ノアの箱舟を創ろう Let us Create the Super Ocean-Floating-Structures such as the Noah's ark.

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Sunday, October 18, 2009

オンザウェイ・ジャーナル「月刊 寺島実郎の世界」の紹介

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%AA%E3%83%83%E3%83%9A%E3%83%B3%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%83%9E%E3%83%BCオンザウェイ・ジャーナル「月刊 寺島実郎の世界」の紹介



オンザウェイ・ジャーナル 「月刊 寺島実郎の世界」 の紹介


  オンザウェイ・ジャーナル「月刊 寺島実郎の世界」。この番組では、政治・経済・社会そして文化、歴史にまで視野を広げてこれからの日本のあるべき姿をテーマに、財団法人日本総合研究所会長で三井物産戦略研究所会長、そして多摩大学学長の寺島実郎さんと共に考えてまいります。
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最新の動画 vol.1[2009/9/26,27 OA]
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第34回目
[2009/9/26,27 OA] :

今週のテーマは、 「ハンガリーという国に想う-原爆との因縁」。

寺島さんは、中東協力現地会議が行われたウィーンからハンガリーのブタペストの視察に行かれたそうで、「原爆」というキーワードで日本とハンガリーの因縁についてお話を伺います。
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【出展引用リンク】:
  
【アーカイブス:過去の動画 2009年9月26,27日 Vol.1 ,Vol.2 】   
    
 http://www2.jfn.co.jp/tera/index.html   
    
   【第34回目テキスト:リンク】 :

         http://www2.jfn.co.jp/tera/archive_noa.html
                                                          
                    2009.10.17
    
【同上引用始め】以下の通り
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第34回目

[2009/9/26,27 OA] :


<ハンガリーという国に思う~原爆との因縁~>


木村>  前回の放送は「中東の新しい局面~ウィーン中東会議で講演して~」というテーマでした。中東への日本の眼差し、日本の立つ位置がどのようなところにあるべきなのかという事に触発されましたが、アメリカのオバマ政権がいま中東の問題をめぐって、或いはイスラエルをめぐっていかに緊張した状態にあるのかという事でも寺島さんのお話の中で随分発見がありました。

 寺島さんは中東協力現地会議が行なわれたウィーンからハンガリーのブダペストに行かれたという事で今週のテーマは「ハンガリーという国に思う~原爆との因縁~」です。
寺島>  ウィーンから列車で3時間くらい東に向かったところにハンガリーの首都ブダペストがあります。

司馬遼太郎さんが亡くなる前に、最後に行きたいと言ったところがハンガリーでした。彼はモンゴル語を学んだ人だったのですが(註.1)、ハンガリー人には赤ちゃんのお尻に蒙古班が出るという事で、それが言わばモンゴロイドが一番西に踏み込んでいった境界線のようなイメージをもっておられたのだと思います。
 今回あらためてハンガリーに行った理由を簡単に言うと、ヘッジファンドの帝王と言われた有名な投機家のジョージ・ソロスと関連があります。彼はハンガリーで生まれたのユダヤ人で、ナチの迫害を逃れてアメリカに渡って世界一の金持ちと言われるところまでのし上がっていったのですが、彼はハンガリーのセントラル・ヨーロッパ・ユニバーシティに個人のお金を寄付して、かつて東側と呼ばれた東ヨーロッパの市場経済界に対して大きく貢献するために踏み込んでいたのです。そのような事がきっかけでもあってブダペストに行く事となったのです。調べてみると東ヨーロッパにおける民族の隆替や移動等が物凄く複雑な歴史を形成していて、ハンガリーという国を非常に特色づけています。それが最後のところでお話しする「日本とも宿命的な因縁を背負っている」という伏線となりいます。


 我々がヨーロッパとの歴史を考える時に、意外なほど重要なのが「川」です。


北欧のヴァイキングが黒海の辺りまで川をつたって南下をしました。ヴァイキングと言うと、ノルウェイやスウェーデン等のイメージがあると思いますが、実はバルト海と黒海とは川の流れによって繋がっていて、冬場は凍結しているので3、4人乗りのカヌーの様な船を使って激しい移動をしていたという事が歴史的にあったそうです。分かり易く言うと、黒海とバルト海は繋がっているし、黒海とフランスとイギリスの間の海までは繋がっていると考える事が正しいのです。ヨーロッパを繋いでいる川の流れについては語るときりがない程複雑です。


 ヴァイキングが南に押し出してくる事によって、いまのイメージで言うロシアの南の部分にマジャール人という騎馬民族の一群が押し出されてそれがハンガリーにやって来たのが898年で極めて正確に記録が残っています。つまり、9世紀の終り頃に騎馬民族のマジャール人がハンガリーに入って来たという事です。そこから1241年から1242年にかけてモンゴルの蒙古が一大勢力となってユーラシア大陸を席巻していた頃、西はハンガリーからウィーンのところまで迫っていて、ハンガリーの王だったベーラ4世がブタペストを捨てて逃げなければならないという事まで起こっていました。一方、東では日本に蒙古が押し寄せて来たのは御存知の通り1274年(元寇・文永の役)なのでそれから30年くらい後なわけですが、西と東に大きく蒙古が張り出していた時代にハンガリーは蒙古=モンゴルの大きな影響を受けるのです。


 その後、1526年オスマン=トルコがやって来て、イスラムの支配の下にあったという時代がありました。そして、1697年からは隣のオーストリアのウィーンを中核にしたハプスブルグ家の支配の下に置かれて、1867年、19世紀の後半からはオーストリア=ハンガリーの二重帝国の時代がありました。


 このようにざっとお話をしてきましたが、ヴァイキングが動き、マジャール人が南下し、モンゴルの影響を受け、トルコの影響を受け、はたまたハプスブルグの影響を受ける等、要するにユーラシア大陸はこのようにして物凄い民族の隆替の中で形成されていたという事がわかります。


 第一次大戦の時にハンガリー=オーストリアの二重帝国が解体させられて、歴史的な意味においてハンガリーは終わったと言われているのは1920年です。面積を3分の1くらいまでにされて、ナチと連携して動いていた時代があり、第二次大戦が終わると今度はソ連の支配の中に、東側と言われている陣営の中に取り込まれていたという歴史がありました。


 そのような流れの中で、ハンガリーの人たちは忍耐に次ぐ忍耐、その中での反抗に次ぐ反抗と言いますか、ソ連統治の中で1956年のハンガリー事件(ハンガリー革命)等がありました。要するに、このような反抗の中で多民族の抑圧を受けながら生き延びる術を持ち、ハンガリー人であるという人の3分の1以上が海外に亡命して住んでいると言われているくらいで、海外に大きく展開していかざるを得なかったわけです。


ここからが本日の話の趣旨となるのですが、「どこを見てもハンガリー人だ」という言い方があるのですが、びっくりするくらいハンガリー人が海外に展開しているわけです。欧米でもハンガリー人が多くて、例えば、私自身も大変に影響を受けた社会学者のカール・マンハイム(註.2)という人がいますが、この人もハンガリー人です。そして、ジョージ・ルカーチ(註.3)というマルクス主義の哲学者もハンガリー人なのです。音楽家で言うとバルトーク・ベーラです。一番驚くのはアメリカのジャーナリズムの賞でピューリッツアー賞がありますが、このジョーゼフ・ピューリッツアーという人もハンガリーから亡命してアメリカで成功したジャーナリストです。先程、話題に出したジョージ・ソロスもハンガリー人です。このように海外で活躍している色々な人たちがハンガリー人だという事をまず、頭におかなければなりません。

木村>  ともに多彩ですね。

寺島>  そして極めて優秀です。そこで問題は、アメリカにおける原爆の開発と広島、長崎の話に繋がっていきます。

「ハンガリー・マフィア」という言葉があるのですが、ドイツに亡命したり勉強に行って核等を研究していた原子物理学者たちはハンガリー系のユダヤ人が多かったのです。それらの人たちがナチに虐待されるという事を拒否して、アメリカに亡命しました。その中心にいた男が有名なレオ・シラード(註.4)でした。これがコロンビア大学の実験室で友達から借りた2,000ドルのお金を梃に、ドイツが原子力爆弾の開発をしている、つまりヒットラーが開発をしているという事に危機感を感じて自分の研究室で核の基本的な実験をやり始めて、ある程度見通しを立てたのが1939年3月だったと言われています。ユージン・ウィグナー(註.5)というプリンストン大学出身で1963年にノーベル賞を受賞したのもハンガリー・マフィアの一翼をしめる原子物理学者だったのです。水爆の父と呼ばれていたエドワード・テラー(註.6)という有名な人もいますが、この3人組がロングアイランドにあるあの有名なアインシュタインの家に働きかけに行って、「アメリカも原子力爆弾を開発しないとヒットラーにやられてしまう」とフランクリン・ルーズンベルトに提言してもらい、国防省から6,000ドルの予算をとって、1942年12月に初めて実験に成功しました。それがニューメキシコのロスアラモスに持ち込まれて実際の原子力爆弾をつくり上げるというプロセスに入っていったわけです(註.7)。

 つまり、整理して申し上げると、ハンガリーからアメリカに亡命した3人組がナチス・ドイツに対する拒否反応から力を合わせて開発のきっかけをつくったのがアメリカの原爆だったという事です。その原爆が広島、長崎の上に落とされました。
ハンガリーは日本にとって何の関係もない国だと思いがちですが、実は全くそうではなくて、ハンガリーの背負っていた歴史、つまり、民族の隆替の中で常に抑圧される側の中にいて、故郷を捨てて海外に展開しなければならなくなった人たちがたどついたアメリカにおいて先程の3人組の人たちがつくった原子力爆弾なるものが日本に襲いかかってきたといわけです。歴史の因果と言いますか、歴史の相関性、連鎖性という事です。誰が悪いとかそういう話ではなくて、歴史のなんともつかない因果性を感じながら私は今回ハンガリーを後にしました。
こ歴史を考えた時に、この種の相関性をたどりながらイマジネーションを働かせていく事が歴史をたどる妙味であると同時に、我々を非常に刺激して、そのような中で我々自身が生きているのだという事を感ずるのだと思います。
ハンガリー=オーストリアの二重帝国の時代に初めて日本はこの国との外交関係をつくり上げたのですが(註.8)、非常に不思議な因縁を背負っているという事を少し話題にしておきたかったのです。
木村>  歴史に「もしも」とか「こうであったら」という様な事はないのですが、このように考えてみると歴史の中でハンガリーに住む人たちがどんなに苦難の時代を過ごしたり、翻弄されたりという事がなければという事から考えていくと、さて、原爆はあったのか? という話になり、いまあらためて我々が地球上の国と国との関係やここに戦乱を起こしてはならないというところに実は問題意識として発展していくという事でもあるのですね。
寺島>  イマジネーションなのです。日本人はなんだかんだ言いながら、天然の自然条件によって守られてきた島国としての部分があって、なかなか民族や歴史の相関性等に対して目が向かないのです。私はハンガリーからロンドンに出て、ロンドンで宿泊したホテルでハンガリーの王宮で手に入れたハンガリーの国旗に少し手が加わったデザインのバッチを帽子につけていたら、ホテルのドアのところに立っていた山高帽を被った男性に呼びとめられて、「あなたはハンガリーのバッチをしているが、何故だ?」と聞かれたのです。その人は「自分はハンガリー人だ」と言って、私はこんなところにもハンガリー人がいるとのかとびっくりしました。彼らはバッチ一つを見てもビビッとくるものがあるのでしょう。
木村>  なるほど。これは地球規模で我々がどれほど歴史に対するイマジネーションを持つことが出来るのかという事においてもとても触発されるお話でした。我々はハンガリーと言うと場所もなかなか地図上で指し示せなかったりします。或いは、ハンガリー狂詩曲やハンガリー舞曲等というところでとどまっていましたが、あらためて歴史の深さを感じる事が出来ました。

<後半>
木村>  後半はリスナーの方からのメールを御紹介して寺島さんにお話を伺います。ラジオネーム「なかや工務店」の50歳台の方からです。

 「この間の総選挙で民主党が圧勝していわゆる55年体制が初めて実質的に崩壊しました。これによって日本はどのような変革をする事ができるのでしょうか? 来年は60年安保改定から50周年を迎えます。その事も踏まえて日本は今後、国際社会においてどのようなポジションを目指すのか、目指すべきなのか寺島さんの御意見を是非お伺いしたいと思っています」というメールです。
寺島>  今回の選択によって日本人が腹を括らなければならない事は、本当の意味で日本の戦後を見つめ直して戦後に積み残してきたり、ごまかしたりしたものに対して、戦後生まれの日本人があらためてしっかりとしたけじめをつけなければならないと言いますか、方向性を持たさなければならないという事だと思います。これはどういう意味かと言うと、日本の人口の8割以上が戦後生まれになって、概ね民主党の中核は戦後生まれ世代が占めてきているという事です。そこで、戦後なるものの日本が引きずった冷戦型の世界観からどれだけ脱却出来るのかというところが本当に問われているのだと思います。我々は戦後という日本に生きてきて、しかも、歴史的にみて日本の歴史の中でこれだけ平和で安定して幸せな時代を通過してきたわけです。つまり、国家が我々に強制してくるとか、徴兵制があるだとか、「お前はこのように生きろ」等と全体が我々に命じてくるような時代ではなくて、安定して平和な時代を過ごす事が出来たという事です。それらの人間が我々の後に来る世代にどのような日本を託して繋げていくのかという非常に重要なところにきていて、そのためには冷戦型の思考によってつくり上げた日本の防衛安全保障のシステムや日本の経済・産業の仕組み等の全体をしっかりとあるべき方向に向き直させるという事をいま実行しなければいけません。いままで通りでよいという事ではとても生きていけないのです。何故ならば我々を取り巻く環境が冷戦中とは大きく変わっているからです。例えば、中国が大きく力をつけて台頭してきていたり、世界のそれぞれの国が小国とはいえ自己主張をし始めて黙っていなくなったりしているのです。アメリカだけが一極支配で世界を束ねている状況だったのならば、ある面ではアメリカと轡を並べて一緒になって進んでいれば概ねそれほど大きな間違いはないという時代がついこの間まであったかもしれないけれども、世界は冷戦が終わった後20年間で大きく構造が変わってしまったのです。


 そのような中で自分の足元を見つめ直してこの国の生き方を再構築しなければなりません。一言で言うと、「脱冷戦型思考」です。これをどのような形で健全に取り戻していく事が出来るのか考え、考え、考え抜いて思慮深く日本をどのようにつくっていくのかという事が我々に問いかけられているテーマだと思います。

 防衛安全保障の問題については、いま出ている雑誌「文藝春秋」(10月号)に、日本のこれからの防衛安全保障に対する一つの切り口をかなり踏み込んだ形でロングインタビューを受けたものが掲載されています。関心のある方は読んで頂きたいと思います。


同時に、もう一つ問いかけられている事は、「日本の資本主義のありかた」だと思っています。政治だけが変わればよいという事ではなくて、経済界、産業界も大きく突きつけられているものがあると思います。

いま岩波書店から出ている「世界」という雑誌の10月号の「脳力のレッスン」の連載で私が書いているのが、「ビル・ゲーツの『創造的資本主義』」です。私はIT革命のフロント・ランナーだったビル・ゲーツは立派だったと思います。彼はアメリカの金融市場資本主義の行き詰まりに対して強い責任を感じていて、経営者としていったい経営というものはどのようにあるべきか、つまり、創造的資本主義を掲げて市場メカニズムでは解決出来ない格差や貧困等の問題を自分たちはどうすべきなのかという事を真剣に問いかけていて、私は非常に感激しました。日本の経営者の中に、特に次の世代の経営者と言っていいと思いますが、日本の資本主義のありかたはアメリカのウォールストリートの論理によって1990年代以降を走ってきたけれども、それが非常に大きな行き詰まりを見せているいまこそ、どのような経済産業社会をつくっていくべきかという問題意識を共有すべきなのです。まっしぐらに見つめなければならない事は政策の軸だと思います。
(註1、司馬遼太郎は旧制大阪外語大学<現在の大阪大学外語学部>のモンゴル語科を卒業している)
(註2、1893年ハンガリーのブダペストに生まれる。知識社会学の提唱者として知られ、著書に「イデオロギーとユートピア」等がある)
(註3、1885年ハンガリーのブダペストに生まれる。哲学者。著書に「歴史と階級意識」等がある)

(註4、1898年ハンガリーのブダペストに生まれる。ユダヤ系アメリカ人物理学者)

(註5、1902年ハンガリーのブダペストに生まれる。ユダヤ系物理学者)

(註6、1908年ハンガリーのブダペストに生まれる。ドイツのライプツィヒ大学等を経て、アメリカに亡命したユダヤ系物理学者)

(註7、ロバート・オッペンハイマーがリーダーとなって開始されたマンハッタン計画

(註8、1869年日墺修好通商航海条約締結)

日時: 2009年09月27日 09:00

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【寺島実郎プロフイール) :

