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纒向遺跡
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纒向遺跡または纏向遺跡(まきむくいせき)は、奈良県桜井市、御諸山(みもろやま)とも三室山(みむろやま)とも呼ばれる三輪山の北西麓一帯に広がる弥生時代末期〜古墳時代前期の遺跡群を指す。前方後円墳発祥の地とされている。
目次 [非表示]
1 概要
2 発掘調査
2.1 主な遺構・遺物
3 邪馬台国畿内説の最有力候補地
4 脚注
5 参考文献
6 関連項目
7 外部リンク
概要 [編集]
遺跡名は旧磯城郡纏向村の村名であり、その村名は垂仁天皇纏向珠城(たまき)宮、景行天皇纏向日代(ひしろ)宮の纏向に由来する。
現在(2000年代)の把握されている纒向遺跡の範囲は北は烏田川、南は五味原川、東は山辺の道に接する巻野内地区、西は東田地区およびその範囲は約3km2になる。遺跡地図上では遺跡範囲はJR巻向駅を中心に東西約2キロメートル・南北約1.5キロメートルに及び、その形は楕円形であり、面積は3000m2にまで達する。
地形は、東が高く西が低い。三輪山・巻向山・穴師山などの流れが纏向川に合流し、その扇状地上に遺跡が形成されている。
纒向遺跡の始まりは、縄文時代後・晩期からと推定される。粗製土器片やサヌカイト片に混じって砂岩製の石棒破片が土偶や深鉢などがこの遺跡のあちこちから出土していて、縄文時代の集落が営まれていたと考えられている。
この遺跡からは弥生時代の集落が発見されておらず、環濠も検出されていない。つまり纒向遺跡の弥生時代のことはほとんど分かっていない。銅鐸の破片や土抗が2基発見されているのみである。この遺跡より南に少し離れた地より弥生中期・後期の多量の土器片が発見されており、方形周濠墓や竪穴住居なども出土している。さらに南西の地から多くの遺物が出土している。
纒向遺跡は、古墳時代の始まりを告げる遺跡であり、今日、邪馬台国畿内説を立証する遺跡ではないかとして注目を浴びている。3世紀前半の遺構は少数である。遺跡の最盛期は3世紀終わり頃から4世紀初めにかけてである。農業用の大型水路や無数の土抗の中に三輪山祭祀に関する遺物のセットが多数投げ捨てられていた。石塚古墳周濠から吉備系の祭祀遺物弧文円板(こもんえんばん)が出土している。ピークが過ぎた4世紀末には埴輪が出土する。
飛鳥〜奈良時代に入るとこの地域に市が発達し、大市と呼ばれた。箸墓古墳が宮内庁比定では大市墓というのはこのためである。奈良・平安時代では井戸遺構や土抗、旧河道などが検出されている。「大市」と墨守された土器も検出されている。
発掘調査 [編集]
現在の名称で呼ばれるまでは太田遺跡・勝山遺跡として学会に知られており、小規模な遺跡群の1つとして研究者には認識され特に注目を集めていなかった。しかし1971年に行われた県営住宅、小学校建設の為の橿原考古学研究所が行った事前調査により幅5m、深さ1メートル、総延長200メートル以上の運河状の構造物が発見された事により注目を集めることになる。その後も、さまざまな出土品が広範囲にわたって確認された。1977年の第15次調査以降、調査主体が橿原考古学研究所から桜井市教育委員会へと移り現在も調査を継続している。2009年にはいくつかの建物も発掘され、纒向遺跡は柵や砦で囲まれた都市の一部らしいことが明らかになってきた。
主な遺構・遺物 [編集]
主な遺構
唐古・鍵遺跡の約10倍の規模を持ち、藤原宮に匹敵する巨大な遺跡で多賀城跡よりも大規模である。都市計画のなされていた痕跡と考えられる遺構が随所で確認されている。
矢板で護岸した幅5メートル、深さ1メートル、総延長200メートル以上にわたる巨大水路の発見。
