書房より刊行。                 
                             「上海路地裏の人々」世界社より刊行。  著者 星野芳樹       

1949(昭和24) 巴の母れん、同居する。

1950(昭和25) 4 参議院議員任期終了。

1952(昭和27)11/15
                       12 母みね、永眠。

仏教、キリスト教の有識者を集め、宗教者平和連盟を組織、これと労働組合幹部との話し合いを設営して平和促進国民会議を作る。しかし、容共派の人たちと意見が合わず離れる。

1953(昭和28) 2 仏教団体のインドへ農業技術者を送り届ける通訳兼付き添いとして僧衣で渡航。30万円の貧乏旅行であった。

節約した旅費でビルマのラングーンで開催されたアジア社会党大会にオブザーバーとして参加、アジア・アフリカ諸国に多くの知友を得る。

この間、インド、パキスタン、アフガニスタン、ネパール、スリランカ、ビルマ、マレーシアを広く周遊し、ラングーンの会議で知り合った人々を起点に多くの人々と知り合い、深い議論を交わした。

1954(昭和29)11 兄直樹が静岡新聞社の大石光之助社長を紹介してくれ、同紙に一週間に一度かこみ記事を書き同社の論説委員になる。

1955(昭和30) 1 姪百合子(直美長女)同居する。

1957(昭和32) 5/27 義母れん、永眠

同社海外特派員として取材活動を委託され、費用2000ドルで半年間アジア、アフリカ諸国をめぐる。この時初めてアフリカを訪れる。以後静岡新聞社時代のアフリカ取材は19回に及ぶ。

1958(昭和33) 4 利根沼田水泳協会設立する。
この地方にまだプールがなく利根川で泳いでいたころから多数の少年少女を水泳を通して訓育した。沼田中学水泳部が県内優勝10回、その後もしばらく利根沼田の中学が他都市に優勝旗を渡さなかった歴史を作った。

訓育の方針はあくまで個人の選手を育てる事でなく、団体の中で助け合ってみんなが伸びるという原則をとおした。「小父さん」の名前で慕われ、1979年70才で一時帰国の際、誕生会を沼田で開いた所、水泳協会の関係者を中心に96名もの人が集まり歓迎してくれた。

1959(昭和34) 1 「アジア・アフリカ紀行」講談社から出版する。

1961(昭和36) 4 巴妹直美、沼田へ転居。

1967(昭和42) 4 楊、群馬県公立学校教諭に採用沼田西中学に奉職。

1969(昭和44) 3 楊結婚。

1970(昭和45) 3/31
                         4
                         4 巴、沼田女子高校を退職。

静岡新聞主幹に任ぜられ、静岡新聞社に常勤する。

静岡に家を建て妻と転居する。

静岡大、静岡薬科大、東海大海洋学部の学生有志を集め、静岡青年海外事情研究会を作り、毎年冬と春の休暇を利用して4名ずつ東南アジアと韓国の安値旅行の手ほどきをした45)ばして帰って来た。しかも120ドルを余して。この経験から若者を海外に出すことの意義を知った。

1971(昭和46) 「バングラデッシュ独立の経過を通して世界政治の裏をのぞく」を静岡新聞社より刊行。

1972(昭和47) 12/ 5 幼児のころから家族同様だった叔母星野あい永眠。
                         兄茂樹永眠。

1974(昭和49) 1/10
                          3/ 2
                         11/16 静岡新聞社定年退職、住居をケニア、ナイロビに移す。

過去20回近くの海外取材で一番気に入った土地であった。娘も独立、安心して妻と此処を永住の地と定めた。静岡の家を処分し、その他自己資本を投じて土地、家屋を購入した。此処から静岡新聞に論説を送ると掲載してくれた。

