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| この項目では、1943年に『毎日新聞』という題字を使い始めた毎日新聞について記述しています。1886年から1906年まで刊行されていた毎日新聞については「横浜毎日新聞」を、韓国の毎日新聞については「毎日新聞 (韓国)」をご覧ください。 |
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毎日新聞中部本社が入居するミッドランドスクエア(名古屋市中村区)
毎日新聞(まいにちしんぶん)は、
日本の
新聞のひとつ。発行部数は324万部。
毎日新聞社が発行している。
かつては
朝日新聞と共に2強に数えられていたが、その後の拡販競争と経営危機で遅れをとったのと、
1960年代後半から
1970年代前半に掛けて
読売新聞の発行部数が躍進したことにより、現在では読売新聞、朝日新聞に大きく水を開けられている(この2紙と毎日をあわせて三大紙と呼ばれる)。
「毎日新聞」という名前ではあるが、他紙と同様に毎年
1月2日は朝刊も夕刊も発行されない。
現在の
スローガンは、「論争がある。本当が見える。」
新聞販売店の愛称は「
毎日ニュースポート」であるが、近年は余り呼称される機会が少ない。
沿革 [編集]
全国紙への道 [編集]
『東京日日新聞』は1872年
条野伝平、
西田伝助、
落合幾次郎が創刊した東京最初の日刊紙。当初は浅草茅町(現在の
浅草橋駅近辺)の条野の居宅から発刊したが、2年後
銀座に社屋を建てて進出。雑報入りの「新聞錦絵」が東京土産として話題を呼んだ。
1873年
岸田吟香が入社し、平易な口語体の雑報欄が受け大衆紙として定着するも、1874年入社と共に主筆に就任した
福地源一郎が社説欄を創設してから、紙面を一新。政府擁護の論陣を張る御用新聞となり、自由民権派の政論新聞と対抗した。桜痴(福地源一郎)の社説、 吟香の雑報、それに
成島柳北の雑録が、 この新聞の三大名物と謳われた。
しかし、1880年頃から政府批判の高まりとともに「御用新聞」との批判も強まった。1888年、社長交代を契機に論調を中立路線に転換し大幅に部数を伸ばすが、1891年に
長州藩閥の機関紙と化し、再び政府寄りとなる。その後
伊藤博文や
井上馨、
三井財閥の支援を受け、1904年には
三菱財閥により買収。
加藤高明が社長に就任するが経営不振は打開されず、1911年『大阪毎日新聞』に買収された。
『大阪毎日新聞』は明治初期には政治色が強かったため経営上振るわなかったが、1889年から穏和な論調に転換、広告収入の増加もあって『大阪朝日新聞』(現『
朝日新聞』)と並ぶ関西の有力紙となっていた。
第一次世界大戦の勃発を他紙に先駆けて報道。
ロシア革命の報道や
レーニンの会見でも注目を集める。
シベリア出兵には慎重論をとり、国内問題では
米騒動などの社会問題も取り上げ、
普通選挙運動にも賛成の立場をとったが、同様の論調をとる東西『朝日新聞』と覇権争いを全国的に繰り広げた。こうした動きは結果的に両社の発展につながったと言える。
業績を回復した『東京日日新聞』は、大正期には東京五大新聞(
報知・
時事・
國民・
東京朝日・東京日日)の一角に数えられ、
関東大震災も大毎のバックでこれを乗り切った。震災報道では朝日陣営の後手に回ったが、報道そのものは東京日日の方が評価が高かったとされる。この後、東都新聞界は大阪資本の朝日・東京日日の二強体制となり、
1929年には『國民新聞』主筆の徳富蘇峰が移籍。
1936年には『時事新報』を合同した。
1939年東京・有楽町に完成した新社屋には当時東京でも珍しい
プラネタリウム「東日天文館」が設置され、壁面には電光ニュースがまたたいた
[5]。
1943年、題字を『毎日新聞』に統一。名実共に全国紙となった。
紙齢について [編集]
「
日本最古の日刊紙」といわれることがあるが
[7]、
1870年(明治3年)に
横浜で創刊された『