底からは湧水がみられ、内部は大きく分けて3層に分かれている。径約3メートル・深さ約1.5メートルの一方が突出する不整形な円の土抗が約150基発見された。
掘立柱建物跡と、これに附随する建物跡(古墳時代前期前半の2×3間で床面積約23平方メートルの建物、家屋倒壊遺構と黒漆塗りの弧文を持つ木製品、1×1間の小家屋と2×2間の総柱建物と弧文黒漆塗木製品、纏向玉城宮跡の石碑、宮殿居館の存在が疑われる。その他に掘立建物17棟検出)。
竪穴式住居発見され始めている。
弧文板・土塁と柵列を伴ったV字形の区画溝
導水施設跡(宮殿の排水施設か)
遺跡内に点在する古墳(纏向古墳群)
祭祀遺跡(穴師ドヨド地区の景行天皇纏向日代宮の伝承地から碧玉製勾玉・石釧・管玉・ガラス小玉、4世紀後半の土器など出土)
現在は確認できない埋没古墳が多数ある可能性あり。
主な遺物
朱色に塗った鶏形木製品
吉備地方にルーツを持つとされる直線と曲線を組合わせて文様を施した弧文円板(こもねんばん)と呼ばれる木の埴輪。
絹製の巾着袋
瓦質土器(1996年に土器片の発見。胎土成分組成の分析により、2001年に国内で類例のない事が確認され、朝鮮半島内の技術で作られたものと判明した)
ミニチュアの舟
木製鏃
搬入土器
石見型楯形(いわみがたたてがた)木製品
日本全国で作られたと見なされる遺物が出土しているが、中でも東海地方の物が多い。
特異な遺跡
纒向遺跡は大集落と言われながらも、人の住む集落跡が発見されていない。現在発見されているのは祭祀用と考えられる建物と土抗、そして弧文円板や鶏形木製品などの祭祀用具、物流のためのヒノキの矢板で護岸された大・小溝(運河)などである。遺跡の性格としては居住域というよりも、頻繁に人々や物資が集まったり箸墓古墳を中心とした三輪山などへの祭祀のための聖地と考える学者も多い。
辻・トリイ前地区でほぼ南北に2×3間の掘立柱建物とその南に東西に並ぶ柵列が、太田南飛塚地区で家屋倒壊遺構が、巻野内家ツラ地区で1×1間の小家屋と2×2間の総柱の建物が検出されている。このほか太田メグリ地区では、掘立柱建物が17棟が、東田柿ノ木地区・太田飛塚地で竪穴住居跡が発見されている。
纒向遺跡の主な古墳
纒向勝山古墳
纒向矢塚古墳
纒向石塚古墳
東田大塚古墳
箸墓古墳
ホケノ山古墳
木製品の年輪年代測定などから、纒向石塚古墳は遅くとも225年頃までには築造されていたことが判明している。
邪馬台国畿内説の最有力候補地 [編集]
搬入土器の出身地割合 関東系 : 5%
東海系 : 49%
近江系 : 5%
北陸・山陰系 : 17%
河内系 : 10%
紀伊系 : 1%
吉備系 : 7%
播磨系 : 3%
西部瀬戸内海系 : 3%
弥生時代末期から古墳時代前期にかけてであり、邪馬台国の時期と重なる。
当時としては広大な面積を持つ最大級の集落跡であり、一種の都市遺跡である。
3世紀を通じて搬入土器の量・範囲ともに他に例がなく出土土器全体の15%は駿河・尾張・近江・北陸・山陰・吉備などで生産された搬入土器で占められ、製作地域は南関東から九州北部までの広域に拡がっており、西日本の中心的位置を占める遺跡であったことは否定できないし、人々の交流センター的な役割を果たしていたことが窺える。このことは当時の王権(首長連合、邪馬台国連合)の本拠地が、この纒向地域にあったと考えられる。[1]
伝承では倭迹迹日百襲姫命の墓とされる箸墓古墳があり、これは墳丘長280メートルに及ぶ巨大前方後円墳である。それに先駆けて築造された墳丘長90メートル前後の纒向型前方後円墳も3世紀では列島最大の墳丘規模を持ち、ヤマト王権最初の大王墓であり各地にも纒向型前方後円墳が築造され、政治的関係で結ばれていたとも考えられている。
倭迹迹日百襲姫命はまた、邪馬台国の女王・卑弥呼とする説がある(肥後和男『邪馬台国は大和である』秋田書店)[2]。