経歴

1947年8月11日 北海道に生まれる

1973年 早稲田大学大学院政治学研究科修士課程修了

同年三井物産株式会社に入社

1983~84 年米ブルッキングス研究所出向

1987~91 年米国三井物産ニューヨーク本店情報企画担当課長

1991~97年 米国三井物産ワシントン事務所長

1997年4月~99年 三井物産業務部総合情報室長

1999年10月~2009年3月 株式会社三井物産戦略研究所所長

2001年6月~2006年3月 財団法人日本総合研究所理事長

2002年4月~2009年3月 早稲田大学大学院アジア太平洋研究科教授

2003年4月~2006年3月 三井物産株式会社 執行役員

2006年4月~2009年3月 三井物産株式会社 常務執行役員

2006年4月~ 財団法人日本総合研究所 会長

2009年4月~ 多摩大学 学長

株式会社三井物産戦略研究所 会長


※※現在就任中※※

1998年~

BIAC(OECDの経済産業諮問委員会)本部日本代表委員/貿易委員会副委員長

2001年~

文部科学省 中央教育審議会委員

日本テレビ客員解説員

2002年~

株式会社東京証券取引所アドバイザリー・コミッティー委員

森永製菓株式会社アドバイザリーボードメンバー

2003年~

国立大学法人評価委員会委員

2004年~

TBS番組審議会委員

全日本空輸株式会社経営諮問委員会委員

2005年~

経済産業省 資源エネルギー庁総合資源エネルギー調査会電気事業分科会原子力部会委員

国土交通省 国土審議会計画部会委 産業展望・東アジア連携専門委員会委員長

経済産業省 資源エネルギー庁エネルギー安全保障研究会座長

2006年~

経済産業省 産業構造審議会情報セキュリティ基本問題委員会委員長

2007年~

財団法人松ヶ岡文庫(鈴木大拙設立)理事

独立行政法人宇宙航空研究開発機構 宇宙科学評議会評議員

農林水産省 食料・農業・農村政策審議会専門委員

多摩大学将来構想委員会座長

NPO法人世界経営研究会理事

2008年~

社団法人日本プロジェクト産業協議会・JAPIC日本創生委員会委員長

内閣官房 地球温暖化問題に関する懇談会委員

経済産業省 地球温暖化対応のための経済的手法研究会

環境省 日本カーボン・オフセット・フォーラム(J-COF)アドバイザー

国土交通省 社会資本整備審議会専門委員

新潟市拠点化戦略アドバイザー委員

NPOネットジャーナリスト協会理事

国土交通省 2010年代に向けての物流戦略委員会委員

内閣官房 宇宙開発戦略本部宇宙開発戦略専門調査会座長

農林水産省 「FOOD ACTION NIPPON」食料自給率向上推進委員会委員

経済産業省 資源エネルギー庁総合資源エネルギー調査会総合部会委員

総務省 ICTビジョン懇談会委員

国土交通省 建設業等の国際展開支援フォーラム座長


※※その他付記すべき経歴※※

1999年~2001年通産省産業構造審議会臨時委員

2000年経済界大賞特別賞受賞

2000年~2005年宮城県政策顧問

2001年~2004年内閣府地方分権改革推進会議委員

2001年~2004年朝日新聞大仏次郎論壇賞審査委員

2002年~2003年連合(日本労働組合総連合会)運営評価委員

2002年~2004年東京大学運営諮問会議委員

大阪府政策顧問

お茶の水女子大学運営諮問会議委員

2003年~2004年神奈川県総合計画審議会会長

2003年~2005年共同通信社「報道と読者」委員会委員

2003年~2006年経済産業省産業構造審議会情報セキュリティ部会部会長

2003年~2007年日本経済団体連合会日本ロシア経済委員会ウクライナ研究会委員長

2004年~2005年経済産業省産業構造審議会総合エネルギー環境合同会議委員

IT戦略本部情報セキュリティ専門調査会情報セキュリティ基本問題委員会委員

2006年経済産業大臣表彰 個人表彰「情報セキュリティ促進部門」

2006年~2007年総務省情報通信審議会専門委員

2007年~2008年社団法人日本貿易会評議員
※※著 書※※

『地球儀を手に考えるアメリカ』 (東洋経済新報社 1991年)

『ふたつのFortune-1936年の日米関係に何を学ぶか』 (ダイヤモンド社 1993年)

『新経済主義宣言』 (新潮社 1994年)――第15回石橋湛山賞受賞

『ワシントン戦略読本―ホワイトハウスの見える窓から』 (新潮社 1997年8月)

『国家の論理と企業の論理―時代認識と未来構想を求めて』 (中央公論新書 1998年9月)

『団塊の世代 わが責任と使命―戦後なるものの再建』 (PHP研究所 1999年11月)

『1900年への旅―あるいは道に迷わば年輪を見よ』 (新潮社 2000年2月)

『「正義の経済学」ふたたび―日本再生の基軸』 (日本経済新聞社 2001年4月)

『寺島実郎の発言―時代の深層底流を読む』(東洋経済新報社 2002年1月)

『歴史を深く吸い込み、未来を想う―1900年への旅 アメリカの世紀、アジアの自尊』(新潮社2002年11月)

『脅威のアメリカ 希望のアメリカ―この国とどう向き合うか』(岩波書店 2003年11月)

『脳力のレッスン-正気の時代のために』(岩波書店 2004年12月)

『われら戦後世代の「坂の上の雲」-ある団塊人の思考の軌跡』(PHP新書 2006年4月)

『経済人はなぜ平和に敏感でなければならないのか -寺島実郎の発言Ⅱ』(東洋経済新報社 2007年2月)

『二十世紀から何を学ぶか―1900年への旅 (上)(下)』(新潮選書 2007年5月)

『脳力のレッスンⅡ-脱9.11への視座』(岩波書店 2007年12月)


財団法人日本総合研究所

会長 寺島実郎プロフィールページ

URL: http://www.nissoken.jp/rijicyou/profile/profile.html

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【同上引用終わり】以上の通り

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【参考リンク1】:【寺島実郎】:wikipedia :

   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BA%E5%B3%B6%E5%AE%9F%E9%83%8E


【同上リンク抜粋】:以下の通り

北海道雨竜郡沼田町生まれ。幼少期を芦別市で育つ。北海道札幌旭丘高校卒業、早稲田大学大学院政治学研究科修士課程修了後、三井物産入社。ニューヨーク本店業務部情報・企画担当課長、ワシントン事務所長、三井物産常務執行役員などを経て、2009年から現職。

著書『新経済主義宣言』で第15回石橋湛山賞を受賞。

既に1970年代末から論壇に寄稿を始めているが、1980年代末から米国の政治経済や日米関係を論じる知米派論客として広く注目を集めた。以後今日に至るまで論壇で活発に活動している。政治経済における東アジア統合を唱えており、憲法9条2項の改正とともに、対等な日米同盟とアジアでの多国間安保関係を提唱する一方で、軽武装・経済国家路線の堅持を説くなど、穏健な保守派として知られる。ジョージ・W・ブッシュ政権となって以降はしばしば反米的な発言をするが、本来は親米派であり、「親米入亜」(雑誌『潮』)を標榜している。

商社勤務の経歴を生かし、エネルギー戦略の観点から外交・安全保障・経済政策などを論ずることが多い。日本のエネルギー戦略の脆弱さを指摘して、「日本人は原発をもっと引き受ける覚悟が必要ではないか」(NHK-BS1「世界潮流2006」)と発言したこともある。

アメリカ同時多発テロ事件陰謀説に深い理解を示し、事件の背後には巨大な陰謀がある、ペンタゴンへの航空機突入はアメリカ政府の演出であり実際には突入していない、ユナイテッド航空93便テロ事件の墜落現場は偽装されたもの、自爆犯とされた19人のうち8人は生きている、と主張する書籍『9.11テロ疑惑国会追及』(藤田幸久編著・クラブハウス)のカバー[1]に、「9.11を合理的に直視・再考することの大切さ」「粘り強く事実を追い求めることは、現代史を謎に終わらせないために不可欠である」との推薦文を寄せた(2009年)

社会的活動 [編集]
文部科学省中央教育審議会委員(第1期 - 第4期)
同 国立大学法人評価委員会委員(第1期 - 第2期)

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【参考リンク2】: 【ジョージ・ソロス】 : Wikipedia :


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%83%BB%E3%82%BD%E3%83%AD%E3%82%B9

【同上リンク抜粋】:以下の通り
ジョージ・ソロスはエスペラント作家Tivadar Sorosの息子である。カウフマンの伝記“Soros”(2002年)によれば、Tivadarはハンガリー系のユダヤ人であり、第一次世界大戦の戦中と戦後に捕虜となり、ロシアから逃走し、ハンガリーのブダペストで自分の家族と合流した。

ソロス一家は、ファシストの台頭と反ユダヤ主義の広まりに応じて、1936年にアシュケナジムに多いSchwartz(シュヴァルツ)からSoros(ショロシュ)へと姓を変えた(参照:Kaufmann, p.24)。Tivadarは、この新しい名前が気に入った。この名前は、回文であり、それなりの意味があったからである。その意味について、カウフマンの伝記でも明確に述べられているわけではないが、ハンガリー語では「SOROS」は「並びの次」または「指名されている後継者」を意味し、エスペラント語では「上昇するだろう」(「上昇する」を意味するsoriの未来形)を意味する。彼の息子であるジョージは、生まれたときからエスペラントを学んだ。このため、彼は数少ないエスペラント語の母語話者である。ジョージ・ソロスは後に、典型的なユダヤ人家族に育ったことと、彼の両親は宗教的なルーツに対して慎重であったことを述べている。ただし、ジョージの父はユダヤのルーツを誇りにしていた。これは、彼のホロコースト体験を綴った回顧録「Masquerade」にも記述されている。

ジョージ・ソロスは2度結婚と離婚を経験している。最初の妻はAnnaliese Witschak、2番目の妻はSusan Weber Sorosである。最初の妻Annalieseとの間にロバート、アンドレア、ジョナサンの3子がおり、2度目の妻Susanとの間にアレクサンダーとグレゴリーの2子がいる。兄ポール・ソロス(Paul Soros)はエンジニアで慈善家、投資家、ニューヨークの名士としてもよく知られている。

少年期 [編集]
ソロスが13歳のとき、ナチス・ドイツが同盟国であるハンガリーを軍事的コントロール下に置いた(1944年3月19日)。そして、ハンガリーのユダヤ人に対しホロコーストによる殺戮が始まった。ソロスは、短い間だが、ナチスが設立したユダヤ協会に従事した。この組織は、ユダヤ人弁護士たちに退去命令を送るものであった。ソロスは、退去命令がもたらす結果について、関知していなかったと主張した。翌年、ソロスはブダペストでのナチス・ドイツ軍とソ連軍による熾烈な市街戦を生き延びた。その後、ソ連軍による虐殺を目の当たりにしハンガリーを出ることを決意する。この時期、ハンガリーのハイパーインフレーションの間(1945年 - 1946年)、ソロスは初めて通貨取引をした。

1946年、ソロスは西側でのエスペラント青年議会に参加することによってソ連の占領から逃れた。ソロスは幼児期(母語獲得期)からエスペラントを教えられていたので、彼は貴重な「著名人としての」エスペラントの「母語」話者である。

1947年、ソロスはイギリスに移住し、1952年にロンドン・スクール・オブ・エコノミクスを卒業した。1956年にはアメリカに移る。その意図はウォール街で著述家と哲学者として自立するのに十分な資産を稼ぐことにあったと述べている。

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【参考リンク3】: 【ロス・アラモス(Los Alamos National Laboratory、LANL)】
  :Wikipedia :
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%82%B9%E3%82%A2%E3%83%A9%E3%83%A2%E3%82%B9%E5%9B%BD%E7%AB%8B%E7%A0%94%E7%A9%B6%E6%89%80

【同上リンク抜粋】:以下の通り
ロスアラモス国立研究所(ロスアラモスこくりつけんきゅうじょ、Los Alamos National Laboratory、LANL)は、アメリカ合衆国ニューメキシコ州ロスアラモスに、第二次世界大戦中の1943年に、マンハッタン計画の中で原子爆弾の開発を目的として創設されたアメリカの国立研究機関である。

ロッキー山脈の南端の美しい森林に囲まれた広大な敷地(約110平方km)に2100棟もの施設が立ち並び、1万1300人の科学者・所員が勤務している。現在でも核兵器開発など合衆国の軍事・機密研究の中核となる研究所であるが、同時に生命科学、ナノテクノロジー、コンピュータ科学、情報通信、環境、レーザー、材料工学、加速器科学、高エネルギー物理、中性子科学、非拡散、安全保障など、様々な先端科学技術について広範な研究を行う総合研究所でもある。年間予算は22億ドルで、合衆国の頭脳が集まる名実ともに世界最高の研究機関であり、「合衆国の至宝」 と称される。研究所は「The world's greatest science protecting America(アメリカを守る世界で最も偉大な科学)」を標榜する。複雑系の研究で有名なサンタフェ研究所もロスアラモス国立研究所が母体となって設立された。

初代所長はロバート・オッペンハイマー。ここで開発・製造された原爆が、広島に投下された原子爆弾「リトルボーイ」、および長崎に投下された「ファットマン」である。(詳細:広島市への原子爆弾投下、長崎市への原子爆弾投下)

2000年5月にはセログランデで発生した山火事が研究施設の近くまで迫り、一時施設全体が封鎖された。

放射性物質の厳重な管理を怠ったり、機密情報を収めたディスクを紛失したりするなどの不祥事を続けざまに引き起こし、2004年7月16日に活動を一時停止した。

ロスアラモス国立研究所は、政府が所有し大学などが運営を行うGOCO形式(Government Owned Contractor Operated)の研究所で、エネルギー省の委託でカリフォルニア大学が60年以上に亘り管理・運営を行ってきた。2005年に行われた競争入札の結果、2006年6月からはカリフォルニア大学、ニューメキシコ大学、ニューメキシコ州立大学、ベクテル社(Bechtel)、BWX Technologies、Washington Group Internationalらで構成するLos Alamos National Security(LANS)という連合組織による運営体制に移行した。

==============
【参考リンク4】: タンマンハッ計画】 : wikipedia :
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%83%8F%E3%83%83%E3%82%BF%E3%83%B3%E8%A8%88%E7%94%BB

【同上リンク抜粋】:以下の通り

進言 [編集]
ナチス・ドイツが先に核兵器を保有する事を恐れた亡命ユダヤ人物理学者レオ・シラードらが、1939年、同じ亡命ユダヤ人のアインシュタインの署名を借りてルーズベルト大統領に信書を送ったことがアメリカ政府の核開発への動きをうながす最初のものとなった。この「進言」では核連鎖反応が軍事目的のために使用される可能性があることが述べられ、核によって被害を受ける可能性も示唆された。なお、以降アインシュタインはマンハッタン計画には関与しておらず、また、政府からその政治姿勢を警戒されて実際に計画がスタートした事実さえ知らされていなかった。
着手 [編集]
グローヴスとオッペンハイマー当初はルーズベルトは関心を示さずに検討委員会を設ける程度であったが、1941年にイギリスからユダヤ系科学者オットー・フリッシュとルドルフ・パイエルスの記した核エネルギーの兵器応用のアイディアを伝えられ、核兵器実現の可能性が高まると、1942年6月、ルーズベルトは国家プロジェクトとしての研究着手を決意する。プロジェクトの実施にあたっては「陸軍マンハッタン工兵管区」と名称が付けられた組織が行うこととなった。責任者はレズリー・リチャード・グローヴス准将が1942年9月に着任した。
計画 [編集]

計画に参加する科学者達のリーダーに選ばれたのは物理学者のロバート・オッペンハイマーである。オッペンハイマーの提案で研究所はニューメキシコ州ロス・アラモス (サイト Y、後のロスアラモス国立研究所) に置かれることが1942年11月に決定した。彼を研究所長に、ニールス・ボーア、エンリコ・フェルミ、ジョン・フォン・ノイマン (爆縮レンズの計算担当)、オットー・フリッシュ、エミリオ・セグレ、ハンス・ベーテ、エドワード・テラー、スタニスワフ・ウラムなど著名な科学者のほか、リチャード・ファインマンなど若手の研究者やハーバード大学やカリフォルニア大学など名門校の学生などが集められた。当時はコンピュータが実用化されていなかったために、計算だけを任務とする数学に優秀な高校生も集められた。
ロスアラモスの他にもシカゴ大学冶金研究所やカリフォルニア大学バークレー校など多くの施設がマンハッタン計画に参加し、アーサー・コンプトン、レオ・シラード、アーネスト・ローレンス、ジョン・ホイーラー、グレン・シーボーグなどが協力した。ウラニウムの分離施設と計画の司令部はテネシー州・オークリッジ (サイト X、後のオークリッジ国立研究所) に置かれ、プルトニウムの抽出はワシントン州・リッチランド北西郊外 (サイト W、後のハンフォード・サイトで現在も米国で最大級の核廃棄物問題の箇所 [1] ) で行われた。米国以外ではカナダのモントリオール大学が計画に参加している。この計画に対しては多額の資金(当時の価格で19億ドル)が投入された。

開発 [編集]

マンハッタン計画の開発は秘密主義で行われ、情報の隔離が徹底された。 別のセクションの研究内容を全く伝えず、個々の科学者に与える情報は個別の担当分野のみに限定させ、全体を知るのは上層部のみというグローヴスの方針には自由な研究を尊ぶ科学者からの反発も強かった。ウラン濃縮には電磁濃縮法が使用された。当時、電磁石に用いる銅の使用が制限されていたので国立銀行から銀を借りて使用した。銀線の方が電気抵抗が少なく多少たりとも消費電力削減に貢献した。

原爆投下 [編集]

1945年3月、連合国によりドイツが原爆を開発していない確証が得られると、ジェイムス・フランクやシラードらは、フランクレポートの提出など、対日戦での無思慮な原爆使用に反対する活動を行った。
しかし、アメリカは世界で初めての原子爆弾を開発し、7月16日にトリニティ実験を行い爆発に成功した。開発された原子爆弾は、8月6日に日本の広島に投下され、さらに8月9日に長崎に投下された。
開発状況を描いた書籍・映画作品 [編集]

書籍 [編集]

リチャード・ローズ (神沼二真, 渋谷泰一訳) 『原子爆弾の誕生』(上/下) 1993, 啓学出版; 1995, 紀伊國屋書店, ISBN 4314007109 (上巻), ISBN 4314007117 (下巻);

Richard Rhodes, The Making of the Atomic Bomb, 1987, Simon & Schuster.