横浜毎日新聞』とは全くの無関係である。
それでも「最古の歴史」と呼ばれるのは、前身の『東京日日新聞』(
1872年2月創刊)に由来しているからであり、『横浜毎日新聞』創刊から『東京日日新聞』創刊までの間に創刊された日刊新聞が全て現存していないことによる。同じく「最古の歴史」を標榜する『
報知新聞』(『
スポーツ報知』。1872年6月『郵便報知新聞』として創刊)や『読売新聞』(
1877年創刊)よりも古いとされる。ただし2009年現在、毎日新聞社では自社の歴史を表す表現として「
東京で最初の日刊紙」を用いている。
『東京日日新聞』の名称は
1943年の題字統一にともない消滅した後、
1946年に毎日新聞系の夕刊紙の題字に使用された。なお、同新聞は
1956年に休刊している。
紙面 [編集]
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特徴 [編集]
論調 [編集]
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社説などは、92年の湾岸戦争時に自衛隊の海外派遣を強く批判し、憲法改正にも反対してきたが、後に大きく方針を転換。現在は「論憲」を掲げて自衛隊の海外派遣も容認している。また、社会面、夕刊特集面などには護憲・反戦平和的な記事が散見される。このような二面性は
表現の自由に関わる問題でも見受けられ、全国紙の中では「青少年の保護」を大義名分に掲げた表現規制に最も肯定的な論調を取っているが(一例・
2006年1月18日付社説)、こうした姿勢は紙面審議会委員から批判されている。
注目を集めた報道、スクープ [編集]
- 1957年、市民生活を脅かす暴力の実態を暴いた『暴力新地図』、戦後も勢力を確保した特権官僚の支配を描いた『官僚にっぽん』、税制のゆがみや徴税の実態をえぐり出した『税金にっぽん』の東京社会部による3企画が第1回新聞協会賞を受賞。この企画は第5回菊池寛賞も受賞した。
- 1929年以来の懸案であり、政令指定都市になることによって石炭、鉄鋼産業の落ち込みによる経済の地盤沈下を克服することが期待されていた九州の小倉市、八幡市、門司市、若松市、戸畑市の合併について、1960年2月から、西部本社が合併の効率と無駄、学者や専門家の意見、住民感情などを詳しく報じた企画『五市は一つだ』の連載を開始。1961年3月からは、RKB毎日放送と共同のキャンペーン『百万人の都市づくりのために』を展開した。新聞、ラジオ、テレビを駆使し、当時「立体報道」と言われたメディアミックスの手法は注目を集めた。1963年2月10日に5市が合併し、北九州市となった。5市の一体性と合併の必然性を強調した一連のキャンペーンは高く評価され、1962年度の新聞協会賞を受賞した。
- 全国の学者、研究者への取材によって科学技術の開発や研究者の養成を中心として日本の学界の現状や問題点を示し、513回にわたって長期連載された『学者の森』は1963年度の新聞協会賞を受賞した。
- 暴力団が全国各地に進出し、広島や松山で抗争事件が発生する中、2ヶ月間で120~130の組長にインタビューを敢行し、朝刊1面に14回にわたって連載した暴力追放キャンペーン『組織暴力の実態』で1964年度の新聞協会賞を受賞。これまで暴力団関係の取材は警察当局などを通した間接的なものが中心だった中で、暴力団の組長などへの「体当たり取材」が画期的であると評価された。
- 1980年3月6日、東京本社社会部が早稲田大学商学部の入試問題漏洩をスクープ。その後、関係者の取材を続け、受験生側から多額の金が渡り、入試問題と模範解答のコピーが流れていた事実を浮き彫りにした。同大学職員ら4人が逮捕され、31日までに不正合格者9人全員を除籍する事態に発展した。「進学過熱がもたらした教育のひずみ、ひいては今日の社会によどんでいる金権的な腐敗体質について深刻な反響を呼び起こす契機ともなった」と評価され、同年度の新聞協会賞を受賞した。