ケニア国ナイロビ市に「日本アフリカ文化交流協会」設立の準備を始める。

上記の協会がケニア政府から認可される。

1975(昭和50) 1/ 1
                         4

「ナイロビだより」第1号発刊、各地に送る(二百部余りから段々増え後に七百部ぐらいを自分で表書きし送った)。

日本アフリカ文化交流協会(ケニア・スワヒリ語学院、星野スクール)は第1回留学生として6名を受け入れる。

この学院はナイロビの中心より僅か2キロ、キリマニ(丘)の樹木の緑と静かな環境の一画にある。日本人にスワヒリ語、英会話、アフリカの政治、経済事情、文学、歴史、芸術等を取得する機会を与えるために、又ケニア人とケニア居住の外国人に、日本語の教育をするために開校されたアフリカ唯一の教育施設である。開校当初より門扉を持たず、人種の間に壁を作らぬ交流を奨励するため、通称「星野スクール」と呼ばれ多くの人たちに親しまれている。

当初NHK放送文化基金及び財界からの補助もあり、1975年の第1期生より1979年の第8期生までは(社)アフリカ協会による運営。第9期生以降の留学生の募集・選考・派遣は、この協会の日本事務局で行なわれている。

第1期生授業開始。

1988年3月ナイロビを引揚げる時には、日本よりの留学生は第24期生に達した。第1期と第2期は学習過程を1年としたが、第3期からは半年としたため、1年に2回学生を受け入れ、1期の定員を12名としたので、総数で270余名が学んだことになる。

このほかに、ケニアの人々に対する日本語学習講座を設けたが、これは延べ211名、またケニア在住一般外国人のためのスワヒリ語講座は延べ320名の学習者があった。

1976(昭和51) 4 第2期生受入れ。
第2期以来日本人留学生は毎期卒業式の際、スワヒリ語を用いて何か劇を演じる伝統が生まれ、必ず実施している。半年前までスワヒリ語を全く知らなかった青年が自分たちで劇の台本をつくり、スワヒリ語に直し、舞台装置、衣装も作って演じることは、ケニアの官民にひとつのミラクルとして評価されたいる。

1977(昭和52) 3 「アフリカ古人今人」第1号発刊。

1978(昭和53) 5/29 兄直樹、永眠。

ブロンズ社より「アフリカの指導者」刊行。

1982(昭和57) 1 1982年までに160名の留学生を迎える。ケニア在住外国人のスワヒリ語講座は320名、ケニアの人々への日本語講座は211名の学習者があった。
読売新聞夕刊の「人」欄で4回にわたって紹介される。

1984(昭和59) 7
                         8 「アフリカ古人今人」第87号で終刊する。

このころは留学生引率のため、妻巴と交互に帰国する以外他国に行っていなかったが、従妹(窪田てい)の娘婿浅羽満夫が隣のタンザニア大使として赴任して来たので、久しぶりに近くに来た親戚に会うためにオンボロの愛車でダルエスサラームへ出かけた。ナイロビ、ダルエスサラーム間の標高差1800メートル、距離1000キロの完全舗装とはいえない悪路もある長距離運転。
帰途車がえんこしたり、悪路にはまったりで散々な目に遭ってやっとのおもいでナイロビに帰って来た。このため体調を崩し静養を余儀なくされた。

1985(昭和60) 2
                         9
                         11 学生引率のため帰国中に入院す。

「ナイロビだより」第119号で終刊となる。

日本とアフリカの文化交流の功により叙勲、勲三等旭日中綬章を、妻巴は勲五等宝冠章を授与される。

日本アフリカ文化交流協会の事業としてスワヒリ語学院を始めて10年間、卒業生も20期230名を超えた。

1986(昭和61) 6 リブロポート社より「星野芳樹自伝」刊行。

この書物でも一貫して真の革新とは何か?と問いかけている。スターリンのソ連帝国主義の破綻を予見していた。さらに北朝鮮については、民主主義の萌芽さえ見られず、独裁者金日成が偽者であると言及している。