以上の点から邪馬台国畿内説の有力候補地と見なされている。
ヤマト政権発祥の地
『記紀』では崇神天皇・垂仁天皇・景行天皇の磯城瑞籬宮(しきのみずかきのみや)、纏向珠城宮(まきむくのたまきのみや)、纏向日代宮(まきむくのひしろのみや)が存在した伝えられ、さらに雄略の長谷(泊瀬)朝倉宮、欽明の師木(磯城)島大宮(金刺宮)なども存在した。
『万葉集』にも纒向の地名がみられる歌が数多く詠まれている。
脚注 [編集]
^ 「ヤマト王権の誕生-王都・纒向遺跡とその古墳」寺沢薫『日本の考古学』奈良文化財研究所編 学生社 2007年 纒向遺跡の特徴と特異性を六点あげている。(1)3世紀初めに突然現れた。きわめて計画的集落で、規模も大きい。(2)搬入土器が多く、その搬出地は全国に跨っている。列島では最大であり、市的機能を持っていた。(3)生活用具少なく、土木具が目立ち、巨大な運河が築かれ、大規模な都市建設の土木工事が行われている。(4)導水施設と祭祀施設は王権祭祀。王権関連建物。吉備の王墓に起源する弧帯文、特殊器台・壺など。(5)居住空間縁辺に定型化した箸墓古墳、それに先行する纒向型前方後円墳。(6)鉄器生産。
^ 大正時代の笠井新也は卑弥呼をモモソヒメに、弟王を崇神天皇にあてた。根拠は(1)崇神天皇の崩年干支が戊寅年で卑弥呼没年に近い(2)モモソヒメは三輪山の神との神婚伝説や「日也人作、夜也神作」の説話などからも一種の巫女であることは明らかで、「鬼道」を能くしたという卑弥呼の姿によく似ている(3)モモソヒメは崇神天皇の叔母にあたるが、外国人(陳寿)から見れば甥と弟ほどの誤りは許されるであろうというものであった。この説に対しては懐疑的な意見が多いが、考古学者の中には最古の巨大前方後円墳が箸墓古墳であることから箸墓は卑弥呼の墓ではないかとする見方がある。ちなみに箸墓古墳の後円部の大きさは直径約160mであり、「魏志倭人伝」の「卑彌呼死去 卑彌呼以死 大作冢 徑百余歩」の記述に一致している。
参考文献 [編集]
『日本の古代史 5 前方後円墳の世紀』 中央公論社
和田萃『大系 日本の歴史2 古墳の時代』小学館<小学館ライブラリー>、1992.8、ISBN 4-09-461002-2
石野博信『大和・纒向遺跡』學生社、2005.5、ISBN 4311304854
石野博信『古墳文化出現期の研究』學生社、1985.3、ASIN B000J6UDBG
関連項目 [編集]
弥生時代の遺跡一覧
近畿の史跡一覧
邪馬台国
外部リンク [編集]
桜井市ホームページ
桜井市埋蔵文化財センター
桜井市埋蔵文化財センターに関するHP
国土地理院 地図閲覧システム 2万5千分1地形図名:桜井(南東)
纏向の初期古墳
纏向で上ツ道発見
この「纒向遺跡」は、日本の歴史に関連した書きかけ項目です。この記事を加筆・訂正などして下さる協力者を求めています(P:歴史/P:歴史学/PJ日本史)。
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魏志倭人伝
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魏志倭人伝(ぎしわじんでん)は、中国の正史『三国志』中の「魏書」(全30巻)に書かれている東夷伝の倭人の条の略称であり、日本において一般に知られる通称である。江戸時代の漢学者の中で『三国志』という書名を用いず『魏志』『蜀志』『呉志』などと称する慣習があったため、この通称が用いられた。
正式な名前は「『三国志』魏書東夷伝倭人条」である。全文で1988(又は2008)文字からなっている。著者陳寿の死後正史の扱いを受ける。