- 1981年5月18日、東京本社の「安保と非核取材班」が1~3面の大半を使ってエドウィン・O・ライシャワー元駐日アメリカ大使の核持ち込み発言をスクープ。これは、古森義久記者の電話インタビューに対し「日米間の了解の下で、アメリカ海軍の艦船が核兵器を積んだまま日本の基地に寄港していた」と発言したもので、「非核三原則」に基づき日本政府が否定していた中で、元駐日アメリカ大使が認めたことは日本国内で騒動になった。「戦後政治のナゾの部分に光を当てた歴史的スクープ」と評価され、同年度の日本新聞協会賞を受賞した。1999年には、アメリカの外交文書の中から「1963年にライシャワーが当時の大平正芳外務大臣との間で、日本国内の基地への核兵器の持ち込みを了承した」という内容の国務省と大使館の間で取り交わされた通信記録が発見され、この発言を裏付けることになった。
- 1986年1月31日、前年2月27日に脳卒中で倒れて以来詳しい病状がわかっていなかった田中角栄元首相が娘の真紀子に付き添われながら車椅子で移動する姿を空撮し、一面および社会面に掲載。3日後には地上から撮影した写真も掲載し、元首相の深刻な病状を国民に伝えた。このスクープは「上空、地上の双方からキャッチした“ありのままの元首相の姿”が各界に与えた衝撃は極めて大きかった」と評価され、同年度の日本新聞協会賞を受賞した。
- 2007年12月3日、厚生労働省が2006年から石綿による労災があった事業所名を非公表とする政策をとっていた中で、石綿被害患者支援団体と信頼関係を結ぶことにより、約3500人分の石綿被害者の資料を入手、これを元に独自に取材、分析を行い、全国各地の様々な業種にわたる520以上の事業所に石綿被害の労災が及んでいたことをスクープ。このスクープにより、厚生労働省は方針転換を余儀なくされ、2年7か月ぶりに石綿労災があった事業所名を公表するという事態に発展した。「石綿健康被害救済法の不備により救済対象とならない患者の実情を伝えるその後の特報など、10年以上にわたる地道な取材の成果は、法改正を促し、救済拡大の道を開く価値ある報道」として評価され、2008年度新聞協会賞受賞[14]。
議論を呼んだ報道 [編集]
- 戦前の金解禁論争において、毎日新聞は一貫して金解禁を支持した。これに対して、石橋湛山や高橋亀吉などジャーナリストや財界人の団琢磨や各務鎌吉は金解禁に対しては、慎重であるべき、もしくは新平価での解禁を主張した。これは、もし旧平価で解禁された場合、深刻なデフレ不況に陥り、輸出においても割高になるためである。当時、毎日新聞は社説において、金解禁がなされれば、物価下落によりサラリーマンの購買力が上がり、国民生活が豊かになると主張した。
- 日中戦争当時の「百人斬り競争」を報道した新聞のひとつは、毎日新聞の前身の「東京日日新聞」である。戦後開かれた南京軍事法廷において、「百人斬り」を行ない「捕虜および非戦闘員に対する虐殺競争をおこなった」「南京大虐殺の共同正犯」(軍事法廷判決文)と判決を受け二人の元将校が処刑された。その後、「百人斬り競争」報道に関して、2003年4月に元将校の遺族が損害賠償を求める民事訴訟を提起したが、2006年12月22日に最高裁は遺族側の上告を棄却する決定を出し、遺族側の敗訴で訴訟は終結した。
- 1971年の沖縄返還協定に関する日米間の密約情報を、毎日新聞政治部記者の西山太吉が外務省の女性事務官を騙し肉体関係を利用して入手した。この密約情報が社会党に渡り、国会で政府を追求して大問題となり、2人は逮捕された。密約の内容よりも肉体関係を利用した卑劣な手口などに関心が集まり、報道の自由がどこまで許されるのか物議を醸した。西山と女性事務官は国家公務員法の守秘義務違反で有罪となった。この西山事件により毎日新聞は不買運動に悩まされ、第一次オイルショックの影響も受けて倒産したが、会社更生法の適用を受けて再建された。