ピューリッツァー賞受賞のノンフィクション。

映画 [編集]

シャドー・メーカーズ (Fat Man and Little Boy, 米, 1989)

— ポール・ニューマン出演の創作を交えた劇場公開用映画。ベルリン国際映画祭ノミネート。

デイ・ワン (Day One, 米, 1989)

— 史実に忠実に作られたテレビ映画。エミー賞 (ドラマ部門最優秀作品賞) 受賞。

デイ・アフター・トリニティー(The Day after Trinity, 米,1980)

—マンハッタン計画とロバート・オッペンハイマーの半生を綴ったドキュメンターリー映画。1980年アカデミー賞、ベスト・ドキュメンタリー映画部門に入選。
脚注 [編集]

^ ワシントン州ハンフォード (アメリカ合衆国環境保護庁) (英語)

関連項目 [編集]

ウィキメディア・コモンズには、マンハッタン計画に関連するカテゴリがあります。核兵器

日本の原子爆弾開発

ドイツの原子爆弾開発(German nuclear energy project)

アメリカ原子力委員会

スウェーデンの原子爆弾開発

英国の原爆開発計画

外部リンク [編集]

The Manhattan Project An Interactive History 米国エネルギー省のサイト

The Manhattan Project-名前の由来に関する新説を紹介したニューヨークタイムズの記事

この「マンハッタン計画」は、戦争に関連した書きかけ項目です。この記事を加筆・訂正等して下さる執筆協力者を求めています(P:戦争/PJ軍事史)。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%83%8F%E3%83%83%E3%82%BF%E3%83%B3%E8%A8%88%E7%94%BB」より作成

カテゴリ: マンハッタン計画

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【参考リンク5】: 【ロバート・オッペンハイマー】 :Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%AA%E3%83%83%E3%83%9A%E3%83%B3%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%83%9E%E3%83%BC

                      
                      ロバート・オッペンハイマー


J・ロバート・オッペンハイマー(J. Robert Oppenheimer, 1904年4月22日 - 1967年2月18日)は、ユダヤ系アメリカ人の物理学者である。
理論物理学で国際的な業績をあげたが、第二次世界大戦当時ロスアラモス国立研究所の所長としてマンハッタン計画を主導。卓抜なリーダーシップで原子爆弾開発プロジェクトの指導者的役割を果たしたため「原爆の父」として知られたが、戦後の水爆開発に際して核兵器に反対の立場に転じた。

目次 [非表示]

1 略歴

1.1 生い立ち

1.2 原爆開発

1.3 水爆反対活動と公職追放

2 後年

3 業績

4 脚注

5 外部リンク
略歴 [編集]

生い立ち [編集]

ドイツからの移民の子としてニューヨークで生まれた。父はドイツで生まれ、17歳でアメリカに渡ったジュリアス・オッペンハイマー、母は画家東欧ユダヤ人のエラ・フリードマンである。

非常に早熟で、子供の頃から鉱物や地質学に興味を持ち、数学や化学、18世紀の詩や数ヶ国の言語(最終的には6カ国語を操った)を学んでいた。一方で運動神経にはあまり優れず、同世代の子供たちと駆け回って遊ぶことはほとんどなかった(ただしセーリングと乗馬は得意だった)。彼はハーバード大学に入学し、化学を専攻した。1925年に最優等の成績を修めてハーバード大学を3年で卒業すると、イギリスのケンブリッジ大学に留学し、キャヴェンディッシュ研究所で物理学や化学を学んだ。オッペンハイマーはここでニールス・ボーアと出会い、実験を伴う化学から理論中心の物理学の世界へと入っていくことになる。彼は実験物理学が発展していたケンブリッジから、理論物理学が発展していたゲッティンゲン大学へ移籍して、博士号を取得した。ここでの業績には、マックス・ボルンとの共同研究による分子を量子力学的に扱う「ボルン-オッペンハイマー近似」がある。1929年には若くしてカリフォルニア大学バークレー校やカリフォルニア工科大学助教授となり、物理学の教鞭を執った。1936年には教授となる。生徒などから呼ばれた愛称は「オッピー」。

原爆開発 [編集]
アインシュタインとオッペンハイマー第二次世界大戦のさなか、1942年には原子爆弾開発を目指すマンハッタン計画が開始された。オッペンハイマーは1943年ロスアラモス国立研究所の初代所長に任命され、原爆製造研究チームを主導した。彼らのグループは世界で最初の原爆を開発し、ニューメキシコでの核実験(『トリニティ実験』と呼ばれている)の後、日本の広島、長崎に落とされることになった(→広島市への原子爆弾投下・長崎市への原子爆弾投下)。
弟のフランクが後日ドキュメンタリー映画『The day after Trinity』の中で語った所では、世界に使う事のできない兵器を見せる事により戦争を無意味にしようと考えていたそうであるが、人々が新兵器の破壊力を目の当たりにしてもそれを今までの通常兵器と同じように扱ってしまったと、絶望していたそうである。 また、戦後原爆の使用に関して「科学者(物理学者)は罪を知った」との言葉を残している。
水爆反対活動と公職追放 [編集]

戦後は核兵器の国際的な管理を呼びかけ、原子力委員会のアドバイザーとなってロビー活動を行い、かつソ連との核兵器競争を防ぐため働いた。水素爆弾など核兵器に対して反対するようになったため、「水爆の父」ことエドワード・テラーと対立した。
冷戦を背景に、ジョセフ・マッカーシーが赤狩りを強行した。 これがオッペンハイマーに大きな打撃を与える。妻のキティ、実弟のフランク、フランクの妻のジャッキー、およびオッペンハイマーの大学時代の恋人ジーン(Jean Tatlock)は、アメリカ共産党員であった。また自身も共産党系の集会に参加したことが暴露された。1954年4月12日、原子力委員会はこれらの事実にもとづき、オッペンハイマーを機密安全保持疑惑により休職処分(事実上の公職追放)とした[1]。オッペンハイマーは私生活も常にFBIの監視下におかれるなど生涯に渡って抑圧され続けた。
後年 [編集]

オッペンハイマーは後年、古代インドの聖典『バガヴァッド・ギーター』の一節、ヴィシュヌ神が自らの任務を完遂すべく、闘いに消極的な王子を説得するために恐ろしい姿に変身し「我は死なり、世界の破壊者なり」と語った部分を引用してヴィシュヌを自分自身に重ね、核兵器開発を主導した事を後悔していることを吐露している。戦後、原子爆弾を生み出したことへの罪の意識からか、日本の学者がアメリカで研究できるよう尽力するようになった。
1947年にはアインシュタインらを擁するプリンストン高等研究所所長に任命された。
業績 [編集]

オッペンハイマーは、中性子星の研究にからんで、星の質量がある限度を超えれば、中性子にまで縮退した星がさらに圧潰する可能性を一般相対性理論の帰結として予測し、ブラックホール生成の研究の端緒を開いた。しかし、彼のブラックホール研究は、マンハッタン計画への参画によって中断した。

脚注 [編集]

^ 原子力委員会は同年5月27日にはオッペンハイマーを「危険人物」と認定している。

外部リンク [編集]

The Day after Trinity(映画)

ウィキメディア・コモンズには、ロバート・オッペンハイマーに関連するマルチメディアがあります。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%AA%E3%83%83%E3%83%9A%E3%83%B3%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%83%9E%E3%83%BC」より作成

カテゴリ: アメリカ合衆国の物理学者
マンハッタン計画の人物
ドイツユダヤ系アメリカ人
東欧ユダヤ系アメリカ人
1904年生
1967年没

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【参考リンク6】: 【オーストリアー=ハンガリー帝国】:Wikipedia :
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%AA%E3%82%A2%EF%BC%9D%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%82%AC%E3%83%AA%E3%83%BC%E5%B8%9D%E5%9B%BD

==============

【参考リンク6】: 【ピューリッツアー賞】: Wikipedia :

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%83%E3%83%84%E3%82%A1%E3%83%BC%E8%B3%9E

【同上リンク抜粋】:以下の通り

賞は毎年21の分野を対象とし、このうち20の分野での受賞者に1万米ドルの賞金と賞状が、公益分野での受賞新聞社に対しては金メダルが与えられる。
同賞は、ハンガリー系アメリカ人ジャーナリストおよび新聞経営者ジョセフ・ピュリッツァーの遺志に基づき、1917年に創設された。同氏の遺志により、遺産の一部がコロンビア大学に寄付され、1912年にジャーナリズム科大学院 (Graduate School of Journalism) が創設された。同校は、現在に至るまで、アイビーリーグ唯一のジャーナリズム専門の大学院である。初回は、1917年6月4日に発表されたが、翌年から毎年4月に受賞者が発表されている。受賞者は、独立した理事会により選考される。2006年現在の理事会は、コロンビア大学学長を理事長とする19名で構成されている。うち4名はコロンビア大学関係者(学長、ジャーナリズム大学院校長、他2名)、残り15名は、学外の実務経験者、学者等で、最長任期は9年である。
ジャーナリズムの中でも新聞等の印刷報道が対象であり、テレビやラジオ等の放送ジャーナリズムは対象外である。放送ジャーナリズムを対象とした賞としては、1941年に始まったジョージア総合大学のHenry W. Gradyマス・メディア/ジャーナリズム大学が運営するピーボディ賞と、その1年後に始まったコロンビア大学ジャーナリズム大学院が運営するデュポンコロンビア賞 (DuPont Columbia Award) がある。

沿革 [編集]

ニューヨークワールド紙の発行者だったジョゼフ・ピュリッツァーは、1903年4月10日に死後の財産のうちコロンビア大学にジャーナリズム学部を創設するために200万ドルを寄付する協定にサインしたが、そのうち50万ドルをピュリッツァー賞にあてるという条項があった。ピュリッツァーは記者の資質の向上を願い、やがてコロンビア大学のジャーナリズム学部はミズーリ、ノースウェスタン両大学と並ぶ三大ジャーナリズム学部の一角となる[1]が、ピュリッツァー賞は彼の思惑以上に権威を持つことになる。ピュリッツァーが自らニューヨーク・ワールドで語った内容によると、「社会的不正義と当局の汚職の摘発こそ、審査を貫く基準である」[2]と語り、その基準によって「公益」部門を最上の賞として金メダルを設定した。そのため、権力側が隠蔽していた不正の報道による受賞は、1992年の時点では全体の40%を占めている。 ピューリッツァーの対象となる部門は、遺言を元に当初9部門の賞が設定された。すなわち、ジャーナリズム部門が公益、報道、社説、新聞史の四つ、文学が小説、伝記、アメリカ史の三つ、「戯曲」が一つ、そして「ジャーナリズム学部の発展と改善」をテーマにした論文の一つを賞の対象とした。しかし、新聞史は1918年度のみ受賞者が出ただけで以後取りやめとなり、論文に至っては応募がまったくなかったため、これも中止された。1922年には「時事漫画」が追加され、1942年には「写真」分野も追加される。また取材対象の広がりにあわせてジャーナリズム部門は細分化していった。また、文学も加重されていき、1922年には詩が追加され、1962年にはノンフィクションを追加、さらに小説分野はフィクションに改められ、対象の分野を広げた。1943年には新たに音楽のジャンルも追加されている。 賞金は開始当初のもので、公益が金メダル、アメリカ史が2,000ドル、その他1,000ドルとなっており、その後一律で1,000ドルとなった。その額は物価の変動に関わらず長い間据え置きとなり、1989年にようやく3,000ドルに引き上げられた。

=======

部門一覧 [編集]
以下は、2006年現在のもの。
報道部門

公益 (Public Service):社説・写真・時事漫画・報道など、ジャーナリズムによって社会の公益に貢献した新聞を対象とする。この賞は新聞社に対して与えられるが、個人名も併せて挙げられる。

ニュース速報報道 (Breaking News Reporting)

調査報道 (Investigative Reporting)

解説報道(Explanatory Reporting)

ローカル報道 (Local Reporting)

国内報道 (National Reporting)

国際報道 (International Reporting)

特集記事 (Feature Writing)

論説 (Commentary): 際立った論説に対して。

批評 (Criticism):際立った批評に対して。

社説 (Editorial Writing)

時事漫画 (Editorial Cartooning)

特集写真 (Feature Photography): カラーもしくはモノクロの特集写真に対して。

ニュース速報写真 (Breaking News Photography): カラーもしくはモノクロのニュース速報写真に対して。

文学芸能部門

フィクション (Fiction): アメリカ人著者によって書かれたフィクション。アメリカを題材に扱ったものが好まれる。


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【参考リンク7】: 【ビル・ゲイツ】 :Wikipedia :

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%93%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%B2%E3%82%A4%E3%83%84




                 ビル・ゲイツとスティーブ・ジョブズ

ゲイツは、1955年10月28日にシアトルでウィリアム・ヘンリー・ゲイツ・シニア(1925年 - )とマリー・マクスウェル・ゲイツとの間に生まれた(姉にクリスティ、妹にリビーがいる)。ゲイツ家は裕福な家庭で、父は法律家、母は銀行役員の秘書として働いていた。彼は小学校を優秀な成績で卒業し、特に算数と理科が得意だった。その後、シアトルの私立レイクサイド中学・高校に入学した。レイクサイド校は、1967年当時シアトルで授業料が最も高い学校だった。レイクサイド校ではDEC社のPDP-10を生徒に貸しており、そこでコンピュータに興味を持つようになった。高校生のとき、友人のポール・アレンとともにトラフォデータ社を創業し、州政府に交通量計測システムを納入したり、オレゴン州ポートランドの会社の、COBOLでの給与計算システムの作成を手伝ったりしていた。1973年に、ゲイツはハーバード大学に入学、そこで後のマイクロソフト社員となるスティーブ・バルマーと知り合った。

1975年、ポピュラー・エレクトロニクス誌にアルテア8800のデモが載っていたのを読んだゲイツは、アルテア8800を販売していたハードメーカーMITSに電話をかけ、実際には未だ何も作成していないBASICインタプリタについて「私は作成に成功した。購入してくれないか?」と鎌をかけた。その結果、返事が返ってきたため、同社がBASICの販売に関心があると見抜き、それから開発を開始した。8週間後、ゲイツとアレンの寝食を忘れたプログラミングの結果BASICは完成する。 いざ完成してMITSの本社のあるニューメキシコのアルバカーキに運ぶ際、アレンがBASICのブートローダの開発を忘れていたことに気がつき、移動中の飛行機中で完成させた。このときゲイツはボストンの大学寮でアレンの帰りを待っていた為同席はしていない。そしてゲイツはハーバード大学を休学し、アルバカーキに引っ越してアレンと共にマイクロソフト社(当時はMicro-Softと綴った)を創業した。

1980年、IBMよりOSの開発を要請された際に、Seattle Computer Products社から$56,000で手に入れたCP/M互換OS、86-DOS (QDOS) をPC-DOS (MS-DOS) という名前で納入し、現在の基礎を作った。$56,000の価格については、破格の条件でありタダ同然の価格でだまし討ちであったと言われ、後に100万ドル支払っている。


しかし、パロアルト研究所でAltoを見ていずれMS-DOSでは将来的に通用しなくなる事も理解していたため、Windowsの開発に乗り出した。断られたりはしたが、Mac OSのライセンス契約をしようとしたり、Macの最初のサードパーティとしてMac OS用のWordやExcelの制作も、そういった動きの一環だと見る向きもある。そして、Macintoshの発表前に、アジア圏を中心にWindowsを発表。結果的にApple社を出し抜いた形になったため、ここからスティーブ・ジョブズと彼との、または、Macを愛用する者とWindowsを使用する者との確執は始まったとも言われているが間違いである[2]。当時の、タイリングしか出来ないDOSのシェルであったWindows 1.0は初期のMacに比べても非常に貧弱でソフトもほとんどなく、米国ではWindows 3.1、日本ではWindows 95が出るまではライバルと成り得なかった。AppleとMicrosoftの訴訟合戦はジョブズがAppleを去った後のことであり、ジョブズが1997年にAppleに戻ってから全ての訴訟で和解している。同社の開発したオペレーティングシステムのMicrosoft Windowsは1990年代後半には世界1位の市場占有率となり、彼の名は世界に知れ渡った。
ビル・ゲイツとスティーブ・ジョブズ2000年1月にCEO職をバルマーに譲り、現在はマイクロソフト社の会長。アメリカの雑誌フォーブスの2006年世界長者番付によると、個人資産は推定530億ドル(日本円で約5兆3000億円)で13年連続の世界一となっていた。大半は同社株の売却益や含み益で、現在も同社株を約8億5000万株(発行済株式数の約9%弱)を保有している。

2007年の米長者番付で、マイクロソフトのビル・ゲイツ会長が資産総額590億ドル(約5兆9000億円)で14年連続トップとなった。同会長の資産は前年よりもさらに60億ドル膨らんだ。

2006年6月15日、2年後の2008年7月に第一線から身を退き、ビル・アンド・メリンダ・ゲイツ財団での活動を重視し、同日、CSA(Chief Software Architect、主席ソフトウェア設計者)職をレイ・オジーに移譲すると発表があった。会長職には留まる予定。2007年にはフォーブスの世界長者番付で第2位となった。ちなみに第1位は中南米の携帯電話会社América Móvilなどを所有するメキシコの富豪、カルロス・スリム・ヘルとなった。 2009年度版のフォーブスでは推定資産400億ドルと世界的な金融危機で各々の総資産が減少する中、ゲイツ氏も前年度より180億ドル減少したが、再び第1位に返り咲いた。

2008年6月30日をもって会長職にはとどまるものの、フルタイムの仕事からは引退した。

家族 [編集]

一緒にいるのは妻のメリンダ・ゲイツ(2009年)テキサス州ダラス市生まれのメリンダ・フレンチ(旧姓)と1994年1月1日に結婚し、長女ジェニファー(1996年生)、長男ローリー(1999年生)、次女フィービー(2002年)の3人の子供とともにシアトル郊外、キング郡マダイナに在住(2005年7月現在)。