彼によれば、彼が7才の時に朝鮮に金日成という指導者がいて日本帝国主義に反抗して白頭山で日本軍と戦った英雄として朝鮮民族に仰がれていた人物がいた。

戦争が終わりソ連軍が平壌に入った時、これが金日成だと連れて来た男は彼より年が3つ若いことがわかり偽者だと直感した。

この男の政権下で優秀な人物がずいぶん粛清されている。

朝鮮が日本に支配されていた時、頑強に抵抗し独立運動をした人たちが北朝鮮に帰ったけれど反乱罪で処刑されている。

現に従妹と結婚した東大出の金斗鎔も帰国後消息がつかめないでいる。

1987(昭和62) 1/7 姉花子、永眠。

アジア・アフリカ文化財団主催、第5回「アジア・アフリカ賞」を受ける。

1988(昭和63) 3/5 故郷沼田に引揚げ、療養生活に入り再起をはかる。

この時スワヒリ語学院は第24期生が修了、卒業生数は270名に達していた。後任を第6期卒業の上田栄一氏に託す。

1990(平成 2) 1/23 義妹羽太直美、永眠。

1992 (平成 4)  5/31
                         6/6 心筋梗塞のため沼田脳神経外科病院で永眠。

日本基督教団沼田教会で葬儀・告別式挙行、同教会メモリアルパーク内の墓地に納骨。


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【引用終わり】:以上の通り

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私の尊敬する恩師・星野芳樹氏の社会・政治家の貴重な逆境経験と星野氏の思い出とその活動に係わる人々の人生経験を紹介致します。

http://www.suikodo.com/job/book.html


ナイロビ便り 星野芳樹著
星野 芳樹
アフリカ人婦人と談笑する星野芳樹

1909年東京下谷に生まれる。
静岡高校在学中に左翼運動に加わり7年間獄中生活を送る。刑期満了後上海に渡り中国人子弟のために容海中学校を創設、終戦まで経営。
帰国後、第1期参議院議員に当選。シベリア抑留者帰国促進運動を展開。
1954年より静岡新聞論説委員。海外特派員としてアジア、アフリカ各地を取材。
1974年、同新聞を定年退職後、妻巴とケニア、ナイロビに日本アフリカ文化交流協会「ケニヤスワヒリ語学院」を設立、1988年病に倒れるまで日本人留学生にスワヒリ語やアフリカ文化を、又現地のケニア人や在留外国人には日本語や英語を教えた。
1992年5月群馬県沼田にて死去83才。

ナイロビ便り 星野芳樹著


アフリカ諸国の夜明け前



ナイロビ便り写真

1974年、ケニアナイロビに居をかまえ「ケニヤスワヒリ語学院」を運営した著者が、真のアフリカを伝えたいと学院留学生の家族や日本の知人に当てて送った通信文「ナイロビ通信」。月刊で約11年119号を発行。
独立気運最盛期のアフリカの政情や動向をリアルタイムに伝えると共にアフリカの自然や風俗、日常などが愛情に満ちた口調で語られている。
当初200部ほどだったものが800部まで至るが原稿作成から印刷、発送のための宛名書きまで全て一人でこなしている。
本書では「ナイロビだより」(全119号)の他に、アフリカ駐在の日本人向けに発行された「アフリカ古人今人」(全87号)、静岡新聞海外特派員時代掲載されたアフリカ関連記事(抜粋)も収録


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社会・政治家の逆境経験と私の尊敬する恩師・星野芳樹氏の思い出とその活動に係わる人々の人生経験を紹介致します。


1.【恩師 星野芳樹氏の忘れがたい思い出】


私が大学生時代の時であった。 当時、東海大学海洋学部の初代学部長 速水祥一郎氏(速水氏の母校京都大の京都大学防災研究所所長兼務)が、亡くなられて、静岡県清水市の東海大学海洋学部での学園葬の式典において、その式典に参列して、その式典の進行の最中に、私の隣席に居られた星野芳樹氏が、突然に、私に、涙声で、突然に語りかけてきました。 
星野氏の上海において、共産党員として、宮本書記長と共に潜伏活動をしながら、国家権力機関からの迫害・追放等の亡命生活の中で、当時、速水祥一郎氏が上海で、揚子江の河川の土木工学上の研究をされていた職場において、速水氏の研究の手助けをしていて、その職場で、速水祥一郎氏が、星野氏に優しくして頂いたという思い出と活動を私に語られたのです。私は、突然なことで、まごついてしまいました。 その時において、私が若く、未熟であり、未だ知りえない星野氏の心の奥に、深く刻まれた亡命生活の想像を越えるつらさや社会の不条理を経験したことを理解し得たことは、後生のことであった。