- 2006年8月、奈良県で妊婦が出産中に意識不明になり、他の19の病院に受け入れを断られた末に大阪の病院まで運ばれ、出産後に脳内出血により死亡するという事件が起きた。これに対し毎日新聞は10月に記事として発表し、検証キャンペーンを行った。この結果日本の母子救急搬送システムの不備が広く問われることになった。一方で、この内容について、医療従事者から、報道内容が事実に反し、科学的でないと指摘がなされたが、毎日新聞の公式見解としてはこれまでのところ「訂正すべき記載はない」として見解が対立している。第11回新聞労連ジャーナリスト大賞特別賞、第14回坂田記念ジャーナリズム賞受賞。
- この事件に関して毎日新聞は2006年10月22日「支局長からの手紙」において「何度足を運んでもミスや責任を認めるコメントは取れませんでした」と、医療訴訟などが何も起こされていない段階で医療ミスであったと主張している。しかし2008年12月18日「記者の目」(東京社会部・清水健二)において「誰かに強引に責任を押しつけるような報道は慎むべきだが、報道がなければ関係者は危機感を共有できず、再発防止策も立てられない」と社としての意見を翻すとともに、自らは口を挟むのみで、「関係者」が問題対策に関わるべきであるとしている[15]。大淀町と遺族の裁判は結審しており、裁判所は新聞で報道されたような事実は全くないうえ、医療ミスはないと認定している。[16]
疑義が持たれた報道、スキャンダル [編集]
- 1969年12月12日の朝刊トップで前年に発生した三億円事件の12,301人目の容疑者として捜査線上に浮かんでいた元運転手の存在を単独報道。毎日紙面に載ることを知った警察は容疑者の逃亡を防ぐため、新聞配達前に急遽任意同行を求め、別件で逮捕して取調べを行った。他のマスコミによる後追いも含め、実名や顔写真も入った犯人扱いの報道が行われたが、犯行当時のアリバイが成立したため事件と無関係と判明し、翌日釈放された。報道による人権侵害の最たる例であり、15日付朝刊では「三億円事件の反省」という記事を載せ釈明を行った。容疑者とされたこの人物はこの逮捕で職を失い、「三億円事件の犯人」との周囲の偏見やマスコミ関係者の「あの人は今」的な取材に悩まされノイローゼ状態となり、2008年9月に自殺したことが明らかとなった[17]。
- 1984年1月24日の夕刊社会面で漫画『日出処の天子』の内容は信仰対象を冒涜しているとして法隆寺が怒り、抗議を検討しているという談話と、作者の山岸凉子・掲載誌である「LaLa」編集部の反論コメントを掲載したが、この三者のコメント全てが実際の取材を行わずに記事を書いた毎日新聞奈良支局記者の創作であり、法隆寺側は問題の漫画を読んですらいなかった。作者による抗議や、事実無根であるとの法隆寺の証言があり、2月4日の夕刊紙上で関係者各位へのおわびが掲載された。
- 1989年6月1日、夕刊紙上で「グリコ事件で取り調べ 江崎社長の知人ら4人」と、一面から社会面までブチ抜きで当時社会現象にまでなっていたグリコ・森永事件の犯人逮捕をスクープしたが、記事の全てが誤報であったことが判明、岩見隆夫編集局長が辞任し、6月10日に「行き過ぎ紙面を自戒」と紙上に掲載する事態になった。
- 1998年2月4日、東京中野で「ナヌムの家」に関する試写会が行われた際に現場にいた慰安婦に対して「好きでやったんだろう」「売春婦!」と会場から「とげとげしい野次」が飛んだが、会場にいた元慰安婦の女性がすくっと立ち上がって、身の上話をしたところ会場は静まり返えり、それを見た友人が「感動的」だったと教えてくれたと佐藤由紀記者が伝え、映画を紹介した[18]。しかし実際には現場でそのような野次はなく、事実無根の内容であった。翌月に毎日新聞は「先月行われた試写会でとげとげしい やじがあったとあるのは、一昨年の別の試写会での出来事でした。(中略)また元従軍慰安婦の女性が身の上を語ったとあるのは、 映画の中のことでした。」と訂正し謝罪[19]。ところがこの訂正記事もおかしく、映画の中に「身の上話」など出てこないことが指摘され、虚報に虚報を重ねるという報道機関としての体質を批判された[20]。