エピソード [編集]
韓国政府(李明博政権)の政策顧問である国際諮問委員の一人である[3]。
ハーバード大学を休学し、2007年名誉学位号が授与された。立教大学から名誉博士号を授与されたときには、「大学を出ていない私が大学からこのような学位を得られて嬉しい」と語っている。
ナポレオンの研究家でもある。世界で唯一個人でレオナルド・ダ・ヴィンチの手稿「レスター手稿」を保有している。「レスター手稿」72枚をオークションで30億円で購入した。2005年に日本で行われた「レオナルド・ダ・ヴィンチ展」に、この「レスター手稿」が提供されたため、日本に初上陸となった。これにより、日本の一般市民でも「レスター手稿」を閲覧する事が可能になった。
世界初の印刷聖書であるグーテンベルク聖書を個人で所有している。自著『ビル・ゲイツ未来を語る』などでは、インターネットの普及による社会的な影響力をの大きさをグーテンベルクの活版印刷になぞらえるなど、グーテンベルクの研究にも熱心である。
ピンボールが好きで、自宅にも何台か設置されている。
資産家であると同時に、倹約家としても知られている。仕事のため世界中を飛び回っているが、一般旅客機に乗る時には極力エコノミークラスに座るようにしている。来日した際に、日本法人のスタッフからファーストクラスのチケットを渡されると「日本のマイクロソフトはこんな無駄遣いをする会社なのか。何だこのファーストクラスの搭乗券ってのは。1時間ちょっとのフライトに、何故そんな無駄な会社の金を使うんだ!」と激怒したという。マスコミのインタビューで、エコノミークラスを好む理由を質問された際には「会社の金でも個人の金でも、無駄なことに金を使うことは理解できない。ファーストクラスの料金に何倍もお金を払ってみたところで、到着する時間は皆同じなのだから」と答えた[4]。
自家用ジェット機も所有しているが、使用する際には、整備費や燃料代は会社側に一切請求せず、全て自前で料金を支払っている[4]。
ホテルに泊まる際も、部下がどこのホテルで、どのような部屋を用意しても「こんな大きな部屋はもったいない、寝る場所とネットがアクセスできればそれで良いのだから」と、たしなめる事が多かった[4]。
食事の好みもかなり質素なものである。ジャンクフードが好物で、食生活はマクドナルドが中心だという[5]。マクドナルドでは、フィレオフィッシュが好きであり、幕張メッセでの講演で来日し、モーニングメニューでフィレオフィッシュがなかった時、メディア関係者に「朝でもフィレオを食べるためには(マクドナルド社を)買収するか!」とアメリカンジョークを飛ばしたほど。
ベルギーを拠点に活動している「パイ投げスナイパー」と呼ばれる集団にパイを顔面にぶつけられた。
地元のMLB球団シアトル・マリナーズのファンである。セーフコ・フィールドの年間指定席を購入しており、時たま観戦に訪れる。
同じシアトルに本社を置く関係から、任天堂の米国法人(Nintendo of America、NOA)の首脳陣と交友がある。中でもNOA初代社長の荒川實とはゴルフ友達で、かつては同じ町に住んでいたことも有る[6]。
ビル・アンド・メリンダ・ゲイツ財団 [編集]
詳細は「ビル&メリンダ・ゲイツ財団」を参照


2008年、世界経済フォーラムでのビルゲイツ(右からU2のボノ、ビル・ゲイツ、ヨルダンのラーニア女王)、イギリスのゴードン・ブラウン首相、ナイジェリアのウマル・ヤラドゥア大統領ビル・ゲイツが彼の妻メリンダ・ゲイツ、父親のウィリアム(ビル)・ゲイツ・シニアとともに作った慈善団体。2005年には国際団体「ワクチンと予防接種のための世界同盟」に、民間としては最大規模の7億5000万ドルの寄付を発表した。

財産管理は主にメリンダが行っており、寄付をする際の検査は、厳格に調査していると公表している。

なお、2006年6月15日の記者会見にて、2008年7月にマイクロソフト社の経営とソフト開発の第一線から退き、「ビル&メリンダ・ゲイツ財団 (B&MGF)」の活動に専念すると発表した。早期に引退し慈善活動に携わることが成功者の美徳とされるアメリカの慣習に法った決断と言える。

2006年12月1日には、夫妻の死後50年以内に財団の資産を使い切って活動を終えると発表した。同基金は「我々が取り組んでいる問題を今世紀中にめざましく進展させるため」と、存続期間を限定した理由を説明している。

同基金は、途上国のエイズ、マラリア、結核の根絶や教育水準の改善などに尽力しており、今後は寄付を拡大する方針も明らかにもしている。

2006年06月、投資家ウォーレン・バフェットは374億ドルの資産のうち、85%にあたる310億ドルをB&MGFに寄付をおこなうと発表した。

注記 [編集]
^ "The World's Billionaires". Forbes (2009-03-11). 2009-03-11 閲覧。
^ なお、ジョブズとの間に一悶着あったのは事実である。Macintosh開発舞台裏を追った『Revolution in The Valley』によると、Windowsの発表を知ったジョブズは激怒しゲイツをアップルへ呼びつけた。現れたゲイツは落ち着き払った態度で臨み、「僕たちにはParcというお金持ちのお隣さんがいて、僕が盗みに入ろうと思ったら先に君が盗み出していたようなものじゃないかな」と言い放ったという。
^ ゲイツ会長、韓国大統領の助言役に 産経新聞 2008年5月7日
^ a b c 私の知っているビルゲイツ、その6 古川 享 ブログ
^ ゲイツ氏「食生活はマクドナルド中心」「今後も助言」 MS樋口社長が語る ITmedia News 2008年07月01日
^ NHKスペシャル『新・電子立国』第4巻「ビデオゲーム・巨富の攻防」(相田洋著、日本放送出版協会、1997年)p.202
関連項目 [編集]
ハーバード大学の人物一覧
外部リンク [編集]
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ビル・ゲイツ最多得票 - 過去25年でIT業界に最も影響力を持った人物
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ビル・アンド・メリンダ・ゲイツ財団
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【岡田外務大臣会見記録(9月29日付)(テキスト版(要旨)/動画版)】

http://www.youtube.com/user/mofachannel#p/u/8/qshpzjNK9jU

http://www.mofa.go.jp/mofaj/press/kaiken/gaisho/g_0909.html#10-B

【外務大臣会見記録(要旨)】(平成21年9月)
【岡田外務大臣会見記録(9月29日付)(テキスト版(要旨)/動画版)】


【出展引用リンク】:

【出展1】:【 動画版】

http://www.youtube.com/user/mofachannel#p/u/8/qshpzjNK9jU
         
【出展2】:  

http://www.mofa.go.jp/mofaj/press/kaiken/gaisho/g_0909.html#10http://www.mofa.go.jp/mofaj/press/kaiken/gaisho/g_0909.html#10mailto:http://www.mofa.go.jp/mofaj/press/kaiken/gaisho/g_0909.html#10

【出展3】:【テキスト版】:

   http://www.mofa.go.jp/mofaj/press/kaiken/gaisho/g_0909.html#10-B


【出展2: テキスト版:引用始め】以下の通り
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INDEX

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岡田外務大臣会見記録(9月29日付)(テキスト版(要旨)/動画版)

■冒頭発言
(1)大臣会見等の開放とその基本的な方針について
(2)外遊について
大臣会見等の開放とその基本的な方針について
普天間移設問題
■来年度予算要求
■アフガン支援
■日露首脳会談(領土問題)
■東アジア共同体
■日韓外相会談
■核軍縮
■民主党職員及び政策秘書の8月の米国訪問
■日米関係
■地球温暖化問題
■天下りの見直し
■日メコン外相会議
■「密約」問題に関する調査

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岡田外務大臣会見記録(9月18日付)(テキスト版(要旨)/動画版)
■冒頭発言
(1)大臣会見に関する基本方針
(2)国連総会等への出席
(3)キャンベル米国務次官補との会談
■キャンベル米国務次官補との会談
■「密約」問題に関する調査命令
■外務省の情報発信体制(会見のオープン化、事務次官会見の中止等)
■鈴木議員の衆議院外交委員長就任
■米軍基地再編問題
■北朝鮮拉致問題
■新大臣を迎える会
■国連総会等への出席
■核の先制不使用
■温暖化に関する閣僚委員会

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岡田外務大臣会見記録(9月17日付)(テキスト版(要旨)/動画版)
■冒頭発言-「密約」問題に関する調査命令
■「密約」問題
■米軍再編問題
■インド洋における補給支援活動の延長
■事務次官会見の廃止
■北朝鮮問題
■副大臣、政務官に関する人事
■国家戦略室と外交政策の関係
■日米外相会談
■軍縮・不拡散
■集団的自衛権
■東アジア共同体
■日中関係
■核の先制不使用
■WTO交渉

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中曽根外務大臣会見記録(9月16日付)(テキスト版(要旨)/動画版)
■冒頭発言-離任挨拶
■外務大臣在任中の所見と新内閣への期待

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中曽根外務大臣会見記録(9月15日付)(テキスト版(要旨)/動画版)
■冒頭発言-天野大使の次期局長任命のIAEA総会での承認
■北方領土問題
■在日米軍再編問題
■インドネシア・コタパンジャンダム事業訴訟に関するテレビ朝日の報道について
■内政(八ッ場ダム建設問題)

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中曽根外務大臣会見記録(9月11日付)(テキスト版(要旨)/動画版)
■冒頭発言-「ソマリア周辺海域海賊対策に関する第4回コンタクトグループ会合」の開催
■インド洋における補給支援活動
■核密約問題
■在日米軍再編等
■内政(事務次官会見の廃止)

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中曽根外務大臣会見記録(9月8日付)(テキスト版(要旨)/動画版)
■冒頭発言-「ODAの不正・腐敗事件の再発防止のための検討会」報告書の受領
■内政(政権移行関連)

--------------------------------------------------------------------------------
中曽根外務大臣会見記録(9月4日付)(テキスト版(要旨)/動画版)
■北朝鮮関連(北朝鮮国連大使から安保理への書簡)
■内政(小沢代表代行の新幹事長就任及び首班指名)

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中曽根外務大臣会見記録(9月1日付)(テキスト版(要旨)/動画版)
■内政(衆院選結果)
■東シナ海「白樺」油ガス田
■「密約問題」について

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岡田外務大臣会見記録(平成21年9月29日(火曜日)17時40分~ 於:本省会見室)

冒頭発言

(1)大臣会見等の開放とその基本的な方針について


(外務大臣)暫く留守をして会見も空いてしまいましたが、今日はまず冒頭、前回の記者会見の時にお諮りをした、私(大臣)と副大臣なども含めてですが、会見の開放と基本的な方針についてお配りした資料にあるように改めて方針を決定させて頂きましたのでご説明をしたいと思います。9月18日付けでお示ししたように、全てのメディアに会見を開放するということに致しました。18日に一旦方針をお示ししましたが、外務省記者会霞クラブから様々なご意見を頂き、この間その実施を見合わせてきた訳ですが、霞クラブから記者会見の開放そのものについての明確な見解は示されませんでした。従って、あれから時間も10日以上経ったということで、別添の基本方針に基づいて、今日から大臣、副大臣の記者会見を全てのメディアに公開することにしたいと考えています。資料にありますように基本的方針ですが、大臣、副大臣はそれぞれ週二回、副大臣は二人いますので一人一回になりますが、記者会見を行う。正副報道官は週一回、外務省内のこの会見場において定例記者会見を開催致します。時刻は15時を原則に、国会開会中、公務その他で移動があることはご了承頂きたいと思います。上記1の会見は、外務省記者会所属メディアに限らず原則として全てのメディアに開放するということで、日本新聞協会会員、日本民間放送連盟会員、日本雑誌協会会員、日本インターネット報道会協会員、日本外国特派員協会会員及び外国記者登録証保持者、上記メディアが発効する媒体に定期的に記録等を提供する者と決めさせて頂きたいと思います。上記会見に参加するメディアは外務省ホームページを通じて所定の手続きを行って頂き事前に登録をするということでございます。なお、外務省記者会からお話がありました閣議後の取材の機会が失われるということに関しては、閣議後も短時間のぶら下がりには応じるということに致します。ただ、前回申しましたように閣議後の会見は今までも行われてきた訳ですが、国会内で行われることが多く、なかなか多くの方が取材が出来ない、事実上制限をされるということがありますので、閣議後のぶら下がりについては閣議に関する最低限の事だけはそこでお答え致しますが、基本的には本省に帰って本省での正式な記者会見の場でお話を申し上げたい。従って、閣議に関する事以外のことは、その場ではお答え致しませんのでご了解を頂きたいと思います。全体として、閣議後のぶら下がりも含めると私は週4回やる訳で、従来と比べてかなり実質的な時間は増えたということが言えるかと思います。そして、次官、局長懇談、在外大使の会見や実務者のブリーフ等は従来通りということにしたいと思います。お配りした紙には経緯が書いてあり、参考ですが、外務省記者会からご意見も頂いておりました。そして閣議後のぶら下がりについては先ほど説明した形で、その要望に沿った形にさせて頂いたところです。記者会見を全てのメディアに開放するということに関しては、意見の一致をみることができませんでした。引き続き、加盟社、上位組織の話し合いを見守りながら検討するというご回答でしたので、時間も随分経ったということで、ここは私(大臣)の判断で先ほど申し上げたようなことで開催を今後させて頂くということに致しました。もしこれ以上従来のやり方を続けるということになりますと、それ以外の記者の皆さんの取材の機会を奪うことになりかねませんし、国民の知る権利にも関わることですので、こう判断したことをご了解頂きたいと思います。


(2)外遊について


(外務大臣)この間、ニューヨークへの出張と上海への出張とございました。いろんな形でブリーフされていますので、そのことについてご説明は致しませんが、ちょっとスケジュールが過密すぎるという感想は率直にございます。今週はまたカンボジアにも行くということで、慣れない生活でやや疲れておりますが、元気に頑張っていきたいと思います。外務大臣の仕事というのはやはり、外務大臣同士がお互い何度か顔を合わせてフランクに話せる関係を作り上げること、そのことがあって初めて意味が出てくるのかなと感じました。そういう意味ではいろんな機会を捉えてなるべく外へ出て、或いは日本に来られる外相の方には勿論必ずお会いして、お互いの信頼関係をしっかり作り上げていきたいと思っているところです。


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大臣会見等の開放とその基本的な方針について
(問)岡田大臣がこのような形で正当な取材の機会を与えて下さったことにまず敬意を表します。質問ですが、事実関係の部分で、今日のこの会見は霞クラブ主催なのでしょうか。或いは岡田大臣の主催なのでしょうか。それに関連してもう一点が、この会見に関して、ここは基本的に外務省の建物ですが、いわゆる国民の財産の建物の中で、その民間団体である記者クラブの主催だとしたら、その法的根拠というのは何処にあるのか教えて頂けますか。


(外務大臣)今まで主催についてはどういう答弁をしていますか。


(報道課長)霞クラブと協議しながら、基本的には外務省が主催する形で本省では行われてきました。


(問)外務省が行っていると。


(外務大臣)ということです。


(問)もう一つ、法的根拠は外務省が主催だということで。


(外務大臣)はい。


(問)明日政務三役会議があると聞いていますが、政治主導で政策を決めていくことと政策の決定を透明にするということが政権交代の意義でもあったと思うのですが、政務三役会議で話されたことは、それは公開されるのですか。何らかの、こういうことが決まったと発表されるのですか。


(外務大臣)どこまで公開できるかという問題はあると思いますが、それは決まった後の大臣ないし副大臣の会見でご質問が出れば、お話しさせて頂きたいと思います。しかし、どこまで話すかという問題は勿論あると思います。


(問)決まったその日ではなく、次の日ならば次の日まで待ってくれということですか。


(外務大臣)今のところ、そう考えています。


(問)その日起こったことについても国民の知る権利ということに関して言えば、外務省でどういう政策決定が行われているかということはいろいろと興味あるところだと思います。会見でやりたいというのは原則分かりますが、どのような形で国民の知る権利に応えていくのか、政策決定の透明性という観点からどうなのかと。


(外務大臣)あまり国民の知る権利という言葉を振りかざさない方が私はいいと思いますが。


(問)大臣が会見で言われたので私は使っております。


(外務大臣)私(大臣)はまさしく開放するということは知る権利にかかわる根本問題だと思ったから言ったんです。必要があればその場でお話しすることもあって良いと思いますが。


(問)岡田大臣の同僚議員から聞いた話ですが、総理官邸の平野官房長官が、小沢代表や鳩山代表がインターネットやフリーの記者を会見に入れると言ったにもかかわらず、我々を閉め出した理由として、内閣記者クラブを持つ大メディアから圧力があり、平野官房長官は大メディアとの全面戦争を避ける為、やむなく閉め出したと答えていました。岡田大臣、そして大臣の周辺には大メディアからの圧力はなかったでしょうか。


(外務大臣)特に私は感じておりません。


(問)それなりのプッシュはあったのでしょうか。


(外務大臣)特にありません。


(問)質問ではないのですが、岡田大臣の決定に関しては、(私は)外国特派員協会の副会長をしていますから、本当に感謝しています。これから宜しくお願いします。


(外務大臣)お手柔らかにお願いします。


(問)他の役所で新しく着任した大臣の記者会見を開きたいということを言うと、必ずセキュリティの問題とキャパシティの問題 、たくさん人が来たらどうするんだという話や、いろんな人が来て靴でも投げられたらどうするんだという話が出ます。外務省はおそらくセキュリティが非常に重要な役所の一つだと思いますので、この記者会見開放の方針を貫徹される上で、この二つの問題をどのようにクリアされたのでしょうか。参考までにお願いします。


(外務大臣)セキュリティの問題は各省庁で対応が違いますので、一概に申し上げることは出来ないと思います。本日もセキュリティチェックはさせて頂いてやや不快な思いをされた方もいらっしゃるかもしれませんが、ある程度安定してくれば登録証を発給してそれで入省できるようにしたいと思います。何れにしても、それは試行錯誤でありますので、しかも各役所で違いますので一番オープン化が進んでいるのは現時点では外務省になりますので、我々がいろいろやっていく中でそれが他の役所にも伝わっていけば良いと思っております。