私はその式典の後において、星野氏が第2次世界対戦中に、戦争反対の思想・政治的な活動のために、中国に亡命生活を余儀なくされて暮らしていたことを知ったのは、星野氏の自伝を友人から借りて、読んだ後であったのである。 
たぶん、当時において、知り得ないことであるが。星野氏が、海洋学部の政治学の講師と招かれた理由は、速水氏の推薦があったのであろう。


その両者も、すでに、この世に、生命を失ってしまっておりますが、私の心の奥底に、両者の時代の人生観が刻みこまれているのです。 


若者に対して、優しくふれて、気軽に、対話を応じて頂いた思い出と共に、私の社会や人生に対する見方を育んでくれた人たちであった。


【追記1】


40数年前に、私たちに、アフリカの大切さを教え示して、後世をアフリカのケニヤ、ナイロビにて、日本の若者達に、スワヒリ語をまなばせる学校を設立して、励まれたその人生のなかにおいて、同時期に、米国大統領オバマ氏の父親が住んで暮らしていたことを知ったのもつい最近のことである。ケニヤのナイロビで、星野芳樹氏とオバマ氏の父親と、交友がなされたことがあったのではなかろうかと思うのである。感慨深いものがある。


【追記2】


米国大統領として、大活躍をなされているオバマ氏の人生の逆境を乗り越える信念・闘争力と星野芳樹氏の不条理への闘争・反骨精神を重ねて、思い描くときに、現代の日本の社会・政治指導者達の人生と比べて、眺めれば、雲泥の人生の質の落差があることが、理解できるのである。

そこに、日本の社会の政治的構造における危機が潜んでいる様に強く、思いを致し、未来の社会を担うべきリーダーたるべき人生経験の重さ、社会経験の真なる厳しさのある政治家が活躍されていないことに対して、憂慮を強めているのである。

人生の真なる目的を持たずに、人生に真の闘争を経験していない人たちが名誉と権力だけを求めて、社会や政治の指導者として、おられることが、この日本の社会の混迷を深めさせている様なのである。

逆境を乗り越える経験したことがないと思われる自民党の小泉氏、阿部氏、福田氏、麻生氏や公明党の太田氏や経済界の権威者等である御手洗氏、トヨタ奥田氏等に、共通的に、そのエリート的な人生を歩んで来た人やこれから歩もうとしている人達に、人生上の真の逆境における経験がない人達の共通する危うさが、会間見えてくるのである。



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2.【星野芳樹氏の活動に係わる人達の紹介】


【google検索を利用しました。】



【出展引用】

ダニエルサラーム便り 根本 利通(ねもととしみち)
http://jatatours.intafrica.com/habari66.html

【出展引用】

ケニア旅行記3
http://www.geocities.jp/walkabout_ted/kenya_travel3.htm


【出展引用】 星野芳樹氏の政治活動記録

第001回国会 在外同胞引揚問題に関する特別委員会引揚促進並びに感謝決議に関する小委員会 第1号
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/001/1536/00108071536001a.html


【出展引用】:

日本―アフリカ交流史の展開 
日本-アフリカ交渉史の諸相を考える
―いくつかの研究課題と展望ー

大谷大学文学部  古 川 哲 史
2008 年1月15 日受付,2008 年1月31 日受理
連絡先: 〒603-8143 京都市北区小山上総町
大谷大学文学部
e-mail:

http://wwwsoc.nii.ac.jp/africa/j/publish/pdf/V72/75-81.pdf


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【星野芳樹氏の生涯】;出展引用:

http://www.jacii.net/page004.html 

http://74.125.153.132/search?q=cache:1162EFvEHswJ:www.jacii.net/page004.html+%E6%98%9F%E9%87%8E%E8%8A%B3%E6%A8%B9&hl=ja&strip=1