著者は西晋の陳寿で、3世紀末(280年-290年間)に書かれた。現存する数種の版本のうち、「百衲本」が最も善本とされるが、現在の中国では諸本を校訂した「中華書局本」が多く通行しており日本語訳もこれを底本としている。
目次 [非表示]
1 概要
2 倭国の様子と邪馬台国までの行程
2.1 邪馬台国までの国と行程
2.2 その他の国
3 倭人社会の風俗、生活、制度など
4 倭と魏の関係
4.1 卑弥呼と台与(『三国志』では壹與)
4.2 魏・晋との外交
4.3 倭人のその後
5 論争
6 「魏志倭人伝」と『後漢書』倭伝との関係
7 脚注
8 関連項目
9 外部リンク
概要 [編集]
まず、留意しなければならないのは、『三国志』の中に「倭人伝」という列伝が存在したわけではなく、あくまでも「東夷伝」の中に倭及び倭人の記述があるということに過ぎないということである。従って東夷伝の中に記された「東夷」の概念には当然倭人の事も含まれていると考えられるため、倭人に関する条のみならず、東夷伝全体を通読しなければ意味がないという考え方もある。
中国正史中で、はじめて日本に関するまとまった記事が書かれているとされる[1]。当時の倭(後の日本)に、邪馬台国を中心とした小国(中国語でいう国邑=囲われた町)の連合が存在し、また邪馬台国に属さない国も存在していたことが記されており、その位置・官名、生活様式についての記述が見られる。また、本書により当時の倭人の風習や動植物の様子がある程度判明しており、弥生時代後期後半の日本を知る第一級史料とされている。
しかし、必ずしも当時の日本の状況を正確に伝えているとは限らないこと、多様な解釈を可能とする記述がなされていることから、邪馬台国に関する論争の原因になっている。 また一方で、岡田英弘など魏志倭人伝の史料としての価値に疑念を投げかける研究者もいる。彼らは位置関係や里程にズレが大きく信頼性に欠ける点を根拠として挙げている。
「倭人伝」は、大きく分けて3段落から構成されている。細かな分け方についてはいくつかの説がある。
倭国の様子と邪馬台国までの行程 [編集]
「魏志倭人伝」によると、倭人は山島に依って国邑とし、漢の頃から大陸への朝貢があり、記述の時点では三十カ国が使者を通わせている。
邪馬台国までの国と行程 [編集]
国名や官名には諸説がある。
帯方郡から倭国に至るには水行で海岸を循って韓国を経て南へ、東へ、7000余里で倭国の北岸の狗邪韓国(くやかんこく)に到着する(「従郡至倭、循海岸水行、歴韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國七千餘里」)。
始めて海を1000余里渡ると対馬国(つまこく)に至る(「始度一海千餘里、至對馬國」)。大官は卑狗(ひこ)、副官は卑奴母離(ひなもり)。絶島で400余里四方の広さ。1000余戸が有る。山は険しく、道は獣道のようで、林は深く、良い田畑がなく、海産物で自活。船で南北岸の市へいく。
また南に瀚海と呼ばれる海を1000余里渡ると一大国に至る(「又南渡一海千餘里、名曰瀚海、至一大國」)。官は対馬国と同じ。300余里四方。竹、木、草むら、林が多い。3000の家族が住める。田畑はあるが足りず、市へいく。
また海を1000余里渡ると末廬国(まつらこく)に至る(「又渡一海千餘里、至末盧國」)。4000余戸が有る。草木が茂り、前を行く人が見えない。魚やアワビを捕るのを好み、皆が潜る。
東南へ500里陸行すると伊都国(いとこく)に到着する(「東南陸行五百里、到伊都國」)。長官は爾支(にき)、副官は泄謨觚(せもこ)と柄渠觚(へくこ)。1000余戸が有る。丗、王が居る。皆は女王国に属する。帯方郡の使者の往来では常に駐在する所。
東南に100里進むと奴国(なこく)に至る(「東南至奴國百里」)。長官は兕馬觚(しまこ)、副官は卑奴母離。2万余戸が有る。