(問)今回は開放ありがとうございました。今迄の会見というのはよくわからないのですが、今迄は小じんまりとして、もう少しお行儀の良い感じだったのではないかと思いますが、今回のこういう、ある種国民の知る権利からすると画期的な会見というのに立ち合われてどのようにお感じになられているかお願いします。


(外務大臣)実はこの会見は二回目なんです。就任の時以来ですから、そういった意味でたくさんメディアの方がおられたんですね。次回以降お客さんが非常に少なくならないようにしたいと思います。


(問)会見室の隣には外務省記者会、霞クラブの部屋があるのですが、事実関係としてこの部屋は賃貸契約をされているのでしょうか、それとも外務省側で何らかの金銭的な負担をされているのでしょうか。


(外務大臣)承知しておりません。次回お答えします。


(問)今回、会見が開放されまして、取材ができる条件に日本インターネット報道協会会員であることというのが入っていますが、インターネットメディアに関して、外務省報道課にお尋ねしたら大臣の意向であると伺ったので、なぜこの協会を選んだのかが一点と、この協会は非常に少数のメディアしか加盟しておりませんので、これに加盟していることという条件があるので、PJニュースでは取材の許可がおりません。そうしますと、インターネットメディアに対する開放がまだ足りないと感じるのですが、基準の見直しを今後考えていますか。


(外務大臣)一定の実績・実体がある協会であればかまわないのですが、現時点では今言われたような形になっています。他にこういう協会があるとかがありましたら、検討の俎上には載せさせて頂きたいと思います。


(問)やはり協会会員の方よりメディア毎の申請というのはどうですか。


(外務大臣)メディア毎ですと、これはどうやって調べるのかという問題が発生しますので、事実上全くのフリーということになってしまうと思います。それは、今の段階ではセキュリティの問題とかいろいろ考えますとできないだろうと思っています。


(問)日本インターネット報道協会を選んだ理由はなんでしょうか。


(外務大臣)一定の実績を持った協会だということです。


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普天間移設問題
(問)普天間問題について伺います。訪米等を通じて米国高官と普天間問題について意見交換をしたかと思いますが、その結果、大臣は普天間を現行ロードマップ通り辺野古沖に移設するのが良いと考えておられるのか、それとも県内で別の案を考えられるのか、それとも県外或いは国外移設が望ましいと考えられているのか、現時点でどのようにお考えになっていらっしゃるのかを教えて下さい。


(外務大臣)現時点で私の考えは言わないほうが良いと思います。基本的な考え方としては、マニフェストには書きませんでしたがその前の沖縄ビジョンの中では県外・国外と言っております。その根本にあるのは、沖縄への過重な負担、それを減らしたいという思いです。その思いは今も変わっておりません。他方でこの問題は、当然の事ながら日米間で話し合ってきた問題であり、かなり進んできた話です。そういう状況の中で一体どういう道があるのかと、私達の思いと現実と、その間にある溝をどうやって埋めることができるのか、それがこれから我々が取り組まなければならない課題で、基本的に米側とも率直に話をしていきたいと思っています。具体的に今のご質問にお答えするのは時期が早いと思います。


(問)総理は県外・国外移設を目指すという考えを表明されています。北沢(防衛)大臣は県内移設という考えを堅持する意向を示されていますが、内閣不一致のような感じがするのですが、この受け止めは如何でしょうか。また北沢大臣は近く外務大臣、内閣府、総理大臣とともにこの問題について協議したいとおっしゃっているのですが、そういう予定或いは受けられる考えはございますか。


(外務大臣)まず総理が言われた思いは、これは沖縄マニフェストに書かれたことで、思いとしては私も同じ思いです。その背景にある考え方は、沖縄の負担を減らしたいということは、今説明した通りです。北沢大臣は現場を見て、いろんなご感想があったのだと思いますが、皆お互いまだ閣僚に慣れていませんので、率直に言いすぎているところがあるかもしれませんね。総理も交えたというのは、私の判断で、時期が早すぎると思っています。どういう体制で内閣の中でこの問題を取り組んでいくのかということを、官房長官も交えて相談をして早急に決めたいと考えているところです。


(問)早急に決めたいということですが、総理が外遊の中の記者に対する発言で、果たして年内に決めることなのかどうかという、決める時期についてやや慎重な発言をされていたのですが、一方で岡田外相は、予算の関係もあるので年内に片付けなければならないというご発言をされていると思うのですが、どういう結論か、何らかの目途を示す時期について、オバマ大統領の訪日もあるのですが、どういうふうに考えていらっしゃるかということを伺いたい。


(外務大臣)まず総理のご発言は、翌日またご発言になっていて、沖縄の事を考えると急いだ方が良いという趣旨のことを言っておられるので、今ご指摘の発言だけではないということです。私も必ずやると言っているのではなく、思いとして年内、或いはオバマ大統領訪日までに一定の目途をつけたいという私の思いを申し上げた訳で、そこに齟齬はないと思います。


(問)ただ、外相自身もおっしゃっているように予算の問題もありますので、そこは思いとかとは別に一定の結論を出さざるを得ないと思うのですが、そこはどう考えていらっしゃいますか。


(外務大臣)予算は勿論予定が変わればその段階で変えることは出来ますから。しかし、なるべく予算書の中にきちんと書かれていた方が良いことは間違いないと思います。


(問)大臣は普天間飛行場の移設の問題について再検証するという考えを示していますが、これは変更を機に新しい滑走路を造るという公共事業のあり方に疑問があるのではないかというお考えがあって再調査になるのか、もしなんらかの疑問が見つかった場合は計画を白紙に戻すお考えがあるのか、再検証というのはどういう形で誰が行って、いつ発表されるのかをお聞きします。


(外務大臣)再検証という意味はどういうプロセスで今の場所に決まったのかということをきちんと調べたいということです。我々は政権の座にありませんでしたので、決定したプロセスがよく分からない、他にも考え方はいろいろあったと思いますが、なぜそこに落ち着いたのかということをきちんと、当時にどういう議論が行われて、どういうメリット、デメリットの判断があってそこになったのかということを調べてみたいということです。その中で、我々が納得できるものなのか、そうでないのかということを議論しなければいけないと思います。これは米国側に米国の方でも検証してくださいということを申し上げております。


(問)納得できない場合は撤回する可能性もあるということですか。


(外務大臣)あまり仮定の議論はしない方がいいと思います。


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来年度予算要求
(問)来年度の予算要求についてです。今日の閣議で総理は概算要求をもう一回作り直して、来月15日に再提出と聞いています。ゼロベースでの見直しということですが、現時点で大臣が考えていらっしゃるこういった部分・分野、或いはこの項目はもっと削れるとか、或いは追加する、増額するという考えはどうでしょうか。


(外務大臣)暫く留守をしていましたので、まだ具体的に予算書に分け入って見るチャンスはないのですが、明日政務三役会議をやりますから、副大臣がそれぞれ精査をして貰っていますのでそれをよく協議した上でお話しをした方がいいと思います。


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アフガン支援
(問)関連ですが、概算要求でアフガニスタン・パキスタン支援については現状で400億円を計上している訳ですが、これは来月15日までにある程度予算の話で出すことになるのでしょうか。それとももっと大臣がおっしゃっているように11月の中旬のオバマ米大統領訪日、或いは年内までこの件については検討を続けるのでしょうか。


(外務大臣)これも数字を置くことは幾らでも出来ますが、中身がきちんとしたものになると10月15日は少し厳しいかと思います。その際にとりあえずもう少し大きな数字を置くのか、それとも追加的に12月の三案が決定される段階で急遽入れるのか、それは技術的な話ですので、どちらが良いかよく考えながら進めていきたいと思います。


(問)アフガン支援についておうかがいします。中井国家公安委員長が今日の会見の中で、鳩山総理がオバマ米大統領に対して、アフガンの警察の訓練を考えてみたいということをニューヨークで伝えられたということを仰っていましたが、これは具体的にどういうことを想定されているのか、日本の警察官がアフガンに行って訓練にあたるのか、或いは向こうの方から来ていただくのか、或いは訓練組織にお金を出すという話しなのか、具体的な考えはいかがでしょうか。


(外務大臣)おそらく日米首脳会談での発言だと思いますが、具体的にそのように当時仰ったのか記憶に残っておりません。何れにしても様々なことが考えられますが、具体的な可能性を詰めていくのはこれからになりますので、一つの例として仰ったのだろうと理解しております。今、(警察官の)給与は日本が出している訳ですね。


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日露首脳会談(領土問題)
(問)大臣も同席されたと思いますが、ニューヨークでの日露首脳会談で領土問題について、これから外相レベルの話し合いをしていこうということで一致されたと聞いています。実際に11月のAPECの時に次の首脳会談が行われると思いますが、外相レベルの話し合いというのは、いつから、どのくらいの頻度で行われるというのを大臣は想定されていますか。


(外務大臣)外相レベルでというお話しはロシア側から出た話です。APECでというのは日本側から出た話です。弱冠そこの詰めはその場ではされないまま終わっておりますので、APECの時には勿論、首脳会談をするというのは当然だと思いますが、その前に外相レベルの話し合いを持つのか、或いは、もう少しAPECで地ならしをした上でその後から外相会談で詰めていくのかということについては、私はまだ決まっていない状況だと思っております。これから総理とも相談してどういった手順で進めていったらいいのか決めていきたいと思っております。


(問)総理は半年で国民の期待に応えたいと仰っておりますが、大臣はアフガンの問題ですとか、米軍再編とかいろいろお忙しくて交渉の加速が簡単ではないだろうと思いますが、その辺りの兼ね合いはどのようにお考えでしょうか。


(外務大臣)それは総理の意欲を語ったものだと思います。ただ、相手のある話ですので、実際始めてみないとどういう状況か、ということはわかりません。この外相会談でも具体的なことはわからないということでしたので、勿論チャンスがあればそのチャンスを逃さずにという気持ちもありますけれども、果たして、そういう時期なのかどうかという見極めはまだついていないというのが私の率直な思いです。


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東アジア共同体
(問)東アジア共同体についてお尋ねします。昨日の日中韓外相会議で大臣の方からお話しをされて、その後大臣はぶら下がりで一定の賛同を得られたという趣旨のことを仰っておられました。今後外務省として、或いは政府として鳩山内閣の掲げる東アジア共同体の具体像を決める、例えば作業チームを作るとかそういったことは考えておられるのでしょうか。


(外務大臣)私(大臣)のブリーフもあったのですが、三外相での会談で東アジア共同体というのは一つのテーマであったことは事実ですが、報道されたようにこの話ばかりしていた訳ではありません。東アジア共同体というのは、将来のビジョンでありまして、会談の場でも申し上げましたし、いろんな場で申し上げているのですが、EUのような形になる、つまり統一通貨を持ち、お互いがある意味でかなり主権を制限するという状況というのは政治体制が異なる中では出来ないとのことで、そういう意味では、すぐにそういったEUのような状況が出来る訳ではないと、今出来ることは東アジア共同体という大きなビジョンを持ちながら、目の前にあることを一つ一つ積み上げていくことだと思っております。東アジア共同体というものがどういうものか具体像を詰めてみても詰め切れないと思いますし、それよりは一つ一つ着実に積み上げていった方が良いと、その先にある将来のビジョンとして捉えておけば良いのだと考えております。


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日韓外相会談
(問)これから、柳明桓韓国外交通商部長官との会談が行われますが、ポイントはどこにおかれますか。一方で北朝鮮に関する問題が主題になるかと思いますが、米朝協議を巡って少しずつ期が熟して来ているのではないかという分析もありますが、米朝協議に向けた現状、近い遠いどのように分析されていらっしゃますか。


(外務大臣)先ず、柳明桓韓国外交通商部長官とは、会談では北朝鮮の問題を中心に議論してみたいと思います。そして、米朝協議は何らかの動きがあるのではないかと思いますけれども、その辺りも韓国側の見方も含めて意見交換したいと思います。何れにしても、六者協議の枠内でということを米国は言っておりますので、その点については米朝で話し合うということは我々は全体の六者での協議が進む、これに資するものであると認識しております。


(問)会談の中では、天皇陛下の韓国ご訪問ですとか、永住外国人の地方選挙権の付与問題についても議題になるかもしれないのですが、このようなことについて、どのようにお考えでしょうか。


(外務大臣)会談の前にこういうことを言って良いのかということもありますし、天皇陛下のご訪韓の話しは具体的に今出ている訳ではありませんので、ここで先走ってお答えするのは如何なものかと思います。外国人参選権の問題も現状について率直にお話しておきたいと思います。


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核軍縮
(問)今回の訪米で核軍縮というのが一つの大きなテーマですけれども、日本は核軍縮を主導的に導いていく立場だと思うのですが、一方で米国の拡大抑止力、核の傘の下に入っているという現実もありまして、核で守られている国が核をなくせという、長期的には矛盾はないのかもしれませんが、短中期的には矛盾があるといった見方もあります。その点について日本として短中期的にどのように核軍縮と核の傘の関係を考えているのでしょうか。


(外務大臣)ここはよく議論しなければいけないと思っております。外務省の事務方とも議論を始めておりますけれども、私のかつての持論は核の非保有国に対する核の行使は認められないというふうにすべきではないとか或いは先制不使用とかいうことを外務大臣になる前に私の考え方として申し上げておりました。それに対する異論もある訳で、よく議論として省の中で、その上で今のお答えを申し上げたいと思います。


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民主党職員及び政策秘書の8月の米国訪問
(問)既に一部でも報道されておりますけれども、衆議院解散後に大臣の衆議院議員としての政策秘書と民主党の政策事務局の職員が8月に訪米されたと思います。これは民主党幹事長としてどのような狙いで派遣をされたのか、それから、私としては大臣が就任直後に「密約」に対する大臣命令を出されたのは非常に素早かったと、この時ワシントンにある大使館のファイル数もある程度大臣が把握なさっていたようですけれども、この辺りは何か8月のミッションと関係があるのでしょうか。


(外務大臣)結論から申し上げますと関係ありません。選挙中に党の職員と私の政策秘書が米国に行ったのは事実です。これは、米国政府の方からの非公式に意見交換したいという申し出がありました。今だから言えることですけれども、政権交代を受けるのを見越してそういう話しだったと思います。こういう事で党の職員を派遣することにした訳ですが、そのサポートとして私(大臣)の政策秘書をつけたということです。


(問)鳩山代表の正式な名代として行かれたのでしょうか。


(外務大臣)勿論、そうです。


(問)もし差し支えなければ、例えば先方の最高位で会われたのは カート・キャンベルさんでしょうか。


(外務大臣)それは申し上げない方がいいと思います。


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日米関係
(問)大臣は日米交渉がインド洋でのパッケージだと仰っているのですが、それはどういう意味か、パッケージという意味を説明して頂きたいというのが一点と、そのパッケージというのは勝手に日本側が思っているのか、それとも日米の間でパッケージで協議するという共通の認識が出来ているのか、この点について教えて下さい。


(外務大臣)日米間でそういうことはありません。パッケージという言葉が適切かどうかは分かりません。前々から言っておりますように、例えばアフガニスタン、或いはパキスタンに対する支援の問題とインド洋の問題は別の問題です。こちらをやるから、あちらをやらないというそういう関係には基本的にないと考えています。しかし、日米関係ということで見ると沖縄の基地問題、米軍再編も含めて様々な問題全体を、これは交渉ですから、交渉と言う言葉を使ってはいけないとキャンベル米国務次官補は言うのですが、話し合いですから全体でお互いに納得できたら話し合いになると、一つ一つの問題で合意することにあたって全体のその他についても当然その背景にはあると、そういうのをパッケージと申しています。


(問)パッケージ論で国民新党の下地さんが全く違った見解をされていまして、アフガンでこれをやるから、沖縄はこうだと、そういう全体でリンクしているのだという言い方をしているのですが、それと認識は違うのでしょうか。


(外務大臣)基本的には別々の話です。しかし同じ日米関係でやっている訳ですから、全体の姿というのは見ながらやっていかなければいけないということだと思います。あるところではギブ、あるところではテイクということになったとしても、全体で整合性がとれていれば話は纏まる可能性がある。


(問)気になっているのは、アフガン交渉とインド洋の交渉は沖縄交渉より優位な立場にあるのではないかというニュアンスを感じられたことです。このアフガンを優先するということの中で沖縄の方の交渉が後退してしまう危険性を感じたものですから。


(外務大臣)それは逆ですね。


(問)大臣は先程、沖縄の負担軽減という話しを仰いましたけれども、普天間の移設というものは、嘉手納以南の米軍施設の返還だとか、もしくはグアムへの海兵隊の移設といった負担軽減の部分もパッケージになっています。その辺りの整合性についてどのようにこれから交渉・協議をされていくおつもりでしょうか。


(外務大臣)整合性とはどういうことですか。


(問)つまり、沖縄の負担軽減というところが、普天間のパッケージになっている訳ですよね。普天間の県外移設を拒否した場合はグアムだとか米軍施設の返還というところに影響が出てくるかと思うのですが。


(外務大臣)影響が出ないようにするのが交渉だと思います。


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地球温暖化問題
(問)地球温暖化についてお伺いします。明日に温暖化問題に関する閣僚委員会が官邸で開かれるとのことですが、どのような話し合いがもたれるのかというのが一点と国民に現在示されている削減モデルというのは前政権で作られた2005年比15%削減というのをベースにしたモデルだと思いますが、COP15の交渉が12月に控えていることも見据えた上で、国内との整合性をどう取るのかをお伺いしたのですが。