これは Google に保存されている http://www.jacii.net/page004.html のキャッシュです。 このページは 2009年5月27日 13:53:45 GMT に取得されたものです。

そのため、このページの最新版でない場合があります。 詳細

フルバージョンハイライトされているキーワード: 星野 芳樹
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創立者・星野芳樹の一生

1909(明治42) 3/30 東京下谷区にて出生、本籍は父 光多の出身地群馬県利根郡利南村大字戸鹿野(現沼田市戸鹿野町)697-1で、光多は当時両国教会の牧師で日本 キリスト教界の指導者の一人として活動していた。母みねは光多が横浜フェ リス女学校の教頭時代に同僚であった。

1891(明治24)年7月15日に結 婚、芳樹が生まれた時父50才、母41才であった。

家族は兄二人姉一人と アメリカ留学中の父の妹あいがいて、芳樹が3才の時帰国、母校の津田英 学塾の教師になった。

長兄直樹は、後に東大を出て大蔵省に入り満州国総 務長官時代、時の首相東条英機に請われて帰国、国務大臣を勤めた。戦 後A級戦犯として獄につながれた。釈放後はダイヤモンド社会長、東急ホテ ル社長となった。

次兄茂樹は東大で土木工学を学び鉄道省に入りトンネル 建設の第一人者として清水、丹那、関門各トンネルを手懸けた。

すぐ上の七 歳違いの姉花子は津田卒業後アメリカ留学、ミシガン大学教授の日系二世 山極越海と結婚、そのままアメリカに永住した。

1915(大正 4) 4 東京市立小日向台小学校入学。

1921(大正10) 4 私立早稲田中学校入学。

1926(大正15) 3 同校卒業。

1928(昭和 3) 4 旧制静岡高等学校文科甲類入学野球部入部、選手制度に疑問を持ちストライキを起こす。

1929(昭和 4) 共産党系の社会科学研究会の友人と交友が始まる。 同校3年在学中、思想運動に関係して逮捕され、放校処分を受ける。

1930(昭和 5) 7 同校退校。

1932(昭和 7) 7/ 7 父光多、永眠。

長兄直樹、満州へ赴任。

1933(昭和 8) 6
大阪で非合法活動中逮捕される。実刑5年未決通算7百日の判決を大阪来た刑務所に下獄する。

獄中母方の従妹羽太巴の面会を受ける。その後図書の差し入れ、激励の手紙を貰う。

豊多摩刑務所に移される。

7年間の獄中生活に、語学特にエスペラント語や科学関係の本が読めた。初歩微分積分から理論物理学の書物、アインシュタインの一般相対性理論、プランクの量子力学まで原書で読み学の何たるかを知り得たと思い、社会思想をこの科学知識で見直した。

マルクス主義は資本主義の病理現象を鋭く分析した結果、マルクス主義は歴史的には認められるが、それ自身も病理現象を伴っており、これらの分析排除が必要でその限界を知ることが肝要であると悟る。

またこの期間、多くの共産主義者といわれる人々が転向していった。芳樹はこれらの転向者とは根本的に違い、当時の日本政府が中国への武力侵入していることを批判、反対していた自分が、ここで転向という政府に謝罪を乞うのは筋が通らないと非転向を貫いて満期まで獄にいた。