東へ100里行くと不弥国(ふみこく)に至る(「東行至不彌國百里」)。長官は多模(たも)、副官は卑奴母離。1000余の家族が有る。
南へ水行20日で投馬国(とうまこく)に至る(「南至投馬國水行二十日」)。長官は彌彌(みみ)、副官は彌彌那利(みみなり)である。推計5万戸余。
南に水行10日と陸行1月で女王の都のある邪馬台国[2]に至る(「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」)。官に伊支馬、弥馬升、弥馬獲支、奴佳鞮があり、推計7万余戸。
その他の国 [編集]
女王国より北方にある、対馬国、一大国、末盧国、伊都国、奴国、不弥国、投馬国、邪馬壱国の他に、遠くに在って国名だけしか分からない国として斯馬国、己百支国、伊邪国、都支国、彌奴国、 好古都国、不呼国、姐奴国、對蘇国、蘇奴国、 呼邑国、華奴蘇奴国、鬼国、爲吾国、鬼奴国、 邪馬国、躬臣国、巴利国、支惟国、烏奴国、奴国[3]があり、女王国はこれら20数カ国を支配していた。日本列島の全てを支配した訳ではなく領域外の国々もあり、特に南の狗奴国の男王卑弥弓呼と不和で戦争状態にあった。
女王国の北方の諸国には「一大率(或るいは一支率)」という官が置かれて国々を監視している。一大率は伊都国にあり、魏の刺史のような役目を果たしている。伊都国は外交の中心地で魏や韓の国々の使節はここに停泊して文書や贈物の点検を受けて女王に送っている。
租税や賦役の徴収が行われ、国々にはこれらを収める倉がつくられている。国々には市場が開かれ、大倭という官がこれを監督している。 帯方郡から女王国に至るには、1万2000余里ある。
倭人社会の風俗、生活、制度など [編集]
「皆面黥面文身」というように男子はみな墨や朱や丹を顔や体に入れたり塗ったりしている。
古くから、中国に来た倭の使者はみんな自らを大夫と称している。
男子は冠をつけず、髪を結って髷をつくっている。女子はざんばら髪。
着物は幅広い布を結び合わせているだけである。
兵器は矛・盾・木弓を用いる。
土地は温暖で、冬夏も生野菜を食べている。
人が死ぬと10日あまり、哭泣して、もがり(喪)につき肉を食さない。他の人々は飲酒して歌舞する。埋葬が終わると水に入って体を清める。
倭の者が船で海を渡る時は持衰(じさい)が選ばれる。持衰は人と接せず、虱は取らず、服は汚れ放題、肉は食べずに船の帰りを待つ。船が無事に帰ってくれば褒美が与えられる。船に災難があれば殺される。
特別なことをするときは骨を焼き、割れ目を見て吉凶を占う。
長命で、百歳や九十、八十歳の者もいる。
女は慎み深く嫉妬しない。
盗みはなく、訴訟も少ない。
法を犯す者は軽い者は妻子を没収し、重い者は一族を根絶やしにする。
宗族には尊卑の序列があり、上のもののいいつけはよく守られる。
倭と魏の関係 [編集]
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【参考リンク1】:
卑弥呼と台与(『三国志』では壹與) [編集]
元々は男子を王として70 - 80年を経たが、倭国全体で長期間にわたる騒乱が起こった(いわゆる「倭国大乱」と考えられている)。そこで、卑弥呼と言う一人の少女を女王に共立することによってようやく混乱を鎮めた。
卑弥呼は鬼道を祭祀して人心を惑わし、既に高齢で夫は持たず、弟が国の支配を補佐した。卑弥呼は1000人の侍女に囲われ宮室や楼観で起居し、めぐらされた城や柵、多数の兵士に守られていた。王位に就いて以来人と会うことはなく、一人の男子が飲食の世話や取次ぎをしていた。
卑弥呼は景初3年(239年)以降、帯方郡を通じて魏に使者を送り、皇帝から「親魏倭王」に任じられた。正始8年(248年)には、狗奴国との紛争に際し、帯方郡から塞曹掾史張政が派遣されている。「魏志倭人伝」の記述によれば朝鮮半島の国々とも使者を交換していた。