- 2002年7月8日発行の夕刊1面トップで、「『キレやすい』『集中できない』『つきあい苦手』ゲーム脳ご注意」との見出しで「ゲーム脳」を取り上げた。この「ゲーム脳」理論はやがて他の科学者らから、科学的な妥当性に疑問が持たれることとなる(いわゆる「ニセ科学」)。その後の毎日新聞による関連報道に、「ゲーム脳」完全否定ではないが、2007年の連載「科学と非科学」の中で脳ブームを否定的に取り上げた記事[21]、2008年の連載「子どもとゲーム」の中の「ゲーム脳」に懐疑的な記事[22]がある。
- 2004年1月31日には、系列ホテル「国際観光ホテルナゴヤキャッスル」のコーヒー豆納入を巡り、当時の毎日新聞社長が自宅付近で拉致される毎日新聞社長監禁事件が発生した。毎日新聞社はこの事実を一ヶ月間隠蔽し、警視庁が犯人の起訴を発表する僅か10分前になってから事件を発表した。この一連の隠蔽行動に、日頃、企業に対して厳しく説明責任を追及してきたはずのマスコミ自身が、企業としての説明責任を果たしていないのではないか、との指摘がなされた[誰?]。
- 2005年12月28日、JR羽越線で竜巻によっておこった車両転覆事故に対し社説内で「風の息づかいを感じていれば、事前に気配があったはずだ」「運転士が自然現象を予知すれば事故を回避できたはずだ」などと述べ、電車の運転士に超能力を求めた。後の2006年2月7日には読者からの批判を受け止め、検証記事を掲載した。検証記事では「開かれた新聞」委員会委員のコメントが寄せられ、一連の社説は責任追及を優先する論説委員の個人的感情であり、「現実とかけ離れた精神論」でしかないことを認めた。また、非科学的な論拠しかないために説得力を持たず、「安全対策にほとんど役に立たない」とした。
- 2006年6月、大阪府箕面市で48年間に渡って営業してきた毎日新聞販売店の経営者が、長いあいだ新聞販売店の購読者数をはるかに上回る新聞買い取りを強制され、配達されないまま古紙業者に回収される「押し紙」で食い物にされ詐欺被害を受けたとし、毎日新聞社に対して6,280万2,913円の損害賠償を求める訴えを大阪地裁に申し立てる内部告発事件が発生した[23]。しかし、紙面では訴えられた事実について全く報道しなかった。
- 2006年9月、佐賀県知事の公式記者会見において佐賀支局の記者が「今回の行事に天皇と皇后が佐賀に来ることの意味って何ですか」「非常にお金も人もかかりそうなんですけれども、この2人が佐賀に来るということで、そこまでする価値があるんですかね」といった質問を行う。この様子が県の公式ホームページで公開されたため、毎日新聞社に抗議が殺到し、翌年の年頭に毎日新聞は釈明記事を掲載した[24]。
- 2007年2月、元毎日新聞社員の吉原勇によって大阪本社売却の際に行われた地価吊上げの詳細を記した暴露本が「特命転勤―毎日新聞を救え!」というタイトルで出版された。この本によれば、毎日新聞は経営状態が悪化していた財務状況を改善するため、大阪本社跡地を売却を行った[25]。この際、土地の値段が市価の数倍の値段に吊り上げられ、1980年代末の大阪の土地バブルのきっかけとなった[26]。
- 2008年3月3日の「酸いも辛いも」で、特別顧問の玉置和宏が、「大阪人の暴挙と快挙」とのタイトルで、京都にある国立国会図書館関西館の場所を大阪だと間違って記述する。「大阪人は東京マスコミからすると扱い難い部類に属し、彼らはとにかく東京と同じでなければ気がすまない。」、「大阪に国会がないのに国会図書館が存在するのは、東京にあるのに大阪にないからだろう。」と、事実誤認から大阪人批判に繋げるが、6日に訂正し、お詫びを掲載する。
- 2008年5月下旬、毎日新聞社の英語報道サイトMainichi Daily News(「毎日デイリーニューズ」)のコラム「WaiWai」において長期にわたり不正確・猥雑な記事が配信されているとして、日本語のインターネット・コミュニティ(掲示板など)で批判が高まり、問題が表面化。同コラムの閉鎖、担当記者の処分や上司らの社長などへの昇進、Webサイトの編集体制の刷新などに発展した。