この獄中で養った精神的エネルギーがその後の活動の基になったと後年語った。

さらに海外での多くの知友を得られたのも獄中の思考が役立った。

1934(昭和 9) 1 羽太巴、奈良女高師(現奈良女子大学)附属実科高等女学校英語教師に採用される。

1939(昭和14) 3 羽太巴、芳樹と結婚のため退職して上京、落合に一人でいた芳樹の母と一緒に住む。

1940(昭和15) 2/24
3/30
                        4
紀元二千六百年祭の恩赦で、満期より一ヶ月位早く出獄する。

巴と結婚、時に芳樹31才、巴29才。

国外へ行こうと計画をたて満州国経由で上海に向かう。途中ソウルで後に南北統一の星と呼ばれた呂運亨と語り合った。

1941(昭和16) 7

11
上海で華興銀行の鷲尾氏の紹介で上海自然科学研究所の助手となる。その間中国語を学ぶ。
夜間日本語講習会を開き、ここで多くの中国の友人が出来た。

上海市公平路に中国人児童のための容海中学校を創設、1945年8月15日敗戦の日まで同校を経営する。

自然科学研究所を退職。

この容海中学校の設立と経営は精魂傾けた最初の事業であった。当事の中国人は上下共日本を憎悪していたので、将来日中両国民族友好のためには憎んでいるが日本の科学技術に一目置いていることが解った。

そこで容海中学校で自分でも教壇に立って数学と物理を教えた。

1945年には小中併せて370名の生徒が在籍していた。後事を託して引き揚げる時、盛大な送別会を開いてくれた。

1981(昭和56年)3月、35年ぶりに上海を訪れた時、迎えてくれた7人の内4人が高校の理科と数学の教師になっていた。

1944(昭和19) 1/28
                         3 一子「楊」、生まれる。

日華親善の功により大東亜省より内山完造、頓宮博士と共に表彰される。日本政府が中国に対しそれまでの強圧政策を「日華共甘同苦」の政策に改めたためである。

1945(昭和20)12 日本敗戦後本国に先立って、在上海日本人居留民の間で総選挙を行い、代表委員30名を選出し日本人自治会を作る。帝国政府領事館が解散したため、その業務を自治会が引き継ぐ。

その代表委員の一人として、宣導部の教育班を担当帰国まで勤務する。

1946(昭和21) 5 日本に帰国。津田塾塾長の叔母星野あいの家に一時身を寄せる。

1947(昭和22) 2 未帰還同胞帰還促進連盟を組織、東京支部長として全国運動の中心となって活動する。当時革新政党も熱心でなかったソ連に抑留されている同胞の帰還促進を要求する市民運動であった。数寄屋橋で21日間の断食をしたのもこの時であった。

第一回参議院議員の選挙に全国区より立候補し、3年議員に当選。労働者農民党に属す。

1948(昭和23) 3
                         6
                         9/25
                         11/ 5 家族と共に沼田に引揚げ、以後住居を沼田に構える。 

                             巴、群馬県立沼田女子高校教諭の職を得る。              
                             「共産主義卒業の記」土佐書房より刊行。                 
                             「上海路地裏の人々」世界社より刊行。  著者 星野芳樹       

1949(昭和24) 巴の母れん、同居する。

1950(昭和25) 4 参議院議員任期終了。

1952(昭和27)11/15
                       12 母みね、永眠。

仏教、キリスト教の有識者を集め、宗教者平和連盟を組織、これと労働組合幹部との話し合いを設営して平和促進国民会議を作る。しかし、容共派の人たちと意見が合わず離れる。

1953(昭和28) 2 仏教団体のインドへ農業技術者を送り届ける通訳兼付き添いとして僧衣で渡航。30万円の貧乏旅行であった。

節約した旅費でビルマのラングーンで開催されたアジア社会党大会にオブザーバーとして参加、アジア・アフリカ諸国に多くの知友を得る。

この間、インド、パキスタン、アフガニスタン、ネパール、スリランカ、ビルマ、マレーシアを広く周遊し、ラングーンの会議で知り合った人々を起点に多くの人々と知り合い、深い議論を交わした。