正始8年(247年)頃に卑弥呼が死去すると大きな墳墓がつくられ、100人が殉葬された。その後男王が立てられるが人々はこれに服さず内乱となり1000余人が死んだ。そのため、卑弥呼の親族で13歳の少女の台与が王に立てられ国は治まった。先に倭国に派遣された張政は檄文をもって台与を諭しており、台与もまた魏に使者を送っている。
魏・晋との外交 [編集]
景初3年6月(239年)に女王は大夫の難升米と次使の都市牛利を帯方郡に派遣して天子に拝謁することを願い出た[4]。帯方太守の劉夏は彼らを都に送り、使者は男の生口(奴隷)4人と女の生口6人、それに班布2匹2丈を献じた。12月、皇帝はこれを歓び、女王を親魏倭王と為し、金印紫綬を授け、銅鏡100枚を含む莫大な下賜品を与え、難升米を率善中郎将と為し、牛利を率善校尉と為した。
正始元年(240年)に帯方太守弓遵は建中校尉梯儁らを詔書と印綬を持って倭国に派遣し、倭王の位を仮授して下賜品を与えた。
正始4年(243年)に女王は再び魏に使者として大夫伊聲耆、掖邪狗らを送り、奴隷と布を献上。皇帝(斉王)は掖邪狗らを率善中郎将と為した。
正始6年(245年)、皇帝(斉王)は詔して、帯方郡を通じて難升米に黄幢(黄色い旗さし)を下賜した。
正始8年(247年)、女王は太守王(斤+頁)に載斯烏越を使者として派遣して狗奴国との戦いを報告。太守は塞曹掾史張政らを倭国に派遣した。
女王位についた台与は掖邪狗ら20人に張政の帰還を送らせ、掖邪狗らはそのまま都に向かい男女の生口30人と白珠5000孔、青大句珠2枚、異文の雑錦20匹を貢いだ。
また、『日本書紀』の「神功紀」に引用される『晋書』起居註に泰始2年(266年)に倭の女王の使者が朝貢したとの記述があり、魏書陳留王紀によれば、この年、禅譲に先立ち東夷が朝貢したという記事があるので、この女王は台与と考えられている。魏に代って成立した晋の皇帝(武帝)に朝貢したものと考えられる。
倭人のその後 [編集]
3世紀半ばの台与の朝貢の記録を最後に、5世紀の義熙9年(413年)の倭王讃の朝貢(倭の五王)まで150年近く中国の史書からは倭国に関する記録はなくなる(ただし、晋の南遷以前には具体的な種族名を記載しない「東夷」朝貢記事が複数存在しており、その中には倭国の朝貢もあった可能性もあるが、今日ではそれを確かめる術はない)。この間を埋めるものとして広開土王碑がある、碑には391年に倭が百済、新羅を破り、高句麗の第19代の王である広開土王(好太王)と戦ったとある。日本の歴史では4世紀は「空白の世紀」と呼ばれている。
論争 [編集]
道程を、文字どおりに距離を測ると日本列島を飛び越えて太平洋の海の上になってしまうため、邪馬台国の位置や道程の比定を巡って論争が起きている。位置についての有力なものに畿内説と九州説がある。道程についても「連続説」と「放射説」がある(邪馬台国#位置に関する論争を参照)。
卑弥呼に関する記述から、卑弥呼は鬼道を司る巫女(シャーマン)である人物であり、邪馬台国は呪術国家とする見方がある。一方で、弟が政治を補佐したという記述もあり、巫女の卑弥呼が祭祀を司り、実際の政治は男子が行う二元政治とする見方もある(後の推古天皇と厩戸皇子との関係が例として挙げられる)。女王を戴いてたことから邪馬台国を女系国家と論じる者もいるが、卑弥呼以前は男王が立ち、卑弥呼の死後もまず男王が立ったと記述されていることから、異論も持たれる。
「魏志倭人伝」と『後漢書』倭伝との関係 [編集]
范曄が著した『後漢書』「東夷伝」に、倭についての記述がある。 その内容は「魏志倭人伝」に酷似する。したがって范曄の『後漢書』倭伝は、陳寿の「魏志倭人伝」を基に書かれたのではないかと考えられる。しかしその内容は微妙に異なり、『後漢書』倭伝には「魏志倭人伝」に全く書かれていない「桓霊間倭國大亂」等の記事もある。このことから『後漢書』倭伝は、魏志倭人伝の原史料を直接参照しているとする説もある。