- 2008年11月17日、18日の夕方に起きた元厚生事務次官宅連続襲撃事件の報道を受け、11月18日21時半前後にウィキペディア日本語版の社会保険庁長官の項目が編集された。その後、ウィキペディア日本語版において初期設定では編集履歴の時刻が協定世界時 (UTC) で表示されることを知らない毎日新聞の記者が、この編集を9時間前の11月18日正午すぎの編集と誤認、吉原健二宅襲撃事件の6時間前に行われた犯行予告と考え、捜査本部に通報した上、2008年11月19日朝刊において「犯行を示唆する書き込みがあったことが分かった」と報じた[32][33][34][35]。テレビ局もこの記事に釣られ、真偽を確認しないままニュース番組などで放映した[36]毎日新聞は11月19日の夕刊及びウェブ上で誤報であると認めて謝罪した[37][38][39]。20日の朝刊においても改めて謝罪記事を掲載した。1つの記事に対して複数の謝罪記事が出されることは異例であった[40]。しかし、毎日新聞の記者の誤解が原因としながらも、書き込みを行った人物を「犯行示唆と受け取れる書き込みを示唆したとする人物」と表現し、誤解の元となった書き込みを行った人物に対して責任転嫁を行っている[41][42]。この誤報の影響で、ウィキペディア日本語版を編集した誤報の被害者は仕事を休んで警察に出頭することになり、毎日新聞に対して謝罪と補償を求めた。毎日新聞社は面会に応じ口頭で謝罪を行った。面会中に毎日新聞社の担当者が「毎日新聞は正義」と恫喝したり、紙面での謝罪や補償は拒否し「誤報がなくても取り調べの可能性はあった」などと主張したということを11月29日に誤報被害者が証言した。しかし、毎日新聞社社長室の広報担当者は12月1日「毎日新聞は正義」という発言は無かったとした。毎日新聞の報道加害者としての自覚のなさ、人権意識の欠如が批判を浴び、毎日新聞の一般常識がJ-CAST等で問題視された[43][44][45][46]。
- 2009年1月9日夕刊で報じた、あるシャッターメーカーに対する条例違反を報じた記事に対して、当該メーカーの持ち株会社から「事実と異なる」との抗議をうけ、当日中に、同社ニュースサイト上の当該記事を削除していたことが明らかになった。これに対して、毎日は「「誤報」とは考えておらず、抗議による調査のため」とコメントをしている[47]。
- 2009年3月、フィリピンから偽造パスポートを使用して不法に入国及び滞在をしているカルデロン一家の件について、偽造パスポートや不法滞在という事実をあたかも軽い失敗のように扱い、「善良である」と報道した。この件について、電子掲示板のユーザーやネットメディアなどから批判の声が上がった[48]。
- 2009年4月28日、ライブドアが運営しているポータルサイトのニュース欄トピックス上に掲載される毎日新聞への批判記事について、毎日新聞側がこれまで複数回にわたり、ライブドアに対してトピックスへの掲載を中止するよう圧力をかけてきたことが、PJニュースの取材で明らかになった。毎日新聞の英語メディア毎日デイリーニューズが不正確で猥雑な記事を10年に渡って海外に配信し続けてきた毎日デイリーニューズWaiWai問題についてライブドアニュースが配信したところ、「毎日新聞担当者は、何も知らないPJニュースの市民記者の記事をなぜトピックスに載せるんだ」との抗議を毎日新聞社側から受けたという。ライブドア元社員によれば「うちはライブドア事件直後でも記事配信を継続してやったではないか」と圧力を掛けたとのこと。その態度は、「大事件を起こした問題企業にも記事を売ってやったという態度がひしひしと伝わってきた」「いつでも配信契約をやめてしまってもいいんだぞ」など、非常に傲慢な態度であったという。記事を作成したPJニュースは、これを言論弾圧であると強く批判している[49]。ただ、このニュースでPJニュースが毎日新聞社に取材した内容が一切書かれていないため、毎日新聞が上記のような圧力をかけたり、発言をしたのが事実かどうかははっきりしていない。