(外務大臣)基本的には明日はニューヨークにおける鳩山演説をベースに話をするという連絡が来ているわけですが、前回の関係閣僚会議の際に私の方から、もう一度きちんと前提条件を変えて計算をし直すべきだということを言ってあります。例えば、温暖化が進んだときのマイナスの影響というのは全く盛り込まれていない計算です。それから、いろいろな前提をおいて計算しているわけですが、その前提が果たして正しいかということについて、個人的にも大いなる疑問を持っています。ですから、もう一回そういうことを場を変えて、内閣の中に議論する場を作って、そして検討し直すべきだという問題提起を前回してありますので、そのことに対する一定の答えというのが出てくるのではないかと期待しています。これは急がないと間に合いませんので、是非それを着手してもらいたいと考えています。


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天下りの見直し
(問)鳩山政権による天下り見直しの動きが進んでいる関連でお伺いしますが、現在、大使ポストは外務省のOBでほとんど占められている訳ですが、民間や外務省以外の役所の方に開放していく考えがあるのかと、外務省不祥事を受けて、平成14年にまとめられた「外務省を変える会」報告書では外務事務次官は最終ポストであって、それ以降の大使転出は認めないとあるのですが、その方針は踏襲されるのでしょうか。


(外務大臣)「外務省を変える会」の報告書の位置づけがよく分かりませんので、それをそのまま全部受け入れてやるという性格のものだったのか、提言だったのかというのは分かりませんので、お答えできません。恐らく事務次官がその後に大使をしないということであれば、どこかできちんと決定しなければならないと思いますが、そういう決定はないのだろうと私は思っています。それから、大使ポストを天下りと同列に論じることはいかがなものかと私は思うわけですが、いまでも他省庁や民間の登用も少ないながらもあります。今後も必要に応じて、そういったことを考えていけばいいと考えています。


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日メコン外相会議
(問)今週末に行われる日メコン外相会議についての意気込みとその場でも東アジア共同体のビジョンについて話されるのかをお伺いします。


(外務大臣)東アジア共同体という考え方は説明したいと思います。そして、一つひとつ実績をあげていくと申し上げましたが、メコンにおけるインフラの整備とかはそういったことは重要なステップであると考えています。


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「密約」問題に関する調査
(問)密約の検証ですが、どのような状況になっているのかと今後はどういうような展開になっていくのかについて材料があればお聞かせください。


(外務大臣)11月末までに調べるということになっていますので、これから行われていく調査、必要に応じて中間報告を受けながら、とにかく調査をしっかり進めていくということだと思います。チームのスタート時に私(大臣)はおりませんでしたので、明日には少しチームに私の考え方を改めて伝えたいと思っています。そして、後で新たなことが出てこないようにきちんと調べる、徹底的に調べるということをお願いしたいと思います。


(問)密約調査の関連でお伺いします。現状の非核三原則について「持たず」「作らず」というのは非常にわかりやすいのですが、「持ち込ませず」ということについて外務省の英訳を見るときちんと「introduction/配備はしない」ということですが、外相の認識では日本の国是である非核三原則の「持ち込ませず」というのは、「entry/通過」「transit/寄港」もないことを含んだ上で「持ち込ませず」ということなのでしょうか。


(外務大臣)そのところについて、従来の国会における政府の答弁と伝えられる米国側の一部公開された資料との間に矛盾があるということです。その矛盾が本当にあるのかどうかということを検証するのが11月末までですから、その先のことは今は予断をもって言うつもりはありません。


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岡田外務大臣会見記録(平成21年9月18日(金曜日)17時45分~ 於:本省会見室)

冒頭発言
(1)大臣会見に関する基本方針について


(外務大臣)私から三点申し上げたいと思います。既に少しご説明していたことでありますが、大臣会見に関する基本的な方針ということでお話しをしたいと思います。この会見をこれから毎週2回を原則に行いたいと考えております。従来ですと国会開催中は閣議の後に行ってきたというケースが多かったと思いますが、少なくとも週1回は省内で会見をしたいと考えています。できれば2回ともと思いますが、そこは時間との関係、そして場合によっては週1回はぶら下がりに変えることがありますが、それも併せて週2回は必ず会見を行うということです。そしてその会見につきましては、外務省記者会所属メディアに限らず、原則として全てのメディアに開放したいと考えております。
 具体的には、日本新聞協会会員、日本民間放送連盟会員、日本雑誌協会会員、日本インターネット報道協会会員、日本外国特派員協会(FCCJ)会員及び外国記者登録証保持者ということにしたいと思っています。それ以外にいわゆるフリーランスの方々についても、今申し上げた様々なメディアに定期的に記事を提供する方については含めたいと考えています。そういった方々に事前に登録を行って頂くことによって基本的に全ての方に会見に出席して頂けるようにしたいと考えております。


•配付資料「大臣会見に関する基本方針について」(PDF)
(2)国連総会出席


(外務大臣)二番目ですが、私の国連総会等への出席ということで、日程は随分固まって参りました。月曜日の21日に成田を発ちニューヨークに参ります。日米外相会談、日米豪閣僚戦略対話等がありますので、少し早めに日本を出るということになります。その他、現在調整中ですが、様々な二国間会談、先程ミリバンド英国外相と電話会談を致しました。電話会談というかご挨拶を頂いた訳ですが、それも含めて二国間会談を精力的に行っていきたいと思います。その他G8外相会合等、様々な会合がございます。勿論、総理がご出席して演説される際には私も同席をさせて頂きますし、バイの会談についても必要に応じて私も同席をさせて頂くつもりです。最初にしては、かなり長い日程になりますが、最終的には土曜日の夕方に日本へ戻るという日程です。


(3)キャンベル米国務次官補との会談


(外務大臣)三番目にキャンベル米国務次官補が訪日中で、私も本日お会いしました。様々な意見交換を45分ほど致しました。最後は国会が始まるということで駆け足になりましたが、このような中で私自身旧知の友人であるキャンベル次官補と面会できることは感慨深いと申し上げ、そして、クリントン米国務長官との面会を楽しみにしていると申し上げました。日米同盟については30年、50年先も持続可能であり、そして更に深い関係が築けるように努力したいということを申し上げました。同時にオバマ大統領の来日にあたってしっかりとした準備をしたいと、このキャンベル次官補との会談をその第一歩にしたいと申し上げました。
 キャンベル次官補からは日米で緊密に協力して、21世紀の課題に対処していくことを楽しみにしていると、ルース大使はオバマ大統領が最も信頼を寄せている人物であるということを仰っていました。私からは当面私自身が力を入れていこうと思う課題として、三点あると申し上げました。これは皆様に就任の時の会見で申し上げた通りであります。在日米軍の再編の問題、アフガニスタン・パキスタンへの復興支援、12月のCOP15に向けた地球温暖化問題、この3つに当面力を入れたいと申し上げました。併せて「密約」の問題についても取り組むことで既に事務次官に対して命令をして、解明に取り組んでいるということを申し上げました。以上のようなことで、様々な、非常に有益な意見交換ができたと考えております。


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キャンベル米国務次官補との会談
(問)キャンベル次官補との会談ですが、在日米軍の関係でキャンベル次官補は再協議する用意があるというような趣旨の発言を報道機関との会見で仰っていたんですが、今日の会談では見直しについてはどういう意見交換をされたのでしょうか。


(外務大臣)今日、キャンベル次官補が言われたのは、原則は従来の合意されたものということを言われながら、それでなければだめだというような堅い言い方ではなかったと思います。


(問)大臣としては、それをお聞きになって、今後、交渉の余地は大いにあるというか、交渉を急がなければいけないとお考えになったのでしょうか。


(外務大臣)交渉の中身はともかくとして、この問題について私が申し上げたのは、沖縄で4つの小選挙区があり、その小選挙区で当選してきた人々は、我が党であったり、社民党であったりするけれども、普天間の辺野古への移転については反対ということを明確に言ってきたということです。それから我々は連立政権である。それから我が党自身もマニフェストの中では言っていないけれども、普天間の問題について、いろいろ発言してきたということもお話しておきました。そういう日本の政治的な状況について説明しておきました。


(問)キャンベル次官補についてですが、大臣が密約問題について言及されたのに対して、キャンベル次官補からどのような認識が示されたか教えてください。


(外務大臣)私の方から言及する時に、そもそも米国側が公表したものによって、日本の説明と食い違いがでてきたような問題だと申し上げました。従って、米国にとって支障がでることは基本的にないと申し上げました。


(問)キャンベル次官補からはそれに対する意見なり、感想はあったのでしょうか。


(外務大臣)特にそのことについてはありません。ただ、50年代、60年代のことであると理解していると、そのことがこれからの日米の関係に影響を及ぼすようなことではないと理解しているというお話でした。


(問)キャンベル次官補とは、北朝鮮問題についてのやりとりはあったのでしょうか。あったなら、その内容を教えていただけないでしょうか。


(外務大臣)北朝鮮の問題について、今日は特に話しておりません。時間も限られていた中ですから。


(問)キャンベル次官補との会談の中で、インド洋で日本が行っている給油について何かありましたか。


(外務大臣)ありません。アフガニスタン、パキスタンの復興支援については言及がありましたけれども、船(への給油)の話はありませんでした。


(問)米軍再編の関係ですが、大臣の方から取り組むべき課題という言い方をされたとのことですが、(大臣から)明確に反対しますという表現はされたのですか。


(外務大臣)日本の状況を説明した上で、これからよく協議をしなければいけない問題だと申し上げました。


(問)キャンベルさんとの話の中で、復興支援については発言があったということでしたが。


(外務大臣)重要性について私もキャンベル次官補も意見が一致したということです。そして、日本の、具体的な表現はちょっと忘れましたが、様々な、今まで行ってきたご支援に対して評価するというような話もありました。おそらく、警察官に対する給与を日本が出していることとか、JICAを通じて行っていた様々な、アフガンへの復興支援について言及されたものだと思います。


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「密約」問題に関する調査命令
(問)「核密約」の関係ですけれども、大臣の次官に対する命令は、従来からいろいろと話題になってきた「核密約」だけではなくて、4つの「密約」について指示されています。4つを束ねて調査するというところの意図とか考え方をお聞かせください。


(外務大臣)基本的にこの4つがですね、メディアなどでも報じられていることですので、どうせ調べるわけですから、この際ひとつだけではなく4つ全部を徹底的に調べさせようということで申し上げました。4つと言っても事実上は2つ、沖縄返還にかかわるものと安保改定にかかわるもの、2つにすることができます。
 折角のご質問ですから、若干申し上げておきますと、この前もちょっと申し上げましたが、ファイルの数が日米安保関係で、正確に言いますと2694冊。それから、沖縄返還関係で571冊。それから、アメリカ大使館の中に約400冊。アメリカ大使館の中に当時の資料が残っているということであります。こういうものが調査の対象になります。
 これを調査するためには、マンパワーが必要になります。アメリカ大使館のものはアメリカ大使館の中でやってもらいたいと思いますが、これ2つだけでも大変な量になります。従いまして、事務次官の下で調査チームを9月25日に立ち上げるということにしております。もちろん正式に立ち上がるまでの間も、順次調査はスタートさせていきたいと思っております。全体のとりまとめとして、北野官房審議官にヘッドになっていただこうということを、先ほど次官と相談しました。そして、全体で14から15人のメンバーで調査にあたるということにしたいと思います。その中の何人かは在外公館から一時的に戻ってもらって、その調査に参加をしてもらうというふうに考えております。


(問)密約が存在する存在しないということと別の問題として、今も有効かどうかという問題もあると思います。これはアメリカ側に対してうまく聞けば早く答えが出るのではないかと考えられるのですが、今、日米間で「核密約」は生きている、有効だというような意識がアメリカ側にあるかということを、例えばクリントン長官と会われる際とか、いろんなチャンネルで確認するという手もあるかと思うのですが、いかがでしょうか。


(外務大臣)今有効かどうかというよりも、「密約」が存在したか否かということが重要だと思っています。これはアメリカに聞くのではなく、日本自身がきちんと調査して情報公開することが重要だと考えています。


(問)核持ち込みの件で、有効かどうかというよりは、まず事実関係だと仰いましたが、有効かどうかというのは非常に重要ではないかと思います。今でも米国が有効と認識しているのであれば、我が国の国是である非核三原則との関係で抵触するのではないか。無効ということであれば、歴史の過去の出来事だと思うのですが、そういった点についてはどうでしょうか。


(外務大臣)有効かどうかという前に、そのようなものがあったのか無かったのかという確認が先だと思います。この確認無くして、有効かどうかを言うのは、私にはちょっと理解できません。これからどうかという話は出てくると思いますが、まずは事実関係をはっきりさせること、それをやっている中でいろいろなことを議論するということは、手が緩んでしまう可能性があります。まず事実関係を明確にし、国民に対して情報開示をして、その上でどうするかというのは、事実に基づいてすればいいと頭の中で整理しています。


(問)事実関係と言うことですが、調査の結果、「密約」なるものが存在していたということが明らかになった場合、歴代の外務省幹部の方は「密約は無い」と答弁してきた訳ですが、その責任を問われる考えはありますか。


(外務大臣)この問題については、調査の結果を見ないと一概には言えませんが、基本的に総理大臣や外務大臣が「無い」と言っている時に、(外務省の幹部が)「いや、あります。」と答弁しろと言うのは少し酷かなという感じは持っています。


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外務省の情報発信体制(会見のオープン化、事務次官会見の中止等)
(問)今回、会見を全てのメディアに開放するということを仰っていましたが、私が取材したところ、外務省と経済産業省以外の省庁では基本的に私のようなフリーランスの記者は大臣会見に出席することができなくて、出席できたとしてもオブザーバーとしての参加で質問もできないというような状況なのですが、このような閉鎖的な状況で、今回、会見をオープンにするという方針を発表された大臣としては、どのようにお感じになっていますか。


(外務大臣)それぞれの省庁で考え方があると思います。それと大臣の考え方ですね。私は最初は幹事長代理だった時ですかね、政調会長をやった時だったですかね、その時の民主党の会見をオープンにしました。私が幹事長になり、或いは代表になるに従って、オープンの範囲が広がってきました。私が全ての大臣をやれば、全部オープンになると思いますが、現状ではありえませんが。外務省なり経産省がオープンにして、それが支障がないということになれば、それが広がりをもってくるのではないかと思っています。基本的には、その省庁及び大臣が決めることです。


(問)会見の関係で、閣議後の会見というのは、閣議が日本の動静の中で非常に大きな位置づけをもっているということで、記者クラブの方も閣議が終わった後に会見をやっていただくということがいいのではないかと考えていたところがあります。お昼のニュースや夕刊がある中で、外相という非常に重要なポジションの方が(閣議後の)会見をやられないということには多少びっくりしました。今日、改めて方針を示されたわけですが、どのような運用がお互いにとって一番良いのかどうか、またはこれが決まりだからやってしまおうという姿勢なのでしょうか。


(外務大臣)基本的にはこういう方針でやりたいと思います。これからも閣議後ということはないわけではないのですが、少なくとも1回は省の中できちんとやりたいと申し上げたのは、閣議後の限られた時間の中で、つまり国会が始まるわけですから、やるのは本当の会見に値するものではないのではないかと私は判断しました。もう少ししっかりと皆さんの質問も頂きながら、誠実に答えるというのが本来の会見のあるべき姿で、閣議があった直後というのはそれなりにニュース性があるかもしれませんが、外交問題というのは、閣議案件のうちのごく一部に過ぎませんので、やはり基本的にはここ(外務省会見室)に戻ってしっかりとやる。そのことを考えたときに、国会の日程等を考えると時間はなかなか限られてくるということであります。もちろん、今日はこのような時間で始まっていますが、国会と重ならない範囲で他に考えられるのであれば、多少移動させることはやぶさかではありません。もうひとつ、閣議後の会見ということになると、国会の中でやるということになりがちで、そうすると事実上オープンにしたといっても、国会に入るにはなかなか大変な手続きがいりますから、それはオープンにしたことにならないのではないかという思いもあって、私は今の形を申し上げているわけです。もしそれでなにか私の説明に異論があるということであれば、また仰って頂きたいと思います。私の基本はオープンに、国民の知る権利、なるべく多くの方に直接、会見に立ち会ってもらいたいという考え方です。


(問)今、会見の話が出ましたけれども、今幹事社をやっていまして報道課の方ともやりとりさせていただいたのですが、大臣のお考えが良く分からないまま、半ば夕方になりますと一方的に言われたようなところがあって、先ほどの方もおっしゃっていたように、民放は夕方にメインのニュースを構えていますし、時間的問題とかも考えると、大臣のお考えもあるでしょうし、こちら側のできない要望もあるので、調整をきちんとさせていただきたいという提案です。できるだけお互い知恵を絞りたいなと。大臣のお考えは分かりましたので、より良くするためにどうするべきか相談させて頂きたい。


(外務大臣)今の件は、今日皆様がお集まりになって何か意見交換をされると聞いていたのですけれども、そういう集約があるのであれば聞かして頂きたいと思いますが、いろんなニュースの時間もありますが、一方で国会もありますから、結局この時間より前になるということは、従来と同じように国会が始まる前ということになります。限られた時間になりますね、本当にそれでいいのか。それから先ほど言いましたように、一部の人が入れないということに対してどう考えるのか、そういうことについて、もしご意見があるのであれば聞かせていただきながら、基本的に私はこの時間しかないんじゃないかと、少なくとも週一回は、というふうに思っています。


(問)駐米大使や国連大使の記者会見が急遽中止になるということがあってですね、官房長官からの記者会見では、大臣の方からそれはやって差支えないということで元に戻したという経緯があったそうなんですが、どういう経緯でこれは中止になったのでしょうか。


(外務大臣)中止になった経緯はよくわかりません。私はそういうことは言っておりません。ただ、基本的に事務次官の会見もやらないという方針が示された中で、大使についてもその類推の中で、予防的にといいますか、正式にはまだ決まっていないという中で、そういう措置が取られたのかなと思います。私の方は、大使は国を代表する者としてそれぞれに赴任していただいていますので、その会見は当然やっていただく、やらないと困ると、そういうふうに申し上げているところです。ついでに申し上げますと、外務報道官についてもですね、従来からこれは省全体を代表した形で行われていますので、それも変わらずやっていただきたいというように考えております。事務次官の会見はそういう意味でなくなりますけれども、これは政府としての方針ですから、懇談の形でやっていただくことは、これは取材を集団的に行うのと同じですから、それはかまわないと思っています。