後漢書の魏志倭人伝に対応する部分
魏志倭人伝と後漢書の比較
脚注 [編集]
^ 『後漢書』東夷伝に記載されている内容のほうが古いが、『後漢書』は『三国志』より後に書かれているため、内容と執筆時期が逆転している。
^ 現存する『三国志(魏志倭人伝)』の版本では、「邪馬壹國」、「邪馬一國」。5世紀に書かれた『後漢書(倭伝)』では「邪馬臺国」、7世紀の『梁書(倭伝)』では「祁馬臺国」、7世紀の『隋書』には魏志(魏志倭人伝)のいう「邪馬臺」(都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也)とある。壹は臺の誤りとする説が有力であり、臺に替えて台を用い「邪馬台国」とすることが多い。「邪馬壹國」説もある。
^ 先に詳細が記されている奴国と同一とする説がある。
^ 現行の『三国志』では景初2年(238年)とする。しかし姚思廉の『梁書』や『太平御覧』が引用する『魏志』では、遣使の年を景初3年(239年)とし、『日本書紀』の神功皇后39年(年の干支は太歳己未)の分注で引用される『魏志』も、明帝景初3年6月とする。魏が帯方郡を治めたのは、景初2年8月23日(238年)公孫淵が司馬懿に殺された(『三国志』魏志公孫淵伝)後であるため、通説では239年が正しいとされる
関連項目 [編集]
ウィキソースに三國志/卷30の中国語原文があります。ウィキソースに魏志倭人伝の原文があります。倭・倭人関連の中国文献
倭・倭人関連の朝鮮文献
邪馬台国(やまたいこく)
対馬国(つしまこく)
一支国(いきこく)
末盧国(まつらこく)
伊都国(いとこく)
奴国(なこく)
黒歯国
卑弥呼(ひみこ)
倭国大乱
外部リンク [編集]
『後漢書』東夷伝倭人伝
『後漢書』東夷傳
邪馬台国論
波濤万里 邪馬台国 論争
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【出展引用リンク2:引用終わり】以上の通り
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【参考リンク1】: 纒向遺跡説明会に1万2千人 :NHK奈良放送局 奈良のニュース:
http://www.nhk.or.jp/nara/lnews/06.html
纒向遺跡説明会に1万2千人 : 2009年11月16日 19時19分更新
邪馬台国が栄えた3世紀前半では最も大きい建物が見つかり、女王、卑弥呼の宮殿の可能性があるとして注目を集めた桜井市の纒向遺跡で、調査成果を紹介する現地説明会が15日までの2日間開かれ、全国各地から1万2000人が訪れました。
桜井市の纒向遺跡では、地元の教育委員会が行った調査で邪馬台国が栄えた3世紀前半では最も大きい建物の跡が見つかり、邪馬台国近畿説をとる研究者は、女王、卑弥呼の宮殿の可能性があるという見方を示しています。
古代史で最大の謎ともいわれる邪馬台国の所在地をめぐる論争に影響を与える第一級の発見とあって、15日までの2日間行われた現地説明会には全国各地からおよそ1万2000人の考古学ファンが訪れました。
多くの成果をもたらした調査は今月いっぱいでひとまず終わり、大型の建物などが見つかった遺跡の中心部の構造をさらに解明するため、来年、周辺の調査を行う予定だということです。
NHKでは、今回の纒向遺跡の調査について当初から密着して取材を行ってきました。
その調査の過程やコンピューター・グラフィックスで再現した建物の姿などを今夜7時半からの「グローズアップ現代」でご紹介します。
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