- 2009年5月27日、小倉北区のリーガロイヤルホテル小倉で開かれた第6回毎日・北九州フォーラムにて、毎日新聞特別編集委員である岸井成格氏は「日本は北朝鮮と戦後処理をしていない。国交正常化して平和条約を結ぶと、(賠償金として)経済協力の形で、韓国に出しただけは払わなければならない。現在の額では1兆円」と述べ、日韓基本条約に反する見解を出すとともに、毎日jpに記事を掲載した。
- 2009年6月13日の毎日新聞朝刊で、毎日新聞編集局顧問の岩見隆夫が同紙に連載しているコラム「近聞遠見」の5月30日掲載分に事実誤認があったとして「おわび」を掲載した。問題となったのは、5月27日の党首討論で麻生太郎首相が「(小沢一郎氏と)『一心同体、殉じる時は殉じる』と言っていた方が代表になっている」と鳩山由紀夫民主党代表に発言したことを取り上げ、「鳩山代表がそんな言葉を使ったという記憶がない。麻生首相の思い込みではないのか」と述べ、首相の「言語感覚」を批判した内容である。しかし、読者の指摘により調査した結果、鳩山幹事長(当時)が3月29日、フジテレビ系「新報道2001」に出演した際、「(小沢一郎代表に)殉じる時は殉じますよ」と発言していたことが確認された[50]。毎日新聞は後に誤りを認め、「おわび」を掲載した。
- 2009年8月24日、「メディア政策:新政権に望む」と題する記事において、インターネットの普及に伴う読者離れから経営の悪化する新聞業界への公的支援(税制上の優遇と年間500億円の販売助成)を求める識者コメントを掲載した。社会の公器として新聞の果たす役割は重要ではあるものの、幾分手前勝手にも感じられる記事内容は失笑を買う事となった[誰?]。
- 2010年1月5日小沢一郎の土地購入費虚偽記載問題に関して「土地購入費虚偽記載、石川議員「私の一存」来週にも在宅起訴」と報じたが実際には強制捜査が行われ逮捕となった。[3]
- 2010年4月9日、毎日新聞社政治部長小菅洋人は、政権によって紙面の論調を変えようとしていたことを明らかにした。「(民主党)政権は迷走するかもしれないが、混乱、混乱と書くのはよそう。生みの苦しみもあるはずだ」との指示を部下に出し、さらに「自民党政権時にはこんなことは言ったことがない」とあかした[51]。
発行情報 [編集]
発行所 [編集]
印刷工場 [編集]
(東京本社)
東日印刷(越中島・川崎)
[4] 毎日新聞首都圏センター(海老名・川口・福島)
[5] 毎日新聞北関東コア(高崎) 東日オフセット(青森)
[6](西部本社) 毎日新聞九州センター(北九州・鳥栖)
(中部本社) 毎日新聞名古屋センター(名古屋)
(北海道支社) 毎日新聞北海道センター(北広島)
対象地域 [編集]
- 東京本社版 東北、関東、甲信越、静岡県
- 大阪本社版 近畿、三重県伊賀・熊野地方、北陸、中国(山口県、島根県石見地方除く)、四国
- 西部本社版 九州(沖縄県含む)、山口県、島根県石見地方
- 中部本社版 東海(静岡県、三重県伊賀・熊野地方除く)
- 北海道支社 北海道
関連・兄弟会社 [編集]
他紙との関係 [編集]
産経新聞 [編集]
聖教新聞 [編集]
経営危機の後、収入源として
聖教新聞の印刷を一部請け負うようになったため、
創価学会関連の記事や広告が比較的多く、また創価学会幹部の発言がコラムや対談記事として掲載されることがある」
[52]。そのため特定の宗教団体を巡る記事を掲載するに際して、編集の独立性に対する萎縮的効果を生じているのではないかという指摘がある(