(問)大使の会見のことをおっしゃられましたけれども、その問題に象徴されるように、官僚というのはそれぞれの識見と責任をもって外交の一部を担っています。我々は官僚かどうかという立場だけで報道すべきか判断しているのではなく、立場を含め、その発言内容も含め判断して報道している。つまり外相が言ったから報道する、事務次官が言ったから報道しないというわけではなく、外相がおっしゃても報道しないこともあるし、事務次官が言っても報道することもある。しかしながら政府の方針といいますか、外務省の方針としては、官僚というだけで発言は公にさせない、事務次官というだけで発言はさせないとおっしゃっている。それは結局、省内に政治家に対する批判を許さないという雰囲気を作ることになるわけでして、私としては一般的に使われる悪い意味での官僚的な対応だと感じられます。我々は実際に事務次官のご意見をお伺いしたいとしてインタビューを申し込んで実施することもありますが、そういったことも禁止されるということだと思いますが、そういったことをする理由が理解できないのですが、説明していただきたい。


(外務大臣)具体的にどこまで制限するかということは、今日の閣議で議論になりまして、もう一度官房長官のところで基準を示すということになりましたので、それを待ちたいと思います。ただ、事務次官というのは、大臣や副大臣の下にあります。ですから、より責任のある者がきちんと述べれば十分だと思います。


(問)それは1か0かという問題ではなくて、事務次官も仕事を前に考えもあるわけで、我々も意見を聞きたいということがあるわけです。それを大臣が職務上補うからといって、大臣の判断で発言してはならないという職務命令を出されるということは、我々としては報道の自由を制限されていると受けとるわけです。
 もちろん事務次官は大臣の部下ですから、発言するなということで発言できなくなるわけですが、そのことを考え直していただきたいということなんです。


(外務大臣)事実関係については懇談という場があるわけですから、そこで聞いていただければいいわけです。政策、最終的な意見に当たる部分については、政治家が行うというのが、我々内閣の方針です。


(問)我々は政治的な部分だけではなく、公の場面で責任ある発言を聞くという権利というか、国民に対する責任を持っているわけですから、色々な政治家にも聞きますし、次官にも聞きますし、色々な方にも聞きます。


(外務大臣)それは考え方の違いですね。イギリスなどでも官僚の発言というものは、制限されています。


(問)政治家として積極的に発言したいという訳ですが、この一方的に書かれた紙を拝見すると、大臣会見は週2回となっています。これまでも週2回実施しているので、発言の機会は増えない訳です。オープンにするといいながら、外務省として情報を発信する機会を減らしている訳です。


(外務大臣)減らしているというのはどういう意味ですか。


(問)これまで大臣が2回だとすると、それに加えて事務次官の会見もあったわけですが、事務次官の会見はやめるし、大臣の会見は増やさない。時間の点でも我々の考え方は受入れられない。


(外務大臣)事実関係を聞いてから質問してもらいたいと思います。事務次官の会見は失くしますが、副大臣の会見は増やします。


(問)事務次官の会見の代わりに副大臣の会見を行うということですか。


(外務大臣)副大臣の会見を増やすということです。


(問)取材の関連なのですが、今日は事務次官の定例懇談がある日ですが中止になりました。国際協力局長の定例懇談も中止になりました。他にもいくつか中止になっております。何か大臣との間で懇談をやらないといった指示はあったのでしょうか。


(外務大臣)全くありません。初めて聞きました。


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鈴木議員の衆議院外交委員長就任
(問)今日、新党大地の鈴木宗男代表が衆議院の外務委員会での委員長選任のやりとりにおいて、自民党の方から、あっせん収賄罪で裁判継続中の被告人を役員につけた前例がないと反発がありましたが、それについての受け止めと感想をお願いします。


(外務大臣)様々な意見があると思いますが、我が党としては賛成をして、そしてすでに決まりました。自民党が反対されたのは事実です。


(問)鈴木宗男議員は外務省の幹部の方を実名で告発したりしましたが、そういった方が外務委員長のポストに就いたことをどう考えられるのか。今後、鈴木氏は密約や報償費の問題で調べたいと言っていますが、全面的に外務省として協力されるのでしょうか。


(外務大臣)委員長人事は、委員が決めることですので、それに対してコメントをするべきではありません。党として賛成をしました。また、様々なことをおっしゃられていますが、委員長として言っておられるのか、政治家として言っておられるのかよくわかりませんが、委員長が委員長の権限の中で行われることには当然協力していきたいと思っています。


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米軍基地再編問題
(問)北沢防衛相が、現実的には県外ですとか、国外移設については難しいのではないかという考えを会見で述べられたのですが、これについて外相はどのようにお考えになりますか。


(外務大臣)これから様々な交渉があることなので、最初からいろいろな発言を、政府内の調整なしに言うのは、ややいかがなものかという感じがします。


(問)米軍再編について伺います。報道各社とのインタビューで、年内が一つの判断基準だという回答がありましたが、その判断対象というのは、建設関連の予算を付けるかどうかということを判断することなのか。それとも辺野古以外の移設先を年内に決めるということまで決める判断なのでしょうか。


(外務大臣)相手のあることなので、具体的に交渉を始めてみないと分かりません。


(問)それでは何に対する判断なのでしょうか。


(外務大臣)(年内に)予算の話はありますので、予算を付けるということは現状のまま進めていくということを意味すると思いますので、そうするかそうしないかという意味で、年内がひとつの判断基準だと申し上げました。


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北朝鮮拉致問題
(問)拉致問題についてお尋ねします。鳩山内閣では中井さんが拉致問題の担当大臣に就任されましたが、外務大臣との役割分担がどうなるのか。北朝鮮は宋日昊朝日国交正常化交渉担当大使が、拉致問題解決の基準について議論、整備すべきではないかと日本のメディアに対して語っているのですが、拉致問題解決の基準について大臣はどうお考えでしょうか。


(外務大臣)北朝鮮側がどのような思いで言われたのか、私は承知しておりませんので、今それに対して特にコメントする用意ができておりません。中井氏とはコミュニケーションを良くして、連携を取りながら進めていきたいと思っております。(日本側の拉致問題担当大臣については)従来も拉致問題担当という職がおかれていたので、基本的にはその役割分担を踏襲してやっていきたいと考えております。


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新大臣を迎える会
(問)今日、外務省で新大臣をお迎えする会が予定されていましたが、中止されました。その理由と、大臣として所属の官僚一人一人に対してメッセージを発する機会は大切だと思いますが、そのあたりどういう風にお考えでしょうか。


(外務大臣)来週一週間出張するので、今日是非やりたかったのですが、副大臣が正式に就任する前に行うのはいかがなものかと。私だけでやるのではなく、副大臣、政務官そろってやった方がよいという中で、(副大臣が認証式のために)皇居に行く前にやるのはいかがなものかということです。


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国連総会等への出席
(問)ニューヨークでの国際会議について、新しい政権として岡田外務大臣は、様々なアピールをされると思うのですが、岡田外務大臣が特に強調してアピールされたいことはありますでしょうか。


(外務大臣)相手によって変わりますが、私自身としては、当面の課題として3つあげましたが、地球温暖化の問題、アフガニスタン・パキスタンへの復興支援はグローバルな問題でありますので、そういう点について強調したいと考えています。後は相手によって、二国間の問題とかになると思います。


(問)CTBT(包括的核実験禁止条約)発効促進会議に米国も10年ぶりに参加するということですが、どのようなことを我が国として主張されますか。


(外務大臣)米国が、(CTBT発効促進会議に)参加するということは、大変意義深いことだと思います。私も核の問題については、少なからず関心を持っており、取り組んで参りましたので、オバマ大統領のプラハ演説もありますが、核廃絶に向かって具体的にどういうアクションを世界がとるべきかについて発信していきたいと思います。


(問)国連総会において、安保理改革ということが非常に重要になるのではないかと思います。これまで日本外交は常任理事国入りを目指してきた訳ですが、岡田外務大臣としては、安保理改革についてどう臨まれますか。


(外務大臣)外務大臣に就任して2日しか経っていないので、どういう機会を捉えて安保理改革を実現していくということまで議論した訳ではありませんが、日本自身、常任理事国になるということは、私は当然のことだし、国益に合うと思っていますので、そういう方向で努力していきたいと思います。


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核の先制不使用
(問)大臣は先日の会見でも、核の先制使用は認めるべきではないという考えを示されましたが、本日のキャンベル米国務次官補との会談の議題になったのでしょうか。あるいは、今後政府間の議題にするのはいつ頃のタイミングとお考えでしょうか。


(外務大臣)本日は議題になっておりません。様々な課題がある中で、どういう優先順位を付けていくかということだと思います。私が当面注目しているのは、(核不拡散・核軍縮国際委員会の)エヴァンズ・川口両共同議長によるレポートが広島で発表されることとなっています。そのレポートの中でどのように触れられるのか、まずそういう点がきっかけになるのではないかと思っています。


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温暖化に関する閣僚委員会
(問)20日(日曜日)に温暖化に関する閣僚委員会があると思いますが、どのようなことを議論され、(大臣は)どのような主張をするつもりでしょうか。


(外務大臣)先方からご連絡を頂いたばかりで、どういうテーマになるのかを聞いていませんので、何とも申し上げられません。民主党自体では既に考えはまとまっておりまして、鳩山総理が代表の時代にそのことを明らかにされました。2020年に(温暖化ガスの90年比)25%減ということを明確に言われました。そう言うことを前提に、何をどういうタイミングで行うべきかということが議論の中心ではないかと想像しています。私から言えることは、きちんと決められたことをやりましょうというしかありません。私自身が温暖化委員会の本部長として、責任をもってやってきたことでもありますので、そのことをしっかりやっていくということを強調したいと思っています。


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岡田外務大臣会見記録(平成21年9月17日(木曜日)0時50分~ 於:外務省会見室)

冒頭発言-「密約」問題に関する調査命令
(外務大臣)皆さん、こんばんは。時間が遅くなってしまいまして恐縮です。このたび外務大臣を拝命いたしました岡田克也です。よろしくお願いします。先ほど官邸で既に記者会見を行いましたので、重なることは申し上げないようにしたいと思います。またご質問があればお聞きいただきたいと思います。本日は先ほども少しふれました密約の問題について資料をお配りさせて頂きました。いわゆる「密約」の問題は、外交というのは国民の理解と信頼の上に成り立っていると考えていますので、そのような意味でこの密約の問題は外交に対する国民の不信感を高めている、結果として日本の外交を弱くしていると思います。私は従来、この密約の問題は、外務大臣なり総理大臣、つまり政治家が自らイニシアチブを発揮しなければならない問題であって、総理や外務大臣が「密約はありません」と明言する限りは事務方も同じように言うことしかないのであって、まさしく政治家のリーダーシップを試されているとかねがね申し上げてまいりました。
 このたび外務大臣になりました、この機会を捉えて、いわゆる政権交代という一つの大きな変化を機会として、この密約を巡る過去の事実を徹底的に明らかにし、国民の理解と信頼に基づく外交を実現する必要があると考えております。
 そこで、国家行政組織法第10条及び第14条第2項に基づく大臣命令(PDF)を発し、下記4点の「密約」について、外務省内に存在する原資料を徹底的に調査をし、本年11月末を目処に調査結果を報告することを求めたものでございます。作業の進捗状況については、随時報告を求め必要に応じて指示を仰ぐように併せて求めているところです。
 一 1960年1月の安保条約改定時の、核持ち込みに関する「密約」
 二 同じく、朝鮮半島有事の際の戦闘作戦行動に関する「密約」
 三 1972年の沖縄返還時の、有事の際の核持ち込みな関する「密約」
 四 同じく、沖縄返還時の現状回復補償費の肩代わりに関する「密約」
ということでございます。
 先程、省議が開かれまして、その場で私から薮中事務次官に対してこの命令を発しと言いますと大げさですけれども、徹底的に自ら自浄能力を発揮して既存の資料の調査を徹底する。そのことを求め、次官の方からはそれに対してそのことを実行するとお返事を頂いたところです。
 なかなか大変な調査になると思います。聞くところによりますと、日米安保関係の関連ファイルが約2700冊、沖縄返還関連が570冊ということです。これを一つ一つにあたってもらうことになります。マンパワーが足りないということであれば、在外公館から一時的に職員を呼び戻して、経験者その他理解する能力のある皆さんに11月末まで残ってもらって作業してもらうと考えているところです。
 薮中事務次官の方からは、9月25日に調査を開始して約6週間位を目処に原資を調査して、その後2週間を目途にその精査取り纏めを行って、11月末に大臣に報告するというお話しを頂いているところです。なお、これは外務省の中での徹底的な調査ということですが、それに加えてOBの皆さんでいろいろな発言もあります。それからその資料の評価というものも第三者の目で行うことも必要になるだろうと思います。したがって将来的には、一ヶ月プラスアルファ位の先には外部の有識者による委員会を立ち上げて、そこでも併せ調査をし、同時にOBからもヒアリングをしてもらい、必要があれば米国にも調査に行き、外務省の中で見つかった資料を更に精査してもらおうと考えております。併せてこの密約という問題が議論された時代状況ということも併せて検討してもらう必要があるのではないか。何故こういうことになったのか、ならざるを得なかったのかということも、外部の目で分析をしてもらい、全体トータルとして国民に対する説明責任を果たしたいと考えております。併せて、密約に限らず外交に関する情報公開については、現在、基本的に30年、一定のルールに基づいて公開ということになっておりますが、必ずしも十分な公開になっていないと考えています。例えば、日本では公開されていないけれども、韓国や米国では公開されているということもあります。したがって公開のルールそのもの、運用についても有識者に併せて議論をしてもらい、必要があれば新しいルール、新しい運用というものについて提言を頂きたいと考えております。それだけの想いを持って、とりあえず先ず中にある資料を徹底的に調査してもらいたいということで、命令を発したところでございます。


•いわゆる「密約」問題に関する調査命令について(国家行政組織法第10条及び第14条第2項に基づく大臣命令)(PDF)
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「密約」問題
(問)有識者委員会ですが、11月末の外務省内の調査が終わってから立ち上げて、更にそこから一ヶ月位かけてその調査報告を見ると言う事ですか?


(外務大臣)必ずしも全部終わる必要は無いと思います。これから調査やるわけですから、今すぐ立ち上げる必要はありませんが、私は重なって活動している時期が必要だと思います。そうでないと時間が非常にかかってしまいますので、11月末に結論が出る、それを全て待つ必要はないというように思っています。


(問)文書の掘り起こしなんですけども、この部分については、中の調査だけで行うのか、第三者委員会もそれにあたるのか、それからその第三者委員会の調査はいつ頃目処に完了したいと考えていらっしゃるのですか?


(外務大臣)一つ一つの資料を外部の人が、例えば一時的に公務員の身分を与えるにしても、守秘義務の問題もありますから、それを全部チェックするというのは現実的では無いと思います。しかし、微妙な問題資料については、直接見てもらうという事もあり得るというふうに思っています。いつ頃までにというのは、ちょっとやって見なくては分かりませんが、そう長く時間をかける問題では無いと思いますので、11月、例えば11月初め位から平行して検討をはじめてもらって、そう時間をかけずにしっかりとした提言をもらいたいということを考えています。しかし、最も大事な事はまず事実をちゃんと出すということだと思います。そう言う意味では外務省の中での調査というものを非常に重視しているという事でございます。


(問)この密約の問題について、これまでに非公式に引き継ぎがされていたと思うのですが、この中で薮中次官からのこれまで説明を受けられて、現在、密約があるという蓋然性についてどのような心証をもっていますか?