1954(昭和29)11 兄直樹が静岡新聞社の大石光之助社長を紹介してくれ、同紙に一週間に一度かこみ記事を書き同社の論説委員になる。

1955(昭和30) 1 姪百合子(直美長女)同居する。

1957(昭和32) 5/27 義母れん、永眠

同社海外特派員として取材活動を委託され、費用2000ドルで半年間アジア、アフリカ諸国をめぐる。この時初めてアフリカを訪れる。以後静岡新聞社時代のアフリカ取材は19回に及ぶ。

1958(昭和33) 4 利根沼田水泳協会設立する。
この地方にまだプールがなく利根川で泳いでいたころから多数の少年少女を水泳を通して訓育した。沼田中学水泳部が県内優勝10回、その後もしばらく利根沼田の中学が他都市に優勝旗を渡さなかった歴史を作った。

訓育の方針はあくまで個人の選手を育てる事でなく、団体の中で助け合ってみんなが伸びるという原則をとおした。「小父さん」の名前で慕われ、1979年70才で一時帰国の際、誕生会を沼田で開いた所、水泳協会の関係者を中心に96名もの人が集まり歓迎してくれた。

1959(昭和34) 1 「アジア・アフリカ紀行」講談社から出版する。

1961(昭和36) 4 巴妹直美、沼田へ転居。

1967(昭和42) 4 楊、群馬県公立学校教諭に採用沼田西中学に奉職。

1969(昭和44) 3 楊結婚。

1970(昭和45) 3/31
                         4
                         4 巴、沼田女子高校を退職。

静岡新聞主幹に任ぜられ、静岡新聞社に常勤する。

静岡に家を建て妻と転居する。

静岡大、静岡薬科大、東海大海洋学部の学生有志を集め、静岡青年海外事情研究会を作り、毎年冬と春の休暇を利用して4名ずつ東南アジアと韓国の安値旅行の手ほどきをした45)ばして帰って来た。しかも120ドルを余して。この経験から若者を海外に出すことの意義を知った。

1971(昭和46) 「バングラデッシュ独立の経過を通して世界政治の裏をのぞく」を静岡新聞社より刊行。

1972(昭和47) 12/ 5 幼児のころから家族同様だった叔母星野あい永眠。
                         兄茂樹永眠。

1974(昭和49) 1/10
                          3/ 2
                         11/16 静岡新聞社定年退職、住居をケニア、ナイロビに移す。

過去20回近くの海外取材で一番気に入った土地であった。娘も独立、安心して妻と此処を永住の地と定めた。静岡の家を処分し、その他自己資本を投じて土地、家屋を購入した。此処から静岡新聞に論説を送ると掲載してくれた。

ケニア国ナイロビ市に「日本アフリカ文化交流協会」設立の準備を始める。

上記の協会がケニア政府から認可される。

1975(昭和50) 1/ 1
                         4

「ナイロビだより」第1号発刊、各地に送る(二百部余りから段々増え後に七百部ぐらいを自分で表書きし送った)。

日本アフリカ文化交流協会(ケニア・スワヒリ語学院、星野スクール)は第1回留学生として6名を受け入れる。

この学院はナイロビの中心より僅か2キロ、キリマニ(丘)の樹木の緑と静かな環境の一画にある。日本人にスワヒリ語、英会話、アフリカの政治、経済事情、文学、歴史、芸術等を取得する機会を与えるために、又ケニア人とケニア居住の外国人に、日本語の教育をするために開校されたアフリカ唯一の教育施設である。開校当初より門扉を持たず、人種の間に壁を作らぬ交流を奨励するため、通称「星野スクール」と呼ばれ多くの人たちに親しまれている。

当初NHK放送文化基金及び財界からの補助もあり、1975年の第1期生より1979年の第8期生までは(社)アフリカ協会による運営。第9期生以降の留学生の募集・選考・派遣は、この協会の日本事務局で行なわれている。

第1期生授業開始。

1988年3月ナイロビを引揚げる時には、日本よりの留学生は第24期生に達した。第1期と第2期は学習過程を1年としたが、第3期からは半年としたため、1年に2回学生を受け入れ、1期の定員を12名としたので、総数で270余名が学んだことになる。