週刊ダイヤモンド2004年8月7日号に詳述)。しかし創価新聞・公明新聞といった創価学会関連紙の印刷請負は毎日新聞に限らず、読売・朝日・日経の全国紙および中日(東京)・北海道・西日本新聞等のブロック紙・地方紙など34紙に及ぶが、週刊文春(2002年9月19日号)の記事によれば公明党の2001年分の政治資金収支報告書を元に受注金額が最も多いのは毎日新聞社の印刷子会社である東日印刷の約3億円で、二位の日刊オフセット(朝日新聞社系)の1億3000万円と比べて圧倒的に多いだけでなく、毎日新聞社はグループ全体で他にも毎日北海道、毎日旭川、東日オフセット、福島民報社、毎日新聞北関東コア、エスティ・トーニチなどで印刷受注しており、他紙を圧する受注額を誇っているとされる。対して創価学会側も聖教新聞2000年1月25日紙面において池田大作(同紙名誉社主)らが東日印刷幹部(元毎日新聞取締役含む)を迎え、「東日と 家族の如き 聖教は 共に栄えむ 歴史を築きて」という句と共に「SGI(創価学会インターナショナル)勲章」を贈呈したと報じている。 また、2009年3月1日の紙面オピニオンの欄に名誉会長である池田大作氏の寄稿を掲載している。タイトルは「危機の打開へ若き活力を」。
関連放送事業者 [編集]
- 東京放送ホールディングス(TBSHD) - 放送事業が民間に開放される動きを察知した毎日新聞社は、いち早く民放ラジオ局開設に向けて動き出した。結局電通や読売新聞社、朝日新聞社との合弁となりラジオ東京(JOKR)が設立されたが、同社設立までの間積極的に動いていたのは毎日系だけだった。このため開局当初から関係が深く、出資比率がほぼ同じであったはずの新聞各社よりも実際は結びつきが強かった。
1961年以降、新聞出身者の同社常勤役員は毎日系だけとなる。1973年12月には出資新聞各社の合意に基づき新聞資本の統一が行われることとなり、1974年5月までに読売新聞社や朝日新聞社から株式を購入し、筆頭株主になったものの、直後に毎日新聞社自体の経営が悪化。
TBSは毎日新聞社が筆頭株主になる事で経営に介入される事を警戒。しかし毎日新聞社は経営体質改善のため、TBS株の売却益で累積損失の圧縮を図る事を決意。
こうした両者の思惑が一致して、1977年度中に毎日新聞社はTBSの持株の大部分を毎日放送他に売却して資本関係を薄めたが、一方で歴代社長を同社非常勤役員に派遣。友好関係は維持して現在に至っている。
- 毎日放送(MBS) - 大阪地区でも、毎日新聞社が阪急電鉄、日本電気と提携し、新日本放送(NJB)を設立。名古屋の中部日本放送(CBC)と共に民放第一号の名乗りを上げたが、実際に開局に尽力したのは毎日本社ではなく、毎日新聞を依願退職して同局に移籍した高橋信三(専務・社長・会長を歴任)であったといわれる。このため従来から独自色が強く、現在毎日新聞は同社の大株主上位10位に名を列ねていない(2004年3月31日現在)。元々筆頭株主だったが、TBS株式売却と同時期にやはり外部に大量放出。毎日放送側の意向が強かったと言われる。
在阪局で同じく新聞と共通の名前を持つ朝日放送や讀賣テレビ放送とは新聞社の関係度合いが異なる。
- RKB毎日放送(RKB) - 福岡地区も毎日新聞社と新日本製鐵(当時八幡製鉄)、西日本鉄道などが中心となり、ラジオ九州(RKB)を設立。1958年西部毎日テレビジョン放送(当時の八幡市に所在。未開局)を合併し、現在の商号に変更。この局も毎日新聞というよりは毎日出身者である金子秀三(専務・社長・会長を歴任)の影響力が大きかった。毎日新聞・MBS・TBSのいずれとも関係が深く、現在も毎日新聞は同局第2位の大株主(7.74%、2004年3月31日現在)。
上記三社は毎日新聞社が公表する「友好会社」である。グループ会社ではなく、立場は対等であり、代表者同士が相互に社外役員に就任している。
- ラジオ福島(RFC) - 第4位の大株主(10.00%、2004年3月31日現在)。
上記は毎日新聞の関連会社である。
以下は出資先や報道協力会社等に該当する局である。
関連紙 [編集]
- ここまでは毎日新聞社が直接発行している新聞・雑誌である
関連項目 [編集]
毎日新聞社の主な主催事業 [編集]
毎日新聞関連テレビ番組 [編集]
その他 [編集]
脚注・出典 [編集]
外部リンク [編集]
ニュース [編集]
会社案内など [編集]