(外務大臣)まあ、私自身は、今日外務大臣になったばかりで、現時点でそう言う引き継ぎとかそう言う事は特に受けておりません、先ほど、外務省に初めて足を踏み入れた訳であります。それから、私はかなりの確度でいわゆる密約と言うものは存在しているというふうに思っています。ただ、それは確たる根拠がある訳では有りませんので、今後の調査を待ちたいというように思っております。


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米軍再編問題
(問)先ほどの官邸での会見でもお答えになっていましたが、米軍再編について2点伺いします。県外、国外移設の表記について、沖縄ビジョンには書いてあるけれども、マニフェストには書いていないというご説明でしたが、マニフェストに書いていないと繰り返しご説明されたということは、県外、国外移設を目指すという姿勢を変えられたと受け止められかねないですが、姿勢を変えられたのか、それとも変わらず県外、国外移設を目指すということで理解して良いのでしょうか。 


(外務大臣)目指すという姿勢は変わっていません。ただ、沖縄ビジョンには書いていますが、マニフェスト、或いは連立政権樹立の政策にはそこまで書かなかったということです。想いは変わっていませんが、あまりに手足を縛ってしまうと身動きがとれないということにもなりかねない訳で、多少選択肢を増やすということもあるんだと思います。それは普天間の問題だけを米国側と協議するわけではなくて、様々な問題、全部机の上に並べるべきとは思いませんが、年内で言えば、普天間の問題とアフガニスタンとパキスタン支援の問題という2つの大きなテーマがあるわけで、これは直接的には関係のない話ですが、実際には各ステージで米国側と議論しなければならない、そういう場面もあるかもしれません。そういう意味で、我々は絶対譲りませんよって全部言ってしまっては交渉になりませんので、少し懐を大きくして交渉したいと考えています。想いは変わっていません。


(問)米軍再編問題に関して、年内に着手すべき課題というふうなご認識をお持ちということですが、再編見直しの交渉を始めて、目標としてはいつ頃までに新たな答えを出したいとお考えですか。


(外務大臣)相手のある話ですから、そう簡単には申し上げられません。ただ、どんどん米軍再編の中で、辺野古への移転の問題というのは進んでいますから、放置しておけば既成事実がどんどん積み重なっていくということになると思います。従って、我々としては議論は急がなければならないと考えています。


(問)普天間の県外移設問題に関して確かマニフェストに書いていないんですけれども、日米地位協定の改定を提起するというのはマニフェストに書いてありまして、三党合意にも書いてあるわけですけれども、これについては具体的にどの部分を改定したいとお考えでしょうか。刑事裁判権の問題なのか、それとも環境評価なのか、政府は具体的にどれを想定しているのでしょうか。


(外務大臣)私の判断は、何からやっていくのかということを明確にしたほうがいいと思います。そしておっしゃるように地位協定は、全面的な改定案ですが、三党で改定案も出したという経緯もあります。非常に重要な問題だと思います。しかし、時間的に迫られている問題は米軍再編、基地の問題だと考えております。そういうことから考えると、どちらを急ぐかといえば、私は米軍再編・基地の問題をより急ぐべきだと、地位協定の問題はもちろん、こちらにとってすべての要求が通れば良いのですが、やはり相手のあることでありますので、ある程度絞り込んで、そして議論に入ったほうがいいと。その議論に入る時期は、私はお互いの信頼関係に基づいて、米軍再編の問題とか、あるいはパキスタン・アフガニスタンの問題について解決策が見出された、その次のステップの問題ではないかな、と個人的には私そう考えているところです。どういうところを絞り込むべきかという勉強は続けていきたいと思います。


(問)米軍再編ともかかわってくる最初の再編ロードマップでのグアム移転協定が進んでいるんですけれども、これはたとえば二十八億ドルの負担等を新たな合意ができるまでは有効だとお考えなのか、予算執行の停止を考えるのか、その辺はいかがですか。


(外務大臣)そこまでいけばこれは完全な対立になってしまいます。話はそう延々とやるわけではありませんので、私は現実的な判断が求められると思います。お互いの信頼関係に基づいて、より良い解を求めて議論をするということであって、対立することが目的ではありません。


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インド洋における補給支援活動の延長
(問)インド洋での給油問題ですが、来年1月で現在やっているものが切れますが、継続されるお考えでしょうか。それともやはり見直しのお考えでしょうか。


(外務大臣)選挙の時に申し上げましたし、選挙の後でも申し上げましたが、「単純延長はしない」というのが私の考えです。


(問)それに変わる何か別の支援を考えてらっしゃるということでしょうか。


(外務大臣)「単純延長はしない」ということは、それ以上でもそれ以下でもありません。


(問)また更なる追加支援ということについては、どうお考えでしょうか。


(外務大臣)この問題とは直接リンクしている話ではありませんが、、現在のアフガニスタンの状況を見れば、或いはパキスタンも含めてですが、かなりしっかりとした支援というものを日本は求められていると考えています。それが具体的にどういうものがあり得るのかしっかり議論していきたいと、国民の皆さんにとっては税金を使うわけですから、国民の皆さんにも納得して頂かなくてはいけません。そういう前提の中でしっかり議論していきたいと考えています。


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事務次官会見の廃止
(問)事務次官会見の廃止についてですが、先ほど岡田大臣以外の大臣にかなり質問がありましたが、会見を廃止するのは政治主導を必ずしも邪魔するとは思えないのですが、過去の事務次官会見では、官僚が隠そうとしていたことが明らかになったりすることもあった訳で、たとえば岡田さんが幹事長の時におっしゃっていたような世論を誘導するおそれがあるということでしたら、その回答を聞いた時点で大臣が何か言えば良いわけですし、会見を中止するという意味合いが分からないのですが。


(外務大臣)例えば国会でも、今や局長の答弁は原則無いということになっています。勿論、これは完全に貫徹されている訳ではありませんが、大臣、副大臣の答弁だけで、それが何か知る権利を害しているとか、そういうことは全く成り立たないと思っています。これからは大臣や副大臣、或いは政務官が会見をするということですから、回数は増やさざるを得ないかもしれませんが、それが何か問題になるとは思っていません。ただ、皆さんも取材には行かれたりしますので、そういうことを考えると、その延長としての懇談のような形で行われることを私は制限する理由はないと思っています。


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北朝鮮問題
(問)北朝鮮について、伺います。先ほどの会見では核、拉致、ミサイルを包括的に解決するとのことでしたが、全面解決に向けて、民主党自ら率先して政府間対話、北朝鮮に対話を求めていく考えはあるのでしょうか。


(外務大臣)これは、政権が変わったので、いろいろな動きがあるかもしれません。ただ、気をつけなければいけないのは、先ほどの質問に出ましたが、再調査という、拉致の問題ですが、それについて、(北は)ほぼゼロ回答で、全く約束を果たしていないわけです。それから核、ミサイルの問題についても核実験を行ったり、核の保有を宣言したり、ミサイルを飛ばしたりとやりたい放題というのが現状ですから、こういう状況にあるにも関わらず、話し合いというのは違うと思います。強く出れば、話し合いに結びつくんだという誤ったメッセージを送ることにもなりかねません。今はしっかりと制裁を強化していく中で、しかし制裁をするということは話し合いのテーブルに着かせるために制裁をしている訳ですから、その制裁を進めていく中で、北朝鮮側に何らかの変化があれば、変化があればという意味は、今言ったようないろんなことを止めて話し合いをきちんとするという状況が生まれれば、六カ国協議の枠の中で話し合いをしていけば良いことだと考えています。


(問)同時に現在六カ国協議が全く開かれていません。状況としては、正に大臣がおっしゃったような状況があって、政府が全く出てこないという状況がずっと続いています。この膠着状態をどう打開していくのか。米朝で二国間対話を北朝鮮が求めているようですが、そうした中で日本が独自に北との二国間関係を進展させていく余地があるのかどうかその点についてはいかがでしょうか。


(外務大臣)これから事務方ともよく議論していかなければいけないと思います。その点については、基本的には慎重に考えるべきだと思っています。先ほど言った理由と同じです。


(問)通常国会で廃案となった、北朝鮮に対する制裁に関する貨物船検査、特措法案をどのように取り扱われるのでしょうか。


(外務大臣)この法案は急いで成立させたいと考えております。このことは、選挙の最中も言ってきました。(開会中の)現在の特別国会という訳にはいきませんが、出来れば、次の臨時国会で成立を目指したいと考えております。自民党も自ら作られた法案ですから、そういった意味で、そう議論無く成立が可能なのではないかと期待しております。


(問)北朝鮮情勢について、制裁を強化しながら北朝鮮が変化するのを待つということで、前の自民党政権と現政権では、北朝鮮に対する政策の違いはないということでしょうか。


(外務大臣)前の政権と言っても、いつからカウントするのかと言った問題もあるかと思います。米国では、ブッシュ前大統領の時代には、現北朝鮮政権を変えると言われた時期がありましたし、同じように我が国の政権の中でも体制の転換ということを強調された総理もいたかと思いますが、我々新政権は、そのような考え方には立ちません。そういう可能性を感じれば、益々話し合いという可能性は遠のいてしまうと思います。基本的には、ブッシュ前政権の時には、ブッシュ前政権の間にということで、時間の利益は、北朝鮮側にあったかもしれませんが、今やオバマ政権が誕生して、そういう意味では時間の利益は、こちら側にあると思います。したがって、焦ることなくじっくりと対応していけばいいと思います。もちろん、拉致の問題等もありますので、ゆっくり構える訳にはいきませんが、焦って我々からいろいろな提案をするとかいう必要はないかと思います。


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副大臣、政務官に関する人事
(問)副大臣、政務官の人選についてお尋ねします。


(外務大臣)副大臣、政務官の人選について、私としては、平野官房長官に希望は述べていますが、恐らく同じ人に集中する現象があるかもしれませんし、委員長等の国会人事とも重なってくるので、調整が必要だと思います。本日の閣議、閣僚懇談会でもそういった話は出ました。私としては、明日の然るべき時間までに調整してもらうことを期待しています。具体的な名前は、今申し上げられる段階ではありません。


(問)副大臣、政務官の人事に関して、今、名前を述べられる段階ではないということですが、希望を述べる段階で、どういった基準で、どういったプライオリティーを勘案されて希望を出されたのでしょうか。


(外務大臣)一つは、個人の能力。もう一つは、チームとしてしっかり活動できるという視点で、私の方でしっかり候補者を選択させて頂きました。


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国家戦略室と外交政策の関係
(問)菅直人副総理が担当される国家戦略室と外交政策をどのように両立させていくのでしょうか。


(外務大臣)国家戦略室は、未だ法律に基づく組織ではありませんので、弾力的に考えなくてはいけませんが、基本的に私の理解は、一つは予算に関すること、当面はこのことに相当なエネルギーを割かれると思います。予算に加えて、鳩山総理が、具体的にこの問題について、国家戦略室で取り扱えと指示される問題、その中には外交も含まれるでしょうが、そういった問題を国家戦略室で取り扱うことになると思います。現時点では、外交に関する指示は出ていないと理解しています。
 おそらく次の臨時国会では、国家戦略室を法律の形で出すことになると思います。国家戦略室をきちんと位置づけて、所掌の問題等をきちんと整理することになると思います。


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日米外相会談
(問)早ければ来週にも、日米外相会談が行われる可能性があると思いますが、その一回目の会談で外務大臣は、密約の問題や米軍再編の問題等を提起される考えはありますか。


(外務大臣)密約の問題については、調査を開始したという事実は伝えなくてはならないと思いますが、米国側にも影響が及ぶ可能性はあると思います。どこまで公開できるかという、我が国だけでは判断できない問題も出てくるかもしれませんので、そのようなことは米国に断っておく必要はあるかと思います。その他の個別具体的な話について私は、初めて米国側と会うので、もう少し時間を見た方が良いのではないかと思います。双方の信頼関係を深めあうことを中心に、日米同盟の重要性の共通認識を持つことに力点を置きたいと考えております。


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軍縮・不拡散
(問)外務大臣は、かねてより軍縮・不拡散に熱心に取り組んで参りました。前任の中曽根外務大臣も、我が国で来年にも軍縮の国際会議を開催したいとの考えを表明されましたが、岡田外務大臣は、そのような会議を開催されるお考えはありますか。


(外務大臣)私は詳細を承知している訳ではありませんが、そのような機会があれば是非活かしたいと考えております。そもそも核の核軍縮、不拡散の問題については、今年の秋に広島で、共同議長である川口元外務大臣とエバンズ元豪外務大臣による報告書が出来上がって、会議が開催されるということもあります。様々な場面で我が国がもっと前に出るべきだという様に考えております。先般、川口元外務大臣からは、現状についていろいろ御報告を頂きました。出来れば、エバンズ元豪外務大臣とも直接話したいというメッセージを、近々エバンズ元豪外務大臣と会う予定の皆様に託したところであります。


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集団的自衛権
(問)集団的自衛権の問題ですけれども、現在の政府解釈だと集団的自衛権の行使は禁じられているわけですけれども、これを見直す必要性があるとお考えでしょうか。もしくは、鳩山政権においては政府解釈を踏襲するのでしょうか。


(外務大臣)これ(集団的自衛権の解釈)を変える、ということを(民主党の)マニフェストその他にうたったということはありません。そこは私の意見を言わせてもらうと、これを早急に変える必要はないと考えております。ただ安倍政権の下で四類型でしたか、さまざまな議論をいたしました。いろんな種類のものが含まれていたと考えますけれども、既存の解釈を少し広げる中で、あるいはそれで十分なものもあるかもしれませんし、基本的に集団的自衛権という概念を認めないとできないこともあるかもしれません。その辺の議論は必要だと思いますが、私は、集団的自衛権を幅広く認めていくということは、少なくとも憲法との関係でいえば、海外における武力行使に制限的であるという憲法9条の基本的考え方とかなり矛盾する問題だと思っています。


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東アジア共同体
(問)大臣はかねてより東アジア共同体の構築ということをおっしゃっておられますけれども、具体的にどういったことをどういった時間軸で進めていきたいとお考えでしょうか。


(外務大臣)わたくしだけではなくて、実は鳩山総理も言われています。もちろんEUのように通貨も一つになったり、政治的な統合も進んでいくというようなイメージではなかなかありません。やはり体制の違う国がその中にあるわけです。みんなが民主主義国家というわけではありませんから、政治的な統合というのはかなり先の話だと思います。しかし、経済的な相互依存関係という意味でいえば、EUほどではありませんがNAFTAよりは相互依存が進んでいるし、最近更にそれは深まっております。そういう経済面での相互依存の深まりということを、経済だけではなくその周辺にも広げていく、例えばエネルギーや環境、保健とかインフルエンザの問題とか、ということで多層的に相互依存を深めていくということが、私はこの地域の平和と安定にも大いにプラスになると考えております。ですからできるところからことからしっかりやっていく、というアプローチで当面いいと思います。


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日中関係
(問)日中関係ですが、まもなく日中韓首脳会談もあると伝えられておりますが、今後どういう風に中国と向き合っていくのか。近く中国のGDPが日本を追い抜くと言われています。大変な勢いで経済、各方面で国力をつけてきておりますけれども、その中国というのを脅威と見るのか、あるいは違う見方をされるのかがまず一点。それから、これまで日本の歴代内閣と中国共産党との間で、四つの重要文書があります。最近では福田元首相と胡錦濤国家主席との間で戦略的互恵関係の共同声明を締結したわけですけれども、これを踏襲するのか、この二点についてお伺いしたいと思います。


(外務大臣)まず後者から言いますと、戦略的互恵関係という言葉は、鳩山さんは既に使われています。したがって、基本的に四つの文書についてはそのまま引き継がれていくと、私は判断しております。戦略的互恵関係とはなかなか分かりにくい言葉で、僕は普通の人が聞いてわかるかなという感じはありますけれども、しかしこれは中国側も熱心に唱えられた単語、ワーディングでありますので、それをそのまま引き継いでいいのかなと、鳩山首相もそのまま使われておりますから、そう思います。脅威については、確かにGDPで見れば日本は追い抜かれるということかもしれませんが、人口が10倍違うわけですから、あまり大げさに考える必要はない。むしろ中国の経済が非常に成長しているということのメリット、恩恵もたいへんもあるわけで、現に日本の経済というのはその恩恵を享受しているわけですから、あまりネガティブに考える必要はない。しかし、それだけ政治的にも経済的にもパワーを持った国がすぐ近くにあるということ、プラスマイナスという観点ではなく、そういう事実はしっかりと踏まえて、様々な政策をとっていく必要があると思います。


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核の先制不使用
(問)核の先制不使用政策について聞きたいのですが、核兵器廃絶に向けた取り組みに関して、官邸での会見で300日プランによる少し長期の取り組みになるという話をされていたと思いますが、先程述べられたエバンス、川口両氏の核軍縮委員会が、核先制不使用への支持を米国にも求める内容を主とした報告書を年内にまとめ、米国が核態勢の見直しをやはり年内に国防総省を中心となってまとめて議会に提出するようです。今まで日本政府は一貫して化学、生物兵器に対しても先制使用で守ってくれるよう求めてきたと思うのですが、この機会に年末にかけて日本を守ってもらうために核の先制使用は不要だというメッセージを何らかの形で発するお気持ちはございますでしょうか。


(外務大臣)私の持論はそういうことですが、今回大臣になりましたので、事務当局によく聞いてみたいと思います。エバンスさん、川口さんの報告書は政府のものではありません。有識者としての世界各国から集まった人たちの一つのレポートでありますので、私は日本政府がいかなる考え方を採ったとしても、それとは独立して自らの信ずるところに従ってレポートをおまとめになったらどうかと考えております。


(問)政府はとしてトラック2のレポートであっても、そういった何らかの意思表示がないと、結局は報告書も絵に描いた餅になりかねないと思うんですけれども。


(外務大臣)報告書が提出された上で政府としてもう一度きちんとした議論をすればいいのではないかと思っています。ただ、核の先制使用、例えばそれが大量破壊兵器に対する報復であったとしても、つまり生物兵器や科学兵器を違法に使われたことに対する報復であったとしても、核を先制使用するということは倫理的にも、そして核を将来なくしていこうという考え方からいっても、なかなか認めがたいことではないかという風に私は現時点では思っております。このことは核で攻撃を受けたときに核での報復を禁ずるものではありませんので、先制使用はアメリカだけではなく、核を保有している国々が先制使用しないということをお互い確認するというのは、どこまで実行を確保できるのかという問題もありますけれども、核廃絶に向けての一歩になるのではないかという風に現時点では思っています。
 併せて、核を持っていない国に対する核の使用は、他の大量破壊兵器それ自体が違法となっていますが、核はそういう扱いにはなっておりません。核を持っていない国に対して核保有国が核を使うというのは、私はそれ自身が違法だという議論が成り立つ可能性があると思っています。


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WTO交渉
(問)WTO交渉、あるいはEPA、FTA交渉でのスタンスに関しまして、大臣は前政権までと違ったカラーを出していくことになるのか、さらに、今月上旬のWTO非公式閣僚会合に閣僚が出席しなかったことは前の政権だったということがありますが、閣僚が参加できなかったことへのお考えをお聞かせください。


(外務大臣)閣僚が出席しなかったことは無責任ではないかということは、我々はそのときに申し上げたことであります。そして、これからどういうスタンスで臨んでいくかということは、まだ政権が今日始まったばかりなので議論しておりません。関係省庁とよく議論しながら対処方針を考えていきたいと思います。現時点ではまだ決めておりません。


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【引用終わり】以上の通り

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【私のコメント】:


十分に休息を取る時間もなく一生懸命に、国民のために奮闘努力して働く岡田克也外務大臣は、政治家の鑑(かがみ)になる人である。


 健康に、十分に、気をつけて、大事な日本の外交の舞台で、日本の未来を切り開いて、邁進して頂きたい。 がんばれ、岡田克也様、民主党3党連立政権。


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