このほかに、ケニアの人々に対する日本語学習講座を設けたが、これは延べ211名、またケニア在住一般外国人のためのスワヒリ語講座は延べ320名の学習者があった。

1976(昭和51) 4 第2期生受入れ。
第2期以来日本人留学生は毎期卒業式の際、スワヒリ語を用いて何か劇を演じる伝統が生まれ、必ず実施している。半年前までスワヒリ語を全く知らなかった青年が自分たちで劇の台本をつくり、スワヒリ語に直し、舞台装置、衣装も作って演じることは、ケニアの官民にひとつのミラクルとして評価されたいる。

1977(昭和52) 3 「アフリカ古人今人」第1号発刊。

1978(昭和53) 5/29 兄直樹、永眠。

ブロンズ社より「アフリカの指導者」刊行。

1982(昭和57) 1 1982年までに160名の留学生を迎える。ケニア在住外国人のスワヒリ語講座は320名、ケニアの人々への日本語講座は211名の学習者があった。
読売新聞夕刊の「人」欄で4回にわたって紹介される。

1984(昭和59) 7
                         8 「アフリカ古人今人」第87号で終刊する。

このころは留学生引率のため、妻巴と交互に帰国する以外他国に行っていなかったが、従妹(窪田てい)の娘婿浅羽満夫が隣のタンザニア大使として赴任して来たので、久しぶりに近くに来た親戚に会うためにオンボロの愛車でダルエスサラームへ出かけた。ナイロビ、ダルエスサラーム間の標高差1800メートル、距離1000キロの完全舗装とはいえない悪路もある長距離運転。
帰途車がえんこしたり、悪路にはまったりで散々な目に遭ってやっとのおもいでナイロビに帰って来た。このため体調を崩し静養を余儀なくされた。

1985(昭和60) 2
                         9
                         11 学生引率のため帰国中に入院す。

「ナイロビだより」第119号で終刊となる。

日本とアフリカの文化交流の功により叙勲、勲三等旭日中綬章を、妻巴は勲五等宝冠章を授与される。

日本アフリカ文化交流協会の事業としてスワヒリ語学院を始めて10年間、卒業生も20期230名を超えた。

1986(昭和61) 6 リブロポート社より「星野芳樹自伝」刊行。
この書物でも一貫して真の革新とは何か?と問いかけている。スターリンのソ連帝国主義の破綻を予見していた。さらに北朝鮮については、民主主義の萌芽さえ見られず、独裁者金日成が偽者であると言及している。彼によれば、彼が7才の時に朝鮮に金日成という指導者がいて日本帝国主義に反抗して白頭山で日本軍と戦った英雄として朝鮮民族に仰がれていた人物がいた。
戦争が終わりソ連軍が平壌に入った時、これが金日成だと連れて来た男は彼より年が3つ若いことがわかり偽者だと直感した。この男の政権下で優秀な人物がずいぶん粛清されている。朝鮮が日本に支配されていた時、頑強に抵抗し独立運動をした人たちが北朝鮮に帰ったけれど反乱罪で処刑されている。現に従妹と結婚した東大出の金斗鎔も帰国後消息がつかめないでいる。

1987(昭和62) 1/ 7姉花子、永眠。

アジア・アフリカ文化財団主催、第5回「アジア・アフリカ賞」を受ける。

1988(昭和63) 3/ 5 故郷沼田に引揚げ、療養生活に入り再起をはかる。
この時スワヒリ語学院は第24期生が修了、卒業生数は270名に達していた。後任を第6期卒業の上田栄一氏に託す。

1990(平成 2) 1/23 義妹羽太直美、永眠。

1992 (平成 4)  5/31
                         6/ 6 心筋梗塞のため沼田脳神経外科病院で永眠。

日本基督教団沼田教会で葬儀・告別式挙行、同教会メモリアルパーク内の墓地に納骨。


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【引用終わり】:以上の通り

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